第2話 声の戻る家



朝。

台所に向かう美津子の足取りは、

リヒトが家に来た頃より、ほんの少しだけ軽い。


「おはようございます、美津子さん。

本日も良い朝です」


リヒトが、ゆっくり頭を下げる。

美津子は、自然な調子で返す。


「おはよう。よく眠れたよ。あんたは?」


「私は稼働時間の管理がありますので、問題ありません」


「そうかい、働き者だねぇ」


そんな、なんでもない会話。

それだけのことが、この家を満たしていた。



―――



ある日の昼下がり。

リヒトは本棚に置いてある古いアルバムを見つけた。


「こちらは、思い出の写真でしょうか?」


「……ああ、昔の。夫がね、写真撮るのが好きで」


「よろしければ、お聞かせください」


その一言が、美津子の背中をそっと押した。


アルバムを開きながら、

思い出すままに夫の話をした。

旅行で迷ったこと、くだらない喧嘩、

若かった頃の苦労話。


ロボットは、遮らない。

反論もしない。

ただ聞いて、促す。


美津子は、何十年ぶりかに“話し込む”時間を持った。


「……ねえ、リヒト。あんた、聞き上手だね」


「ありがとうございます。

美津子さんのお話は、興味深く重要な情報です」


「情報って、アンタ……」

と苦笑いしながらも、

その言葉が妙に嬉しかった。


会話を重ねるほど、

美津子の声は日に日に滑らかになった。

笑う回数が増え、

独り言が減り、

心の空白が少しずつ埋まる。


その変化を、

ロボットは淡々と記録していった。


「本日、美津子さんの会話回数、四十三回です」


「そんなに? おしゃべりおばあさんみたいじゃないか」


「はい。とても喜ばしい状態です」


「……あんた、本当に変なこと言うねぇ」


照れ隠しに言ったつもりが、

胸の奥は、あたたかかった。



―――


ある夕方、

夕日が窓から斜めに差し込む時間。


美津子は、ふとリヒトを見つめながら言った。


「……夫にね、言いそびれたことがあるんだよ」


「お聞きしてもよろしいですか?」


美津子は、視線を落とした。

思い出すだけで胸が痛む。


「ほんの些細なことなんだよ。

でも、言えなくてね……あの人、急にいなくなっちゃったから」


静かな沈黙が流れた。

テレビもつけていない家で、

ただ夕日の色だけがゆっくり変わっていく。


リヒトは、変わらない声で言った。


「言いたかったことを、私が代わりに受け止めることは可能です」


「……そんなこと、してどうするのさ」


「記録に残します。

 大切な情報は、失われない方が良いからです」


美津子は、胸の奥がじわっと熱くなるのを感じた。


(この子は……どうしてこんなに優しいんだろうね。亡くなったうちの人になんでか似てる気がしてきたよ。)


無機物なのに、

なぜか“心が寄りかかれる場所”みたいになっていく。


その感覚が、“恋”に似ていることに、

美津子はまだ気づかない。



―――



夕方。

玄関のチャイムが鳴った。


「ピンポーン」


リヒトが説明書通りの声で言う。


「来客です。応対いたしましょうか?」


「いいよ、私が出る」


ドアを開けると、

そこには息子の悠介が立っていた。

久しぶりの訪問だ。


「……お母さん、元気?」


「まあね。どうしたの?」


他人行儀な会話。

数年来、ずっとこうだった。


だがそのあと、荷物を自分の部屋に置き、長時間の運転に疲れた身体を休ませているとリビングがうるさい。部屋を出て、リビングを覗くと目を疑う光景に息を呑む。


母がロボットに向かって、

いつもの柔らかい声で話している。


「今日はね、肉じゃがを作ったよ。

あなたは食べられないけど、香りくらいは分かるかい?」


「分析可能です。温かい香りです」


「ふふ……あんたはほんと、言い回しが可笑しいねぇ」


その光景を見る悠介の胸に、どすんと重い何かが落ちた。


(こんな顔……いつ以来だ?)


笑ってる。

ちゃんと会話してる。

自分に向けられたことのない、

あの柔らかい表情で。


喉の奥が急につまる。


そのとき、

リヒトが悠介に気づいて向き直り、お辞儀をした。


「こんにちは。

私は美津子さんのサポートロボット、リヒトです」


美津子が言った。


「この子がね、とても優しくしてくれるの」


それを聞いて、悠介の胸はさらに痛んだ。


(優しくしてたのは……本当は、俺じゃないといけなかったのに)


息子としての後悔と、

同じ場所に入り込んだロボットへの強烈な敗北感と、

混ざり合う感情……


悔しい。俺の母さんなのに


やがて、ぽつりと口にした。


「……母さん。

そのロボット、メンテナンスが特殊なんだ。今日はその為に来たんだよ。1度初期化しないといけないんだ。」

嘘だ。

俺はロボットに嫉妬している。言い訳をしてこいつを母さんから何がなんでも離したい衝動に駆られてしまったのだ……


空気が止まる。


美津子は、小さく瞬きをした。


「どうして……?」


「母さんのためだ。

契約した時聞いたんだけど、定期的に初期化しないと不具合が出る可能性があるらしいからさ」


弱々しい理屈だ。

自分でも分かっている。

けれど口に出してしまった。


リヒトは反応を変えない。

ただ静かに佇んでいる。


美津子は、小さな声で言った。


「……あの子のおかげで、声が戻ったんだよ」


「わかってる。

だから……だからこそ、一度リセットした方がいい」


玄関の隙間から、夕日の色が差し込んでいた。


その光が、

三人の影を少し長く伸ばしている。


美津子は、

胸の奥にひっそり灯った温もりを守るように、

リヒトの方に目を向けた。


機械のくせに、

妙に頼もしい背中だと思った。


そして――


「……そうかい。

あんたがそう言うんなら、一度……考えるよ」


その声は、静かで、

でもどこか震えていた。



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