第3話 地獄の沙汰は異世界転生
「お前、今、死んでよかった、と考えたな?」
声が、出ない。
唐突に向けられた上位者の怒りに対して、捕食者を前にしたネズミのように、竦みあがって身体が動かない。
「奇跡のような確率を乗り越え、人間という希少な種族に生まれたというのに、目の前にある無限の可能性を取りこぼした事を後悔するでもなく、あまつさえ死んでよかっただと?」
「もっ、ももっ、もっ申し訳ございません!」
望は反射的に謝罪の言葉を述べた。
先ほどまでニコニコと頷いていたのに、急になぜこんなに怒りだしたのか理解が及ばない。だが今はとにかく閻魔の怒りを鎮めなければ。
しかし、閻魔は望の謝罪の言葉にさらに眉をひそめた。
「我はお前に期待していた。80億の人間の中でも治安の良い国に生まれ、衣食住に困ることなく、十分な教育を受けて育ったお前は、その先を切り開く可能性に満ち満ちていた。確かにこれと言った才は持っていなかったかもしれない。しかし、だからこそお前は何にでもなれた。好きなことに打ち込み、新たな可能性を切り拓く素地があったのだ。だというのに——」
怒りは濁流となって留まることを知らない。
「だというのに貴様は才が無いからと努力を諦め、ただ日々を消費して生きてきた。そして挙句の果てには自殺に等しい捨て身の行動。貴様はあの時、あの少女の命よりも、あの少女のために命を賭ける自分に価値を感じていたのだろう? さぞかし気持ちの良い死にざまであったのだろうな?」
閻魔は見透かしたように望の行動原理を暴き立てる。あまりにも容赦のない言葉に、しかし言い返す言葉は見つからない。
「貴様の行動にはただの一つも価値が無かった。何も生み出さず、何も変えられず、誰の心も動かさない。命と引き換えにしたあれですらそうだ」
そう言うと閻魔は右腕を上げて宙にかざした。その手が指し示した中空に、一つの映像が浮かび上がる。
そこには見覚えのある校舎が映っていた。
夕暮れに赤く染まる建物を見て、望はそれが自分の通う高校の校舎裏であるとすぐに気づいた。ガラの良くない生徒がたむろする場所で、望自身はほとんど足を運んだことが無い。
映像の中には4,5人の生徒が映っており、真ん中にいる誰かを蹴りつけていた。暴行の被害者は女子の制服を着ていて、蹴られた拍子に大きな丸メガネが地面に落ちた。
そこまで見てようやく気付く。殴られていた少女は山澤優香、望が己の命を捨てて守った命であると。。
その彼女が、蹴られ、殴られ、唾を吐かれ、それを見てゲラゲラと笑われる。
「なんだよこれ……」
「それがこやつの日常だ。お前が助けたと思っているこの女は毎日のようにいじめを受けておった」
映像は次々と切り替わり、しかしその全てに一人の少女に対する悪逆非道が映し出されていた。ある日には弁当をひっくり返され、ある日には教科書を破られ、ある日には靴の中に毛虫を入れられていた。移動教室のたびに物が無くなり、水泳の日には下着が消えた。週に一度ほど、校舎裏に呼び出されては殴られる。タバコや虫を食べさせられ、水を掛けられる。
来る日も、来る日もその毎日は変わらない。
「こやつは強く賢かった。力では叶わないことを悟り、自分の身に降りかかる火の粉を振り払うことなくじっと耐えていた。そうすればいつかは解放されるだろうと希望を持ってな。丁度一年は持ったな。しかしその類まれなる忍耐力も必ず限界を迎える。大切にしていた眼鏡を割られ、制服を汚され、尊厳を踏みにじられて、先の見えない己の人生に絶望した。そしてついに、駅で飛び込み死のうと決意したところを貴様に邪魔された、というわけだ」
映像が切り替わる。山澤優香がフラフラと線路に飛び込もうとし、それを助けようと飛び出す望。ホームに投げ出される少女の肢体と電車に吹き飛ばされて血飛沫を上げる少年の死体。
「やめてくれ……」
思わず小さく声が漏れる。
——こんな事俺は知らない。俺はただ、自分の目の前で未来ある誰かが死ぬくらいだったら、自分が死んだ方が良いと思っただけで
「こやつは最後まで迷っておったようだぞ? 人として生まれ落ちた奇跡を手放し、何も為せずに消え果てることを。恐怖し、葛藤し、震えていた。足を踏み出したその瞬間ですら」
あの時彼女は確かに震えていた。肩を震わせ、足を竦ませ、それでも足を踏み出すしかなかったのだ。引き下がる道は崩れ去り、断崖絶壁を背にした彼女には、目の前に足を踏み出すしか道は無かった。
あれだけ辛い思いをしながら、死にたいと望みながらも最後の最後までそれを拒む心を手放さなかった。
