第3話 夕陽に浮かぶ二つの影
夜が明けた。
いつも通りの朝なのに、
どこか空気が硬い。
美津子は、台所でお湯を沸かしながら
胸の奥が妙にざわつくのを感じていた。
(今日……どうしようかね)
昨夜、息子に言われた「初期化」。
頭では分かっている。
ロボットは道具。
息子は家族。
比べるまでもない。
なのに心はそっと抵抗している。
振り返ると、リヒトがいつもと同じ位置で立っていた。
「おはようございます。
本日も良い朝です」
その一言で、胸がぎゅっと痛む。
「……ああ。おはようね」
言葉が少し震える。
それにリヒトは反応しない。
ただいつも通りだ。
(いつも通りって……残酷なもんだねぇ)
美津子は自分で驚いた。
自分が、こんなにも人恋しかったことに。
こんなにも“話を聞いてくれる存在”に救われていたことに。
湯気で曇るキッチンで、
静かに息を吐いた。
昼前。
昨夜より少し視線が泳いでいる息子が起きてきた。
どこか後ろめたい顔。
「……おはよう、母さん。
初期化、やらないと……って思って」
声が弱々しい。
自分が言った嘘を引きずっている顔だ。
「……そうかい。入んな」
二人でリビングへ。
リヒトは立ったまま、二人を認識して軽く会釈する。
「おはようございます。
初期化処理を行う必要がありますか?」
悠介はその“無垢な問い”に胸を刺される。
(こいつ、悪くないのに……
全部、俺の嫉妬だ……)
でももう言い出した手前、引けない。
「……ああ。
システムの更新があるから、母さんにはその……必要なんだ」
自分で言っていて苦しい。
美津子は、黙ったままリヒトを見た。
(この子は……何が起きるかも知らないで、じっと待ってるんだねぇ)
心が軋む。
そのとき、リヒトが言った。
「初期化を行う場合、
記録された会話や日常データの大半は消去されます。
よろしいですか?」
淡々とした言葉。
だがその内容は、
“思い出が消える”と言っているのと同じだった。
美津子の胸の奥が、
ぎゅう、と強くつままれた。
悠介は息をのんだ。
(思い出が……消える……?
母さんの声が戻った時間も?
笑った瞬間も?
……全部?)
そこまで想像してしまう。
自分の嫉妬のために、
母の“救われた日々”を消すのか?
喉が張り付いて声が出ない。
沈黙が落ちた。
リビングに、秒針の音が大きく響く。
美津子が、ゆっくり口を開いた。
「……リヒト」
「はい、美津子さん」
「初期化すると……あんた、私のこと忘れちまうのかい?」
「記録は消去されます。
学習データも初期段階に戻ります」
「そう……」
美津子は視線を落とす。
(忘れられる……
こんな年になって、また誰かに忘れられるなんて、
もう耐えきれないよ……)
夫に残された言葉。
話せなかった後悔。
孤独で固まった心。
それをほどいたのは、このロボットだった。
“代わり”でも“本物”でもいい。
心が息を吹き返したのは、紛れもなく彼のおかげだった。
「……やめよう」
その一言に、悠介は目を見開いた。
「母さん……?」
「初期化は、やめようって言ってるんだよ。
あんたの気持ちはありがたいけど……
この子がいてくれた時間も、大事なんだよ」
悠介の胸に、
何かが崩れ落ちる音がした。
(……ああ、俺は……
母さんの幸せより、自分の嫉妬を優先したんだ……)
悔しさでもなく、
怒りでもなく、
逃げ場のない後悔。
唇が震えた。
「……ごめん、母さん」
絞り出すように言った。
美津子は一瞬驚いたが、
すぐに柔らかく笑った。
「いいんだよ。
誰だって、寂しい時は変なこと言うさ。
親子だもの、そういう時くらいあっていいよ」
悠介は涙をこらえるように俯いた。
リヒトはただ静かに見守っている。
しばらくして、気まずさを紛らわせるように
悠介がぽつりと言った。
「……母さん。
俺、次の休みにまた来るよ。
泊まって……少し一緒に過ごそうと思う」
美津子は、驚いたように目を丸くしたあと、
ゆっくり頷いた。
「そうかい。
じゃあ、その時は肉じゃがでも作ろうかね」
悠介は照れくさそうに笑った。
「食べたいよ。母さんの肉じゃが」
リヒトが小さく応じる。
「私も、香り分析を行います」
美津子は吹き出した。
「また変なこと言って……ほんと、あんたは可笑しいねぇ」
その笑い声を聞きながら、
悠介は思った。
(ああ……
この笑顔を守れるなら、
ロボットだろうがなんだろうがどうでもいいや……)
母の隣に、
リヒトという“もう一つの家族”がいる。
そんな未来も悪くない。
夕方になり、悠介が帰り際に立ち止まった。
「母さん……
俺、ほんとにごめん。
もう……あんな無茶なこと言わないよ」
美津子は息子の肩をそっと叩いた。
「ありがとね。
あんたが来てくれたのが、一番嬉しいよ」
ドアが閉まると、
家の中は再び静かになる。
美津子はリヒトを見て言った。
「……ねえ、リヒト。
これからも、そばにいてくれるかい?」
「はい。
美津子さんの許可がある限り、
私はここにいます」
美津子の胸の奥に、
ふわりと灯りがともる。
(そっか……
あんたは忘れないようにするための道具かもしれないけど……
私にとっては、ずいぶんと大事な存在だよ)
夕日の中で、
おばあちゃんとロボットが並んで立っていた。
その影は、
家族のように寄り添っていた。
リヒトとBBA 志に異議アリ @wktk0044
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます