“Eutopia, or a Gentle New World”

大玉寿

◆第1章◆ ユートピアの変わらない日常

 ジリリリリリ――。

 壁が震えるほどの音で目覚ましが鳴り響いた。


「起きたって、ラッキー。止めてくれ、近所迷惑だろ」

『ヒロが起きないからだよ。月曜日、7時50分。早く朝ごはんを食べないと』


 ベッドから身を起こし、大きく伸びをする。


「そんなに腹も減ってないし、グミでいいかな」

『またそれ? 最低でも三つは食べてよ。本当はちゃんとしたーー』

「ごめん、コーヒー淹れといて」


 小言を遮って洗面所へ向かう。顔を洗い、ヘッドセットを装着すると視界に【7:55】の表示。


『仕事、遅れるよ』


 慌てて自転車を担ぎ、階段を駆け下りる。

 外の空気は澄みきっていて、肺の奥まで冷たく染みた。ペダルを踏むごとに、ようやく思考が現実へ戻ってくる。





 エトロフ市衛生局は市の中心部にある。郊外と変わらぬ街並みに、高層ビルだけが増えている。


「おはようございます。今日はぎりぎりですね」

「おはよう」


 着替えを済ませ、朝礼へ滑り込む。無機質な上司の声が淡々と流れる。


「先週、二名が退職しましたが――」


 転職は日常だ。AIが適性に応じて職を勧め、皆、衣替えのように職場を変える。

(でも、衛生局は悪くない仕事だと思うんだけどな)


 連絡が終わると軽快な音楽が流れ、ラジオ体操が始まった。

「これって、何の踊りなんスか?」

 後輩が囁く。

「さあ。でも健康にはいいらしい」

 別の同僚が割り込む。

「第二ってのもあるらしいぜ。急にラップになるとか」


 笑い声の中で体操を終え、清掃車へ乗り込むと静かに走り出した。

「ラッキー、聞きたいことがある」

『なに』

「ダンの店のハナに、メッセージ送れないかな」

『無理無理。連絡先も不明。それに、あの店には行かない方がいい』


 刺すような口調だった。


「今日、やけに厳しいな」

『君が変なことを言うからだよ。あの店は衛生も会計も曖昧だ』


 それでも、ダンは大切な先輩だ。


『それより総務課のヒルダはどう』

「なんで今その名前が出るんだ」


 思わず前を見失い、シートベルトが警告音を鳴らした。


 衛生局の仕事は、街の清掃とごみ収集

(やりがいはある仕事なのに、な)


 だが思考は別のところへ滑る。

(今日、あのバーに寄れば、また彼女に会えるだろうか)





 昼過ぎに戻り、報告書をまとめれば業務は終わりだ。


「ヒロ、お先」


 気づけば、残っているのは自分だけだった。


 そっとコーヒーが置かれる。


「集中してますね。残っているの、ヒロさんだけですよ」


 顔を上げると、ヒルダがいた。

 胸の奥が、理由もなく騒がしくなる。


「書類が少し多くて」

「ヒロさんくらいですよ、ここまで丁寧なの」


 困ったような笑顔に、思わずこちらも笑う。


「そう言えばヒロさん、キャンプが趣味なんですって?」


 一瞬、言葉に詰まる。


「…近くの自然公園くらいですよ…」

「でも、自然の中で食べるご飯って、楽しそうです」

「温め直すだけの普通の食品ですよ」


 ヒルダは柔らかく微笑んだ。


「あんまり残業しすぎると怒られますよ?」


 軽やかな足音が遠ざかり、扉が閉まる。

 しばらく、その扉を見つめたまま動けなかった。


『ヒロ、キミは本当にバカだね』


 ラッキーが呆れた声で言う。


「分かってる。でも……」

『今なら追いかけて誘える』

「ヒルダさんには、僕よりいい人がいる」

『それは、君だよ』

「AIには分からないんだよ」





 帰宅後、湯船に沈み、天井を仰ぐ。

(行政が少子化対策で、AIを使ってのマッチングって聞いたことあるけど。もしかして僕と彼女を……)

 美人で、有能で、優しい。どう考えても釣り合わない。


 湯から上がり、再びヘッドセットを装着する。

『血圧、少し高いよ。水を飲んだ方がいい』

 いつもの声に少しだけ救われる。


 そして、


 いつもの変わらない日常が終わる。

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