第1話 帰郷 (第一部)
『錆びた船』
第1話 帰郷
蒼ヶ崎市――人口六万八千。
かつては造船と港湾物流で栄えた港町だった。
港に並ぶ巨大なクレーン。
夜になれば工場の灯りが海面を照らし、
「働けば家が建つ」と誰もが信じていた時代があった。
天城蓮(あまぎ・れん)は、その残り香だけを知っている世代だ。
特急列車が減速し、車内アナウンスが流れる。
「まもなく、終点・蒼ヶ崎です」
窓の外、鈍い色をした海が一瞬ひらけ、
すぐに新しい駅ビルのガラスが視界を埋めた。
ホームに降り立った瞬間、ひやりとした潮風が頬を撫でる。
東京の乾いたビル風とは違う、少し錆びた匂いの混じった風だ。
(……帰ってきた)
蓮は小さく息を吐き、キャリーバッグの取っ手を握り直した。
改札を抜けると、そこには見慣れない光景が広がっていた。
ガラス張りの駅ビル、カフェチェーン、みやげ物屋。
ロータリーには新品のバス停とデジタル案内板。
観光ポスターには、きれいに撮られた港と温泉街の写真が並んでいる。
(ずいぶん、きれいになったな)
一瞬、そう思う。
だが、胸のどこかがざわついた。
明るすぎる蛍光灯。
ホテルチェーンの看板。
駅前だけが、やけに「普通の地方都市」みたいな顔をしている。
ふと、昔、誰かが言っていた言葉を思い出した。
――光ってるのは駅と役所だけ。
あとは、静かに消えていく。
蓮はロータリーを離れ、一本裏の道に入った。
角を曲がった瞬間、空気の色が変わる。
そこには、子どもの頃に見たままの、いや、それよりも静かなアーケードがあった。
シャッター。シャッター。シャッター。
かつて文房具店があった場所も、友達と学校帰りによく行ったゲームセンターも、
看板だけを残して「貸店舗」の紙が貼られている。
人の気配はほとんどない。
足音だけが、やけに大きく響いた。
(本当に、消えかけてるんだな)
蓮は立ち止まり、息を呑んだ。
胸の奥に、じわじわと何かが滲んでくる。
父はこの街の造船会社で働いていた。
五年前、過労と持病が重なり、あっけなく逝った。
母は今、介護施設にいる。
実家は借金と一緒に手放した。
――帰る家は、もうない。
大手商社の帝都商事に入社したとき、
「実家に戻る」という選択肢は、とうに消えていた。
だから今、蓮にとって蒼ヶ崎での「拠点」は一つしかない。
アーケードを抜け、海へ向かう坂道を下っていくと、
通りの途中にぽつんと、あたたかな光が見えた。
二階建ての古い建物。
格子戸の向こう側で、橙色の灯りがゆらいでいる。
看板には、味のある筆文字でこう書かれていた。
〈舶灯館〉
蓮は、しばらくその文字を見上げていた。
舶(はく) 灯(とう) 館(かん)
(……父さん、知ってたかな。こんな宿)
記憶にはない。だが不思議と、初めて来る気がしなかった。
引き戸を開けると、ちりん、と小さな鈴の音が鳴る。
鼻腔をくすぐるのは、木と、出汁と、ほんの少し温泉の成分の混じった匂い。
「いらっしゃいませ――」
帳場の奥から、ひとりの女性が顔を上げた。
黒髪をゆるくまとめ、藍色の割烹着を着ている。
背は高くも低くもなく、きりっとした目元。
だが目の下には、うっすらと疲労の影が滲んでいた。
一瞬、その視線が蓮を素通りし、次の瞬間、ぴたりと止まる。
「……天城、くん?」
蓮はわずかに目を見開いた。
「覚えてたんだな」
「覚えてるよ。名字だけは。
同じ中学だったよね。二年のとき、隣のクラス」
氷川千尋。(ひかわ・ちひろ)
そうだ、たしかにそんな名字を、出席番号の読み上げで何度か聞いた。
教室の中心にいるようなタイプだった。
生徒会も、部活のキャプテンも、先生に頼られるのも、
だいたい彼女のような人間だった。
蓮は教室の片隅で、目立たないようにノートを取るだけの存在だったから、
話した記憶はほとんどない。
「えっと……お久しぶりです」
千尋が慌てて割烹着の裾を整え、形式的に頭を下げた。
「舶灯館へようこそ。ご宿泊ですか?」
「ああ。数日、部屋を借りたい。
……しばらく、この街にいるつもりで」
蓮はキャリーバッグを軽く持ち上げてみせた。
身軽すぎる荷物が、逆に事情の重さを物語っている気がして、少しだけ気まずい。
「そうなんだ。
うちは古い旅館だけど……それでもよければ」
「むしろ、それがいい。
新しいビジネスホテルは、どうも落ち着かないから」
千尋は一瞬だけ笑みを浮かべ、「じゃあ、案内するね」と言って立ち上がった。
廊下を歩く足音が、板張りの床に柔らかく響く。
二階へ続く階段は、少しきしむ音がした。
「ここ、継いだのか?」
蓮が背中に向かって問うと、千尋は振り返らずに答えた。
「うん。父が倒れてから。
他にやる人もいないし」
それだけ言って、後は黙る。
この街の大人たちがよく使う、「詳しくは話したくない」の合図だと、蓮にはわかった。
案内された部屋は、六畳の和室だった。
畳は日の当たるほうから少し色あせているけれど、
掃き清められた空気と、整えられた布団が、奇妙な安心感をくれる。
「お荷物、そこにどうぞ。
夕食、つけますか?」
「頼むよ。……久しぶりに、ちゃんとした飯が食いたい」
口に出してから、自分でも驚いた。
東京での最後の数ヶ月、まともな食事らしい食事をしていなかったことを、今さら思い出す。
千尋は、少しだけ目を細めて微笑んだ。
「じゃあ、作ってもらうね。うちの、自慢は板さんの魚料理だから」
「楽しみにしてる」
襖が閉まると、静寂が戻った。
蓮はキャリーバッグを開け、最低限の衣服と封筒を一つ取り出す。
皺になった退職届の控え。
《帝都商事》の文字が、妙に遠く感じられた。
(辞めるんじゃなかったかな)
ふと、送別会でのことを思い出す。
「君のような正義感の強い、前途有望な若者がわが社を辞めるのは、実に惜しい。
いつでも戻っておいで」
そう言って、笑顔で加賀谷事業本部長は花束を手渡した。
本部長が自ら、一社員の送別会に来るなど意外だった。
(でも俺は、結局何も守れなかった)
父の命を止めることも。
会社で後輩を守ることも。
自分の居場所を守ることすら。
ぽとり、と天井を見つめる視界に、涙が落ちた。
枕で顔を覆い、しばらく息を殺す。
外から、かすかな波の音が聞こえた。
港町の夜の、変わらないリズム。
夕食の時間になり、仲居が部屋に料理を運んできた。
テーブルに並んだのは、今朝揚がったヒラメの刺身、香り立つ味噌汁、いくつかの小鉢。
派手さはないが、どれも丁寧に手をかけたことがわかる、静かな美しさを湛えていた。
「いただきます」
箸でヒラメを一切れ持ち上げると、細い身に包丁の細かな切り込みが走り、
口に入れた瞬間、舌の上でふわりとほどけるように消えた。
噛むほどに、海の香りがひろがっていく。
「……うまいな」
思わず漏れた言葉に、配膳をしていた仲居が、ほんの少しだけ目尻を緩めた。
「今朝、漁師さんが持ってきてくれたの。
当館は、魚料理だけは自慢なんです」
「自慢していい。
こんなの、東京じゃ食えなかった」
蓮は、箸を止めずに答えた。
食事を終え、外の空気を吸いに散歩へ出た。
空には満天の星、波音が静かに寄せてくる。
商店街のほとんどは、もう灯りを落としている。
だが、その中で、舶灯館だけが
ぽつんと、橙色の光を外に漏らしていた。
暗い通りに、ひとつだけ灯っている灯り。
その光が、思った以上に遠くまで届いている気がした。
(……ここから、やり直せるだろうか)
蓮は靴を脱ぎながら、ふと心の中で呟いた。
錆びついた船でも、灯りさえあれば、まだ進めるのかもしれない。
そう思った瞬間、舶灯館の灯りが、少しだけ明るく見えた。
――第1話 了――
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