◆第2章◆ 選択できないこと
週末の金曜日。
いつも通り起き、いつも通り家を出る。違うのは、10分早く出て、バスで通勤することだけだった。
『バスで行くってことは、帰りに飲みだね?』
返事をせずにバス停へ向かう。
車内では誰もAIと会話しない。乗客たちは皆、誰も居ない空間に視線を落とし、指先だけを動かしている。
『ヒロ。今日こそヒルダを誘おう。レストランは予約済み。あとは承認するだけ』
空中に浮いた表示を無言でスワイプする。
『気が変わったら教えて。僕はいつでも君の味方だから』
返事の代わりに軽く目を閉じた。
定時で仕事を終え、向かったのはDan’s Bar。扉を開けると、奥からダンが顔を出す。
「最近よく来るな」
「先輩の料理が食べたくて」
「嘘つけ。グミしか食ってねえくせに」
「だからですよ、AIが食事しろってうるさくて」
笑いながらピクルスとウォッカが出される。
この店は妙な客が多い。
ヘッドセットを着けていない者、カードや現金で支払う者。
客の回転は異様に早く、さっきまでいた人間がいつの間にか消えている。
1時間ほど待っていると、奥から元気な声が聞こえる。
「おつかれさまでーす、シフト入りまーす」
現れたのはハナだった。黒髪に細い身体、美人というより愛嬌のある顔。
「先輩、ハナさんっていつから働いているんですか」
「ハナか、半年くらい前からかな」
ダンがニヤつく。
「おーいハナ、カウンター変わってくれ」
思わず吹き出してしまう。
元気な声と共に、ハナがカウンターに入る。
「こんばんは、私も一杯もらっていい?」
「どうぞ」
ハナは自分のカクテルを作り始める。
『ヒロ、ひとこと言った方がいいんじゃないか? この店の会計は不明瞭だ』
視界の端の音量バーを下げる。
「久しぶり」
「こちらこそ、いつも来てくれてありがとう」
覚えているか微妙な反応だ。
「どうしてもハナさんとまた話しがしたくて、先週のことが印象に残っててさ」
ハナが二杯目を作る手を止め、表情を引き締める。
「もしかしてヒロ…くん」
みるみるハナの顔が赤くなる。
「ごめんね、この前は私も酔っちゃっててさ。今日は大丈夫、これノンアルだから」
明るい笑顔で、ハナのグラスが口に押し付けられる。
そう、この笑顔だ。
この笑顔に会いたがった。
店が混み始め、会話は途切れがちになる。
奥からダンが戻ってきた。
「先週は大喧嘩してたのに、今日はいい雰囲気じゃないか」
「そういうんじゃないですよ。でも先輩、大丈夫ですか? お客さんとか怪しくないですか」
「お前、それはハナもってことか」
そうは思いたくないけど、確かにそれもある。
「いろいろと違法じゃないんですか? 仮にも先輩は元衛生局員ですよね」
「正しく生きるだけが人生じゃないさ」
「でも、良くはないでしょう」
ダンは肩をすくめながら店の奥に下がる。
「ハナ、このバカがアフター行きたいってよ。付き合ってやってくれ」
「えっ、ちょっと待って。私、入ったばかりだよ」
「いいって、定時まで居たことにしといてやるから」
裏で何か話している。
アフターの意味がよく分からない。
とりあえず、流れてきた決済情報を承認する。
店を出ると、赤レンガの町並みが更に赤く染まり、
二人の影を長く伸ばしていた。
ハナは髪を下ろし、店内に居たときより幼く見える。
エプロンを外しただけなのに、透明感がある。
「誘ってくれてありがと。でもいいの? 朝までのシフトだから結構したでしょ」
「大丈夫だよ、どうしても先週の続きが話したかったんだ」
「私がAIを嫌う理由とか?」
「うん」
「私は移民だからAIを信用してないだけ。だからヘッドセットをしてないの」
二人は歩き始める。
ラッキーは静かに道案内をしてくれる。
「でも、不便じゃない? 申請すれば貰えるんでしょ」
ヒロが進む方向とは逆に、ハナは自然に歩く。
「ヘッドセットってさ……常に見られてる気がして気持ち悪くない?」
「見てるって言ってもAIだよ。僕だって見てるし、街頭のAIカメラも。エトロフではトイレにもAIがいる」
「ははは、トイレの神様だね」
意味は分からないけど、少しイラっとする。
「私もさ、ここには仕事とか…いろいろ助けを求めて来たんだけど…さすがに何から何までAI任せって違う気がしてさ」
「AIは悪くないよ、サポートしてくれるだけだ」
「良い悪いじゃないの。信用してないの、ただ嫌いなの」
ゆっくり二人で歩き続ける。
ハナは暗くなりかけた空を見上げ、言いづらそうに言葉を選んでいる。
「じゃあさ、言葉を選ばずに言うけど。ヘッドセットってペットタグみたいで、AIが飼育員って感じがして気持ち悪いの」
思ったより強い言葉が出て、言葉を失った。
「もう少し言葉を選ぶなら……そうね」
とても穏やかに言う。
「優しいお母さんが常にいる感じかな」
これは少しわかる気がした。
「お母さんが一生面倒を見てくれるのが悪いわけじゃないんだけど、気持ち悪いって感覚もなくならないの。AIが人間じゃないから(見られてる)とは違うってこともわかってる」
ハナが歩みを止める。
「でも、お母さんと一緒にここに入る?」
モーテルの前で。
空はもう暗くなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます