第2話 虚無の荒野

 気が付くと、望は知らない空間に立ち尽くしていた。

 何もない、薄暗い空間。

 空は漆黒に覆われ、星一つない。

 地面には白い線で区切られた黒い正方形のタイルが敷き詰められており、それが見渡す限りどこまでも続いている。

 360度どこを向いても視界を遮るものは一切なく、真っ平らな地平線が闇の彼方に消える。

 どこかに光源がある訳でもないのに、その景色ははっきりと望の眼に映っていた。

 明らかに現実離れした人知を超える光景に、望は思わず身震いする。


 もしかして、これが死後の世界というやつなのだろうか。


 ——まさか、このままずっとこの場所で意識を保ち続ける、なんてことはないよな……

 

 どこまでも続く虚無の世界は永遠に対する恐怖を呼び起こし、嫌な想像を掻き立てる。


「安心せよ。そんなことにはならん」


「うわあっ!」

 

 突然、背後から低い声がして、望は驚いて小さく飛び上がった。

 咄嗟に振り向くと、望のすぐ目の前、一歩前に出ればぶつかりそうな距離に、視界一杯の赤い壁が迫っていた。


「ひっ⁉」


 情けない細い悲鳴と共に、望は腰を抜かしてへたり込んだ。

 続けざまの異常事態に驚愕と恐怖が先行して、脳の処理が追い付かない。

 しかし、それだけでは当然終わらない。

 恐る恐る望が上を見上げると、身長3メートルほどの巨漢が、般若のような顔をして、覗き込むようにこちらを見下ろしていた。


「ひぃいいい!」


 声にならないような音を喉から漏らしながら、腰が抜けた状態で後ずさる。

 心臓が感じたことのない速さで脈打っているのに、頭からは血の気が引いていく。全身の毛が逆立ち、奥歯がガタガタと震える。

 望のような普通な人間でも一目で分かる。今自分の目の前にいるのが人智を逸した何かである、ということが。


「おっと、これは済まぬことをした。現れる場所がちと近すぎたか」


 しかし、突如として望の前に現れたその大男は、意外なことに謝罪の言葉を口にすると、数歩後ろに下がった。

 5メートルほどの距離ができて、ようやく望は大男の全身を視界に収めた。

 望が赤い壁だと思ったものはどうやら男の来ている衣服のようだった。中国の伝統的な衣装に近い、赤と緑を基調とした衣。それを幾重にも纏い、垂れた裾が床にふわりと広がっている。3メートル程の背丈と恰幅の良い体躯。角ばった頭に長く伸ばした髭。堀の深い顔は怒っているようにも見え、大きなつり目と真っ赤な瞳がその威圧感を強調している。

 そして頭の上には服と同じ赤い布を用いた冠を被っている。


 その姿はまるで、地獄絵図に描かれる閻魔大王そのものだった。


「どうだ、これで会話ができるか」


 男が一言発するたびに内腑にずんと音が響く。低く、それでいてよく通る太い声だ。


「あ、あ、あ、あなたは……」


 まだ先程からの衝撃と、目の前の存在に対する恐怖から立ち直れていない望は、歯の根も合わないままに、何とか言葉を返した。


「ふむ。そうだな、我はこの世界の神とでも呼ぶべき存在だ。そして今は、死んだお前の行く末を決める地獄の沙汰の審判者でもある。言わば閻魔というわけだ」


 顔は怖いが思いの外口調は柔らかく、望はようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。


 ——死んだ。やっぱり俺はあの時死んで……


「さて、お前は先ほど、学友を救うために自分の命を懸けて飛び出し、電車にはねられて死んだ。大変に惨い、嘆かわしい事だ」


 大男——閻魔は手で顔を覆って大仰に天を仰いだ。


「普通であれば、この世界で生命が死んだとき、その魂は次に世界のどこかで生まれる生命に順に還ることになっている。つまり、何に生まれ変わるかは運次第というわけだ。しかし、折角人間というこの世界で最も知性の高い種族に生を受けたというのに、その価値を半分も活かせずに死んでしまうというのももったいない話だとは思わぬか?」


