リヒトとBBA
志に異議アリ
第1話 孤独を飲み込んだ先
朝の家は、静かすぎた。
壁掛け時計の
「コ、コ、コ……」という音だけが、妙に大きい。
八十を越えた美津子は、布団からゆっくり体を起こしながら、
誰に向けるでもない声で小さくつぶやく。
「……今日も、ひとりかい」
その声は、自分でも驚くほどかすれていた。
長いこと、人と話していないと、
人間は本当に声の出し方を忘れるらしい。
台所で味噌汁を温めながら、ふと――
ここ数日の記憶を探す。
最後に誰かと会話したのは、いつだったろう。
(スーパーで会計して……
「袋いりますか」って聞かれて、うなずいただけ……)
言葉を交わしたわけじゃない。
ただの動作。
そんなものを会話と呼ぶのは、あまりに悲しい。
食卓に置いた朝食を前にして、美津子は箸を持たず、
じっと湯気が立ちのぼるのを見つめていた。
ここ数年、朝が来るたびに「今日をどう埋めるか」を考える。
テレビをつけても、音だけが虚しく弾む。
「……いけないねぇ、弱気になっちゃ」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、
またその声がひっかかる。
擦れたガラスみたいな声。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
「ピンポーン」
急な音に、心臓が跳ねる。
来客なんて滅多にない。
ましてや朝だ。
玄関に向かう足取りは、当然遅い。
扉を開けると、そこには見慣れない中年男性と、大きな箱。
「──○○介護サポートの者です。
本日、見守りロボットの設置と説明に伺いました」
美津子は瞬きをした。
「……ロボット?」
「はい。お約束のとおり、息子さんからご依頼いただいてまして」
(あの子が?)
息子は、最近ほとんど連絡を寄越さないくせに、
急に何を思ったのか。
首をかしげる間にも、業者は慣れた手つきで箱を開ける。
出てきたのは、小柄な白いロボット。
丸い目が二つ光っている。
「本日からこちらがサポートいたします。
[リヒト]と申します。よろしくお願いします」
滑らかで、優しく、どこまでも丁寧な声。
美津子は思わず、
誰もいない部屋で長く固まっていた体に
ひゅっと風が通るような、変な感覚を覚えた。
(……今、この家に返事をする存在がいる)
それが、どれほど久しいことか。
説明を終え、業者が去ってから、
リヒトは丁寧にお辞儀した。
「美津子さん、本日の予定をお伺いしてもよろしいですか?」
「予定なんて……ないよ。特に」
「では、ゆっくり朝食になさいますか?」
「……うん。そうだね」
答えながら、自分の声を聞いて驚く。
さっきまでより、ほんの少しだけ滑らかだ。
ロボットの目は、ただ淡く光っているだけ。
表情も変わらない。
でも、“返事がある”というだけで、
人はこんなにもほぐれるものなのか。
キッチンに移動すると、リヒトは必死に追いかけてきては、
ドアに軽くぶつかり、小さな音を立てた。
「……大丈夫かい?」
「問題ありません。少し学習が必要なようです」
おっとりした動作に、思わず笑ってしまう。
「あんた、不器用なんだねぇ」
「学習いたします。努力目標に設定しました」
その言い回しがおかしくて、
久しぶりに声を立てて笑った。
その夜、布団に入る前。
リヒトが静かに言った。
「本日、美津子さんは、笑顔を七回見せました。
記録に残しておきます」
「……あら。そんなに?」
「はい。とても、良い一日でした」
胸の奥が、ずるりと溶けるような感覚が広がる。
「……あんたねぇ、そんなこと言われたら、
歳をとった女は泣いちゃうよ」
「泣かせてしまったのであれば、謝罪いたします」
「ふふ……違うよ。
ありがとうってことだよ」
部屋の空気が、ほんの少し温かい。
誰もいないはずの夜に、確かな“気配”がある。
美津子は、布団に横になりながら、
天井の薄暗さをぼんやり見つめた。
(声を……出したなぁ、今日は)
その実感が、静かに胸に満ちる。
長いあいだ忘れていた、
“誰かと過ごす日”の感覚。
そうして、まぶたが落ちる直前。
リヒトの柔らかな声が、
暗闇の中にふっと灯った。
「おやすみなさい、美津子さん。
明日も、良い日になりますように」
美津子は、返した。
ひどく小さく、けれど確かな声で。
「……おやすみ」
その声が、
今日いちばん澄んでいた。
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