それに引き換え望はと言えば、普通の大人になって消えていくくらいなら、いっそ華々しく死んだ方がましだと、そんな軽い足取りで飛び出したのだ。
「貴様には分かるまい。自分の日常が平凡であると盲目し、その傲慢な妄想で不都合な事実から目を逸らしていた貴様には。己が境遇を嘆き泣き腫らした瞳も、貴様の目には安堵の落涙にしか映らなかったのであろう」
死の間際、望の眼に映った少女の表情が蘇る。あの時、彼女の瞳には本当は何が映っていたのだろうか。
「死を渇望した人間が死に損ない、代わりにそれを助けようとした者が死ぬところを目の当たりにする。一体全体どんな気分であったろうな」
映像がまた切り替わる。今度は夜の道を山澤優香が一人歩いていた。
あの後、家に帰る途中の道だろうか。その足取りは重く、俯くつむじが月に照らされる。
やがて彼女の帰路は太い道路に差し掛かり、近くにあった歩道橋に登った。下の道路では夜の市街地を無数の車がせわしなく駆け抜けている。
ふと、その足が橋の中央で止まる。彼女は欄干に体重を預けて空を見上げ、ビルの隙間から覗く三日月を眺めた。
「おい、まさか……?」
嫌な予感がして、画面越しだというのに届かない声が漏れた。
10秒ほど経っただろうか。彼女はゆっくりと顔を下ろした。頬を伝う涙の筋が、月明かりに反射して白く瞬く。
今度は震えていなかった。
安全性を担保するには少し高さの足りない手すりは軽々と超えられ、少女の身体がふわり宙に浮く。
映像からは音は聞こえないが、肉が潰れる音が確かに望の耳には聞こえた。
「うえっ、おおぉぇ……!」
反射的に望の胃が蠕動するが、吐き出すものは何もない。
鈍く痛む腹を抱えて、望はうずくまった。
「見たか。これが貴様の行動の結末だ。貴様は何も為さなかったし何も為せなかった。最後に助けようとした命さえ、それを拒み、死を選んだ。お前の全てが無駄だったのだ」
頭上から降りかかる声は冷酷で、一切の容赦というものが欠如していた。
「これでもまだ死んでよかったなどとふざけた口が聞けるのか? この世界には、否、別の世界にも、死ぬより辛い思いをしてなお生きようと前を向くものが、そしてそれすら叶わず死んでいくものが沢山いるというのに、恵まれた貴様が死に救いを感じるなど笑止千万! 普通というものの持つ計り知れない価値に貴様が値を付けるなど烏滸がましいにもほどがあるわ!」
烈火のごとき怒りが迸り、望の身を焦がす。その言葉に呼応するかのように、辺りの地面が割れてマグマが湧き立ち、広がっていく。
熱風が肌を焼き、赤熱する火の粉が周囲を照らす。
永遠に続く暗闇に閉ざされていた空虚な空間が、見る間に地獄を体現する灼熱の世界に変貌を遂げた。
「せめて望みを叶えてやった上で、我の目の届かない別世界に飛ばしてしまおうと思っていたのだが、気が変わった。貴様には何も与えない。我が知る限りで最も過酷な世界に貴様を飛ばしてやる。そこで貴様の言う普通がどれだけ尊いものであったかを胸に刻み、自分の愚かさを嘆きながら野垂れ死ね」
閻魔が頭上に向かって腕を振るう。
その動きに呼応するように何もなかった中空に巨大な門が出現した。
朱色を基調とした門は黒い瓦屋根で覆われており、重厚な扉には見たことのない文字がびっしりと刻まれている。
地鳴りのような音を響かせながら扉が開く。扉の奥には今いる空間よりも暗い、完全な闇が口を開けていた。
閻魔が無言のままに翳した腕を振り下ろすと、扉の奥に向かって風が吹き込み始めた。その勢いは瞬く間に強まり、辺りに噴出していたマグマや岩を次々と吸い込み始める。
その場にいた望も例外ではなく、踏ん張りも虚しくその足が宙に浮いた。
「ぐっ、うわあっ!」
扉が閉まる音と共にすべてが闇に包まれる。
「貴様には次は無い。その扉の先で死んだ時は、この虚無の世界で永劫の時を数えることになるだろう。せいぜい最後の生を楽しむことだ」
遠くに聞こえる閻魔の言葉と共に、望の意識は消滅した。
『——転生プログラム、起動』
『——レベル4クリアランスによるアクセスを確認——認証。個体名ノゾミ・トキワを第8基底次元から第289基底次元へ転送します』
『——転生用リソースパッケージのダウンロードを開始。追加のオプションを選択してください』
『——警告。第289基底次元はクラスS警戒次元に指定されています。基本パッケージのみでの転生は推奨されません。それでもよろしいですか?』
「——認証。設定を保存。転送を開始します」
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