 顔を覆う指の隙間から、ギョロリと赤い目がこちらを見下ろす。


「故に、我はそんな者たちに対して、選択肢を与えている」


「せ、選択肢、ですか?」


「そうだ。我が与える選択肢。それは他の世界への転生である」


「そ、それってつまり、アニメとかでよくある異世界転生みたいな……?」


「然り。この世界は我が司っているが、他にも我以外の神が司る世界がいくつもある。その中の一つに転生するのだ。それも、生前の記憶は持ったまま。そして、赤子として一から生きるか、生前の姿を保って余生をやりなおすかも選ぶことができる」


 まだ状況と感情の整理が追い付かないものの、望は閻魔の言葉に湧き立つ興奮を覚えて身を震わせた。

 何ということだろう。まさかこんな機会が巡ってくるとは思わなかった。

 平凡な才能、平凡な容姿、平凡な人生。何も為せずに誰かの人生の脇役として消えていくはずだった自分が、自分を人生の主役たらしめることができる、そんな特別なチャンスが目の前にぶら下げられているのだ。


「さあ、選べ! この世の輪廻の輪に帰すか、輪廻から離れ、別の世界でやり直すか!」


「ちょ、ちょっと待ってください! 一つ、一つだけ質問させて頂けないでしょうか!」


「許そう。何だ」


「その……、転生した先の世界には魔法、とかもあったりするのでしょうか……?」


 こんな時に一体何を聞いているんだ、と言いたくなるかもしれないが聞かずにはいられない。折角転生するならちゃんとファンタジーな世界に行ってみたい。


 すると、閻魔はずっと険しかった表情を緩め、ニヤリと笑みを浮かべた。


「ふむ、お前は魔法が使える世界に行きたいのか? よかろう。その類の力が存在する世界はいくつか心当たりがある。それなりに見どころのある才覚を持てるようにも取り計らおう」


「い、良いのですか?」


「無論だ。お前は自身の命を賭して他者を救おうとして死んだのだ。これくらいの報いはあっても良かろう。他にも望みがあれば言うてみよ」


「あ、ありがとうございます! それじゃあ……、魔法があって、魔物と戦ったり、ダンジョンに潜ったりするような冒険ができる世界に行きたいです! 王国があるなら、地方貴族の三男とかが良いですね。暮らしには困らないけど裕福過ぎもせず、不自由なく普通に生きていけるような環境で、後継ぎとかの制約もなく、魔法の腕を磨きながら自由に生きたいです!あとは……」


 閻魔はうんうんと頷きながら望の希望を聞いていた。


「良かろう。すべてがそっくりそのまま望み通りというわけにもいかないが、できる限りは応えよう。それでは早速お前を転生させる。次に目覚めたときは赤子として産声を上げている事だろう」


 そう言うと、閻魔は目を閉じ、望に向かって両手を翳すようにすると、何か呪文のようなものを唱え始めた。

 おそらく転生に必要な儀式か何かなのだろう。


 望も目を閉じ、これから生まれ変わる世界に心を躍らせる。

 生前の意識を持って生まれ変われる。それだけでも特別なのに、魔法の才能ももらって創作物でしか在り得ない世界に行ける。


 魔法の才能で出世するもよし。現代知識で無双するもよし。この世界では凡人にしか成り得なかった自分が特別で溢れる人生を約束される。一体なんて幸運なのだろう。


 ——ああ、死んでよかった。


 閻魔の口から洩れる呪文のような言葉が途切れた。いよいよだろうか。

 きっとこれから意識が途絶えて、目覚めたら薔薇色の人生が幕を開くのだ。


 しかし、何秒経っても何も起きない。

 どうしたのだろう、何か問題でもあったのだろうか。

 一抹の不安に駆られて、望は目を開けた。

 だが、そこにあったのは眼前に迫る、閻魔の鬼のような形相だった。


「お前、今、死んでよかった、と考えたな?」


 低い、低いその声は確かな怒りを孕んでいた。

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