第8話 再出航

土曜日の朝、舶灯館の玄関前に、一人の初老の男性が立っていた。

 背筋を伸ばし、ゆっくりと帽子を取り、深く頭を下げる。


「料理長さんが辞めたと聞いてね。

 どうしても、ありがとうって伝えたくて来たんだ。


 あの人の料理は、この街の誇りだった」

 その言葉は、静かだが重みがあった。

 千尋の胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 蓮も隣で、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 

男性は穏やかに微笑んだ。

「こちらこそ。

 ——灯り、残してくれてありがとう」

 そう言って、内ポケットから一通の封筒を取り出す。


「この手紙、料理長さんに渡してくれないか」


 便箋をそっと差し出し、男性は静かに踵を返した。

 朝の空気を切る足音が、商店街へと消えていく。


 その背中が見えなくなるまで、誰も動かなかった。


 ◇


 午前十時。

 昨日SNSで予約した、観光ビジネス科の高校生3人が元気よく頭を下げた。


「チェックインお願いします!」


 若い空気が、旅館の玄関にふわりと広がる。


「部屋は広くなくて、食事も素泊まりだけど……」


「いいんです!ここに一度泊まりたかったんです!」


 千尋は一瞬、言葉を失った。


「……ありがとう」


 そう言った瞬間、涙がこぼれそうになったが、ぎりぎりで飲み込む。

 泣くわけにはいかない。今はまだ。


 そこへ、瑠夏が顔を出した。


「千尋さん、朝ごはん、やってみようよ」


「え? でも、料理長がいなくて……」


「作るんじゃなくて、“届けてもらう”んだよ」


 瑠夏は、丁寧に包まれた大きな紙袋を掲げて見せた。袋の口は、きちんと折り目が揃っていた。


「さっき、商店街の食堂にお願いしてきた。

 『朝の定食セット、五つだけ分けてください』って」


 紙袋の中からは、出汁と魚の香りがほのかに立ち昇っていた。


「地元の魚と味噌汁。

 “灯りがついたなら、うちも照らさなきゃな”って……

 店主さん、泣きそうだったよ。

 “そう言うことならぜひうちでお願いしますって」


 千尋の指が小さく震えた。


「そんな……お願いなんて……」


「お願いじゃない。“連携”。

 観光ビジネス科で習ったこと。

 地域は、ひとつが光れば、全部光る。

 ——止まってる手の灯りだって、またつけられる」


 蓮は、瑠夏をまっすぐ見つめた。


「すごいな、君は」


「すごくないよ。ただ——

 大人が見ないで諦めた未来を、私たちは諦めたくないだけ」


 その言葉は、静かだが、確かな強さを含んでいた。


 ◇


 広間に朝食を並べると、

 魚の香りと味噌汁の湯気が、薄暗い部屋にふわりと広がった。


「いただきます!」


 高校生たちの明るい声が響く。


「うまっ……!」

「やっぱり蒼ヶ崎の魚、最強だわ」

「旅館の空気がめっちゃ好き」


 その声が、舶灯館の壁に跳ね返り、ゆっくりと旅館全体に満ちていく気がした。


 千尋は思わず蓮を見る。

 蓮も千尋を見返した。


「灯りが——戻ってきたな」


「うん……戻ってきた」


 胸の奥で、何かがそっと灯る。


 ◇


 広間の片隅で、瑠夏はスマホ画面を見つめていた。


《地元メディアから取材DMが届いています》

《地域プロジェクトとして紹介したい》


 瑠夏は、小さく微笑んだ。


(まだ、始まったばかり)


 瑠夏の指が止まる。

 蓮にも千尋にも届かない、小さな息が漏れた。


「——やっと動いた」


 その瞳には、瑠夏とはまた違う“光”が宿っていた。


 遠くの海で、漁船の灯が揺れる。

 嵐の前の静けさのように、確かに。





―― 第8話 了 ――

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