◆第3章◆ 忘れていたこと
ハナの言葉が頭から離れず、昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じると、ハナの言葉がぐるぐる回る。
空が少しずつ明るくなると、自転車にまたがった。
なぜか遠くへ行きたくなった。
とにかく一人で。
ヘッドセットを着けずに外に出るのは、どれくらいぶりだろう。
「不便を楽しむのか……いや、バカを楽しむのが人間か」
楽しいかどうかもわからない。ただ、バカなのは確かだ。
ペダルを踏むたび、風が頬を打ち、髪を乱す。
速度も心拍数も分からない。
ARが重ねられた世界こそが、僕たちの世界だ。
でも、いま感じている世界も、本当の世界だ。
疲れて、道のわきに倒れこむ。
ヘッドセットを外して見る世界は、
外側からも内側からも、こんなにも情報に満ちている。
「なんで忘れていたんだろう」
寝ころびながら、顔を横に向けると花が咲いている。
ヘッドセットがあれば、花の名前が表示に出ていたはずだ。
「綺麗な花だ」
今、わかるのは、その花が綺麗だということだけ。
体を起こす。
湖畔の道を、ペダルを踏みしめながらまっすぐ進む。水面が朝の光を受けてきらきらと揺れている。
頭の中で地図を描こうとしてみるが、現在地の想像すらできない。
自分がどこにいるのか、どのくらい進んだのか、まるでわからない。
視界の先で、アンテナのようなものが動いた。
「よかった、人だ」
深く考えず声をかける。
「すいません、ちょっといいですか。ホントにバカな話なんですけど、道に迷っちゃって」
男はアジア系で、50代前後という雰囲気。
笑顔を返すが、言葉の端にわずかに警戒が混じっている。
「道に迷うって……兄ちゃん、不法移民じゃねぇよな?」
考えたら当たり前の反応だ、
ヘッドセットがないなんて、怪しいに決まってる。
「ごめんなさい。興味本位で、ヘッドセットなしでキャンプしようと思って」
男の表情から警戒心が少しとけて見えた。
「なんだよ、兄ちゃん。もしかして傷心旅か?」
当たらずとも遠からず、という感じなのが笑える。
「ここまでほぼ一本道だっただろ。回れ右すりゃ、すぐ街に着くさ」
確かにそうなのだが。今は、その一本道すら不安なのだ。
「そういや、兄ちゃん。腹減ってないか? よかったら昼飯でもどうだい」
男がそう言った瞬間、男が持つ“アンテナ”が大きくしなった。
男が持っていたのはアンテナではなく、釣り竿だった。
「ちょっと待って。釣りなんて」
普通に考えて、許可が出るわけない。無許可の釣りは犯罪だ。
「別に釣りくらいいいじゃないか」
「あなたのAIは何も言わないんですか?」
「このくらい大丈夫だよ。AIは密告なんてしないさ」
釣り上げられたのは、20センチほどの魚だった。
“生きている魚”をこんな近くで見るのは初めてだ。
「イワナだよ。まあまあのサイズかな」
男は魚をつかみ、針を抜くと、足元の箱に入れる。
中には同じように死んだ魚がいくつか並んでいた。
「残酷ですね」
自分でも驚くほど嫌悪感が隠せない。
「生き物ってのはこう言うもんだし、俺からはご馳走に見えるんだよ。まぁ、文化の違いってやつさ」
ハナの“気持ち悪い”という言葉が、ようやくヒロの胸の奥に落ちていく。知識と感情を一致させるのは難しいみたいだ。と言うか、無理なんだろう。
迷った末に言葉を絞り出す。
「その魚、いただいてもいいですか」
「おっ、食べてみるかい。でも兄ちゃんも共犯者になっちまうぜ」
男の隣に、持ってきたキャンプ道具を広げる。
そしてバッグから、真空パックされたサーモンを取り出す。
「そりゃ立派なサーモンだな」
「ええ、試作品なんです。本物を知らない僕が言うのも変ですけど……本物と同じくらいおいしいと思いますよ」
「こりゃキャンプ料理対決だな。うちの田舎じゃ、口から光を出したほうが勝ち、って決まりがあるんだよ」
意味が分からない。
ただ笑ってごまかす。
サーモンをフライパンへ乗せる。
ジュッと軽い音がして、バターとレモンの香りが立ち上る。
一方の男は、なにやら複雑な工程を経て調理している。
とても食べ物を扱っているようには見えない。
分かっていても、とても直視はできない。
とりあえず、自分の作業に集中した。
こちらの料理は、
サーモンのレモンバターのムニエル。
色も香りも上々だ。
「うまい! これが食品マテリアルからできてるって、信じられないな!!
湖を対岸まで走りたくなる美味さだ」
また奇妙な褒め言葉だ。
とりあえず笑ってごまかす。
男の料理もやっと完成する。
ヤマメの塩焼き。
あの工程からは想像できないほど、美味しそうな香りが漂う。
皿を受け取り、箸で一口。
身がふわっとほぐれ、歯ごたえはあるのにやわらかい。
ジューシーで、しかし後味は驚くほどさっぱりしていた。
「どうだい。ヤマメは。分類上はサーモンの仲間だったかな」
「本当に……おいしいです。僕のサーモンより何倍も。これ、もしかして――僕の口から光とか出てます?」
その返しに男は吹き出し、腹を抱えて椅子から転げ落ちた。
日が陰りだす。
そろそろ帰ることにした。
男に釣りをやらせてもらった。
結局、生きている魚には触れなかったけど、こんな経験をするとは思わなかった。
湖畔の道を逆方向に進むと、2時間ほどで街に着く。
行きは、もっと遠くまで行った気がしていたけど、
思ったよりも遠くはなかったのかもしれない。
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