第31話 奇跡の生還
翌日、蒼ヶ崎造船の技術者が、基板を見つめたまま、恐る恐る聞いた。
「……原因は?」
黒川は、基板を元の位置に戻した。
「設計ミスやない」
技術者の眉が、わずかに動く。
「……」
「施工ミスでもない」
周囲の空気が、さらに重くなる。
黒川は、制御箱の中を指した。
「原因は、原価を削ったことや」
技術者は、唇を噛んだ。
「塩分を含んだ湿気。結露。振動。嵐」
黒川は淡々と続ける。
「この条件で、この素材は持たん」
技術者は、何も言えなかった。
貨物船が岸壁に乗り上げるという大きな事故ではあったが、幸い、乗組員全員の無事が確認された。新聞は、「奇跡の生還」と大々的に報じた。
蒼ヶ崎造船の中では、本当の原因が最後まで表に出ることはなかった。
事故対応の打ち合わせに呼ばれたのは、現場の技術者と担当役員だけだった。
問題の制御基板は、本社の役員会議室の端に置かれている。
技術者は、基板を見て分かっていた。図面は、黒川電装のものだ。
線の引き方も、思想も。
だが、材料が違う。指定されていない安価な部品が、いくつも使われている。
「これは……」
技術者は、口を開いた。
「確かに、黒川電装さんの設計図面ではありますが……材料が、部品表と明らかに違います。原価を落とした部品です。嵐の条件では、持ちません」
担当役員は、黙って聞いていた。事実だった。
役員は、しばらく考えてから言った。
「幸い、怪我人は出なかった」
技術者は、言葉を止めた。
「船も戻ってきた。新聞も、“奇跡の生還”と報じている」
役員は、資料を閉じた。
「大事にする話ではない」
技術者は、もう一度だけ言った。
「少なくとも、黒川電装さんの設計ミスでは……」
役員は、静かに首を振った。
「天城君、そこは、これ以上触れない方がいい」
ベテランの技術者は、それ以上、何も言えなかった。
数日後。
街では、「黒川電装の設計が甘かったらしい」という噂が、当たり前のように流れていた。誰が言い出したのかは、誰も知らない。
新聞には、嵐の写真と一緒に、こう書かれていた。
―― 奇跡の生還
荒天の中、乗組員全員無事 ――
原因には、触れていない。
港の酒場で、誰かが言った。
「死人が出んで、よかったやないか」
別の誰かが、続ける。
「設計ミス言うても、船は戻ってきたんやし」
それで、話は終わった。
◇
事故のあと、工場は急に静かになったわけではなかった。音は、まだあった。旋盤も回るし、溶接作業もある。
照明も、いつも通り点いている。ただ——音の「間」が、増えた。
午前中、トラックが一台、工場の前を通り過ぎる。止まらない。
以前なら、材料資材の納入の時間だった。
昼前、事務員が伝票の束を机に置く。
「……今日は、これだけです」
三枚。全部、保守と点検、修理。新造船の案件は、あれ以降ない。
午後になると、ベテラン職人が手を止めて時計を見る。
「……もう、おわりです。なにか作業ありますか」
「そうやな。今日は、もう帰っていいから。また、明日な」
社長は、明るく言ってみせた。
夕方。事務員が持ってきた請求書の封筒が、目に見えて薄くなった。
数字は、見なくても分かる。封筒の軽さで、減ったことが、はっきり伝わる。
事務員が、ぽつりと言う。
「……事故の話、まだ、効いてますね」
「社長、佐野さんに相談されてみたらどうです。仕事、回してくださるかも」
「それは、あかん。俺は、あいつを解雇した人間や。こっちからは、頼めん」
「そうですか……このままだと……」
事務員は言いかけてやめ、「今日は、失礼します」と言って足早に去っていった。
効いているのは、事実ではなく、噂だった。設計が甘いらしい。
危なかったらしい。関わると、面倒らしい。
誰も、確かめに来ない。確かな技術があるのに、電話が鳴らない。
たまに鳴るのは、問い合わせだけだった。
「今日中に、見積書をお願いします」
「修理できるだけ、安くお願いします」
その夜、工場の灯りが、一つ消された。
黒川電装は、止まったわけではない。
ただ、少しずつ、「呼ばれなくなっていった」。それが、一番、きつい減り方だった。
―― 第31話 了 ――
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