第32話 深層

平成十二年 初冬


黒川が倒れたのは、

事故調査が一段落した、その翌週だった。


逃げた会社の船が難破し、

原因調査をするのは、黒川電装。

しかも、無料で。

その夜、黒川は帰宅せず、工場の休憩室で横になった。


天井の蛍光灯が、やけに白かった。

目を閉じても、線が浮かぶ。

回路。端子。指定したはずの素材。


——あそこを削ったら、持たん。


何度も、頭の中で同じ言葉が繰り返される。


翌朝、黒川は、立ち上がれなかった。


胸の圧迫感と、強いめまい。視界が、斜めに傾いた。


救急車の中で、遠くから、華の声が聞こえた。


煙突も、クレーンも、見えない。ただ、冬の空が広がっている。


目が覚めると、病院のベッドに横になっていた。


華が、心配そうに顔をのぞきこむ。


医師が言った。


「過労とストレスです」

「しばらく、安静にしてください」


黒川は、何も反論しなかった。

自分が倒れた理由は、分かっていた。


怒りではない。

悔しさでもない。


正しいことを、

正しいと言えなかった時間。

それが、少しずつ、身体を削っていた。


病室のテレビでは、

太平洋沖で二百十六人が乗った客船が消息不明。ニュース速報が流れていた。


翌日、朝のニュース。


―― 太平洋沖で、客船事故 ――


「乗客、乗員合わせて百十八名が、重軽傷……」


アナウンサーの声は、淡々としていた。感情を挟む余地がない数字だった。


船は、海外の造船会社が建造した客船だった。

日本船籍ではない。


原因は、「調査中」。


非常電源の喪失。

操舵系の停止。

荒天による船体動揺。


聞き慣れた言葉が、

順番に並ぶ。


「沈没は免れましたが、

 船体は大きく損傷しており、

 航行の安全確保のため、

 曳航のうえ、処分される見通しです」


沈められる。


その一言で、

すべてが終わる。


——海の底に行けば、誰にも分からない。


誰も答えなかった。


テレビには、同じ型の船内の写真が、

一瞬映った。


「この制御装置……」


言いかけて、口を閉じた。


三日後、船体は、深海へ沈められた。


部品は、回収されない。


公式発表は、「天候不順による複合的要因による事故」。


それ以上、踏み込まない。


その夜、病室のテレビも、くりかえし同じニュースを流していた。


黒川は、ベッドに横になったまま、

音だけを聞いていた。


画面は、見ていない。


非常電源。

操舵系。

結露。

塩分。


頭の中で、

言葉だけが並ぶ。


胸の奥で、

そう思った。


蒼ヶ崎で起こった

貨物船事故に、似ていた。


だが、黒川は、何も言えない。言う立場にも、いない。


この事故に、黒川電装も、蒼ヶ崎造船も、関係ない。


正しさは、誰にも届かないまま、

太平洋の底に沈んでいく。


翌朝の新聞は、こう締めていた。


「同型船については、順次点検を行う」


点検は、する。

だが、思想は、点検しない。


病室の窓から、冬の空が見えた。


雲は高く、遠い。


黒川は、目を閉じた。


一度、現場を離れたら、簡単には直せない。途中で止まったら、命に関わる


それは、

誰かに評価されるための言葉ではない。


ただ、帰ってこられなかった人がいる。


その事実だけが、残った。


海は、今日も、静かだった。




平成十二年十二月二十四日。


街は、家路を急ぐ人々であふれていた。

手にはクリスマスケーキ。

寒空の下なのに、どの顔もどこか浮き立って見える。


——東京電装・宇宙開発準備室。


試験制御盤の前で、佐野は真新しい図面を広げていた。

静かな室内に、機械の冷たい唸りだけが響いている。


その時、電話が鳴った。


「室長……黒川様、という女性の方からお電話です」


(……華さん?)


受話器を取った瞬間、震える声が耳に触れた。


「……先ほど、父が亡くなりました」


時間が止まったようだった。


視界が、ゆっくりと滲んでいく。


佐野は、図面の上に落ちた一滴の涙を見つめた。

それはすぐに二滴、三滴と広がっていく。


「社長……」


声にならない呟きが喉から漏れた。


「一緒にロケットやろうって……言ったやないですか……」


図面の上に、ぽたぽたと涙が落ちる。

インクの線が、にじんで揺れた。


クリスマスイブの夜は、静かに、長くふけていった。


—— 第二部 黒川電装編 終わり







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