平均値転生 ―罰として転生した世界を全力で生き抜く―
水面 平
第1話 凡庸な日々の歪み
普通とは何か。
毎朝7時に起きて、食パンと目玉焼きの朝食をとり、満員電車に乗って学校に行く。眠たい授業を受けて、部活に行って暗くなるまでテニスをする。家に帰ると風呂が沸いていて、暖かいご飯を食べる。宿題を済ませてちょっとテレビゲームをして、布団に入る。部屋の電気を消してからも友達とLINEしたり動画サイトでショート動画をスクロールしたりしているうちに気が付けば日付が変わっていて、仕方なく今度こそ眠りにつく。そんな一日の繰り返し。
勉強は学年の平均くらい。国語はちょっと得意だけれどそれでも上位20%に入れるかどうかと言った具合で、苦手は数学。これはいつも赤点ギリギリだ。でも赤点は取ったことがない。
部活はテニス部。運動は部活をしているから、何もしていない人よりは多少動けるけれど、お世辞にも運動神経が良いとは言えない。テニスも部内で中の下といった腕前だ。
容姿は可もなく不可もなくと言ったところで、これと言った特徴は無い、と自分では思っている。身長170センチ、体重62キロ。高校1年生にしては少しだけ大きいだろうか。伸び始めたのは最近だから成長期がちょっと早いのかもしれない。
漫画やゲームが好きで少しオタクっぽいところがあるけれど、何時間も熱く語れるほどではない。他にこれと言った趣味も無く、流行りの音楽を聴いて、流行りの映画を見て、流行りの本を読んでは同級生との話のタネにしている。
それが常盤望という人間にとっての普通だ。
見る人が見れば恵まれていると思うかもしれないし、別の人からは貧相だと思われるかもしれない。しかし、他人の目からどのように映ろうが、これが常盤望にとっての普通であり、当人はそれを特に抜きんでたところの無い平凡な生活であると評価していた。
きっと自分は全世界の同世代の中で比べれば、割合恵まれている方なのだろう。そのことを頭では理解しつつも、身の回りの同世代と比べて誇るべきところが無い事が悩みの種だった。
その傲慢がどのような結果をもたらすのか、考えもせずに。
「また明日な、望!」
「おう、お疲れ。また明日!」
常盤望は軽く手を上げて、自分とは反対方向の電車に乗り込んでいく同級生を見送った。
一人になった望はホームの最前に立ってすっかり暗くなった空を見上げる。
今は午後7時。9月も終わりかけのこの時期にもなると半袖では少し肌寒い。
周りには望と同じ制服の学生がまばらに並んでいる。
今日も疲れた。
疲れている時はえてして取り留めのない思考が流れ始めるもので、今日の望もその例にもれなかった。
——帰ったらまずは風呂だな。晩御飯は何だろう。肉だといいな。明日は英語の小テストがあるけど、復習はもういいや。早くゲームしたい。そういえば、今日のあのサーブめっちゃ良かったな。あれを毎回決められるようになれば……、いや……。
そして疲れている時の取り留めのない思考は得てしてネガティブな方向に流れやすいものだ。
——それでも団体戦のメンバーに選ばれるなんて土台無理なんだよなぁ。結構頑張ってると思うんだけど、やっぱり才能が無いんだろうな。
こんなことを言ったら、きっと才能ある者たちは反論するのだろう。才能やセンスだけではないと。血のにじむような努力をしてようやく手に入れた力なのだと。しかし、努力をするのだって才能だ。自分の力を信じて先の見えない道を進む勇気は自分のような凡人が持ち合わせるものではない。
やってみなければ分からないと人は言うが、その言葉に乗せられた挙句、積み上げたものが全て無駄だったと言われる恐怖は、その足を竦ませるのに十分な理由だと望は思う。リスクを事前に察知し防御姿勢を取るのは至極合理的な反応だ。たとえそれが夢見る姿とは遠くかけ離れていようとも。
——俺にも何かあったらいいのにな
望むだけで行動しなければ何も手に入らないのはよく分かっている。それでも時たまこんな空虚な願いを浮かべてしまうのは、やはり自分のどこかに諦めきれない気持ちが残っているからだろう。
「——お客様にお知らせいたします。2番線に参ります次の電車は、北武線での人身事故の影響を受けまして、5分程遅れて運転しております。お急ぎのところ恐れ入りますが、到着まで今しばらくお待ちください」
電車の遅れを告げるアナウンスに望は顔をしかめた。疲れているから早く帰りたいのに。
人身事故だなんて迷惑な。どうせ借金を抱えて首が回らなくなった奴が飛び降りでもしたのだろう。死ぬなら人のいない山奥かどこかでひっそり死んでほしいものだ。
ふと、目の前に横たわる線路に視線が落ちる。
飛び降り自殺をする瞬間の人間は一体どんな気分なんだろうか、と取り留めのないネガティブシンキングが矛先を変える。目前に迫る明確な苦痛と死の予感に絶望し、恐怖するのだろうか。それとも走馬灯の中でやり残したことや思い残したことを思い出して、自分の選択を後悔するのだろうか。もしかしたら、絶望のどん底から無に帰るマイナスからゼロへの高揚感を一瞬のうちに経験して、これまでにない幸福を経験するのかもしれない。
経験者はモノを言わないから、自分で試す以外にそれを経験することはできないが、きっと人生の中で最も鮮烈で極端で、神秘的な体験に違いない。
時おりホームの端から線路を眺めていると、自分が下の線路に引き寄せられているような気分になることがある。このままひょいと身を投げ出してしまいたくなるようなそんな衝動に駆られるのだ。もしそれで本当に飛び込んで、やってきた電車に轢かれて死んだら、一体どうなるのだろうか。親や友達は悲しむだろうか。
亡くなったその日は泣いてくれるかもしれない。その年の終わりには墓参りに来てくれるかもしれない。年に一度は思い出してくれるかもしれない。でも、時間が経っていく毎に、身近だった人からも、自分という存在は薄れて行って、きっとそのうち忘れられていくのだろう。
常盤望という人間は、他者の人生に刻み込まれて生き続けられるような、特別な人間ではないからだ。
——それなら、今日死んだって良いかもしれないな。
きっと自分が生きていても、何かを成し遂げることは無いだろう。平凡に生き、普通に笑い、ありきたりに悲しみ、月並みの幸せに満足して、ありふれた死を迎えるのだろう。
物語で語られることもなければ、伝記も残らない。教科書に載ることもなければ、記事にだってなりはしない。
誰の記憶にも残らない、その他大勢の中の一人。
それなら、自分が生きている意味はあるのだろうか。
——なんてね。そんな馬鹿馬鹿しいことを考えても仕方ないのに。
鎌首をもたげた希死念慮を、望は鼻で笑うように押しのける。
望はそんな理由で死のうとしたりはしない。なぜなら望は凡人だから。普通の人間はそんな当たり前の、ありきたりな絶望で死を選べるほど、割り切った性質を持ち得ない。
「——お待たせいたしました。まもなく2番線に電車が参ります。危ないですから黄色い線の内側で離れてお待ちください」
やっと来たか、変なことを考えていたせいか、ただ立っているだけなのに、数メートル先の線路の方に、本当に不思議な力で引っ張られているような気がする。
遠くに自分の待つ電車のライトが見えて、それがまた誘蛾灯の如く自分を誘っているように思えた。
電車の来る方に目をやった拍子に、一つ隣に並ぶ列が目に入った。一番前に立っていたのは望と同じ学校のジャージを着た女子生徒だった。
よくよく見ずとも見覚えがある。同じクラスの山澤優香だ。胸元までかかるような長い三つ編みのおさげと大きな丸メガネが印象的な、典型的な根暗っ子。
望とは特に仲がいいわけでもなくロクに話したこともない。顔を合わせれば挨拶をするくらいの、クラスメイトの中では一番疎遠に近い人物だ。
しかし、彼女がこんな時間に、しかも制服ではなくジャージで帰っているなんて珍しい。運動部に入っているとは聞いたことが無いし、見た目から想像できる通り、運動も得意ではなかったはずだ。
しかも、なにやら様子がおかしい。
あまりじろじろと眺めて目でもあったら気まずいので、近づいてくる電車を眺めるふりをしながら、横目で彼女を観察する。
胸の前で両手を固く握りしめ、肩を丸めて縮こまるようにしている。その身体は微かに震えており、俯いた頭から垂れた三つ編みが力なくゆらゆらと揺れていた。
列に並ぶ周りの人たちは、彼女の放つ異様な雰囲気に気付いてさりげなく距離を取っていて、一人だけ浮いた位置に立つ姿が、よりその怪しさを際立たせている。
これから自殺しようとしている人はこんな感じなのだろうか。実物を見たこともないのにそう思った。
“まさか”と“いやいやまさか”が相殺して望の思考を妨げる。
その時だった。山澤がふらりと、一歩前に出た。
乗り込む準備をするには早い。電車はまだホームの端に入り込んだばかりだ。
「危ないのでお下がりくださーい!」
駅員からの注意がスピーカーから飛ぶ。しかし彼女はまるでそれが聞こえていないかのように、もう一歩、足を踏み出した。
もうあと一歩前に出ればその先に床は無い。
——それは流石にやばいって!
ようやく望の脳が事態の緊急性を認識した時、既に山澤の身体は半分ホームの外に倒れかかっていた。
——どうしよう
その逡巡と裏腹に、望は気付けば彼女に向かって飛び出していた。
山澤が完全に落下する寸前、自分でも信じられない反射神経でその腕を掴む。
「うああああ!」
そのまま全力で腕を引き、少女の身体をこちら側へと引き戻す。
火事場の馬鹿力というやつは実在したらしい。山澤はホームの端に投げ出されて鈍いうめき声を漏らした。
良かった。と望は内心で息を吐く。
だがしかし、一拍して望は気付く。
その代償として自分の身体が宙に浮いているという事に。
前に飛び出した勢いのまま人間を引っ張り込んだことで、体のバランスが崩れ、そのまま入れ替わるように自分がホームの外に飛び出してしまったのだと、アドレナリンに溺れた脳が状況を告げる。
腕を引いた反動で体が半回転し、背中から線路へ落ちていく。
背中から腰、そして頭に鈍い衝撃。
何とか起き上がろうとするが力が入らない。
キーンと高い耳鳴りがして周りの音も聞こえない。
電車の白いライトが真横から望を照らす。
——あれ、もしかして、死ぬ?
ホームの方に視線を向けると、身を震わせながら起き上がろうとする山澤と目が合った。
ヒビの入った丸メガネの奥で、彼女の眼は赤く腫れていた。
山澤の焦点が望に定まり、しかしまだ状況を飲み込めていないようで、呆けた表情のままこちらを見つめている。
きっと次の瞬間には、彼女の顔は恐怖に歪むのだろう。
だから、望は笑った。
——大丈夫。きっと君の方が、僕より有意義な人生を送れるはずだ。
つんざくような悲鳴がぼんやりと鼓膜を揺らす。
そして衝撃とともに、望の意識は黒に染まり、弾けて消えた。
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