19

 逢魔時、紅蓮に黄昏そまる夜龍峠。

 小腸のような九十九折り、先頭車両の助手席では、松井が無言で前を見据える。いよいよだ。

 四台のパトカー車列は深鏡トンネルに突入した。橙色のランプが流れ、異界へと誘う。

「松井さん、交差点です」運転する後輩刑事に促され、反射的にマイクを取る。

📣 緊急車両、交差点に進入します。ご注意下さい 📣

 車は減速し、赤信号を突き付ける第四交差点に飛び込んだ。「……!?」その瞬間、猛烈な寒気に包まれたと同時に、時間の流れが鈍足に切り替わった。周りはまるでスローモーションのようだが、なぜか松井の意識ははっきりしていた。ザワザワと迫る数多の悲鳴。男女の判別つけ難い――否、人間のものかどうかすら定かではない――牛や馬のいななきにも似た、不気味で蜿蜒えんえんたる悲鳴が四方からとり囲う。サイレンが珍妙な間延びをし、歪んだ男性の声が自分の名前を連呼し始める。中空を沢山の白い顔が飛び交っている。髪の長い般若の顔、能楽にある髭の翁の面、土偶のように穴だけの顔、破れた犬の顔、潰れた馬の頭……悲鳴は全て、この異形たちのものだったのか。 それらは車に併走し、トンボ返りや追い越し、幅寄せを幾度となく繰り返した。そんな異様な光景に、運転している部下は全く気付いていない。

 自分にしか見えないのか。頭を振ると、それらは全て跡形も無く掻き消えた。

――わるい予感がする――


――凶い予感がする――

 必死にハンドルを捌きながら、菰田は何度もバックミラーを覗き込んだ。今にも奴らが追いついてきそうで気が気ではない。ふいに道路脇の林から巨大な影が飛び出した。

「何だこれはッ!?」進路を塞がれ、渾身の踏力でブレーキをかける。ハイビームの光輪に浮かび上がったのは倉庫に停めてあった殺人トラックだった――荷台に鬼――手には金棒――車輪には恐ろしく屈強な男の顔があり、盛んに燃え盛っていた。車体前部では爬虫類を思わせる目が蠢き、口から艶やかに糸を引く粘液を垂らしている――

「あ、あぁ……うわあああああああああああああああああああああ」

「逃がすかクソ野郎ぶっ殺す!!」釘抜きを持った鬼が咆え、突進を仕掛ける。菰田の脳内で『百鬼夜行』の四文字が明滅する。日本の説話で語り継がれる不気味な異形集団の行進。

「ヤバイ、ヤバイよヤバイヤバイ」

 シフトレバーをRに入れてアクセルを踏み込んだ。が、気が動転しているせいでクラッチを繋ぎ損ない、不幸にもエンストを起こしてしまう。「ウソだろおい」エンジンを再始動するため慌ててキーを捻った瞬間、フロントガラスに蜘蛛の巣状のヒビが走った。

「うおっ!?」「逃げんなゲス野郎ッ目ん玉抉り出してやる出てこんかぇぇぇぇええ」

 地獄から響いてくる。「この、異常者めっ」

 エンジンが始動した。即座に車を後退させ、左に急ハンドルを切って遠心力でボンネットの上の化け物を振り落とす。鬼は地面に叩き付けられて転がり、団子虫のように蹲った。

 左を目視すると、隻眼のトラックがすぐそこに迫っていた。アクセルを目一杯吹かすが、今度は砂利でタイヤが空転して発進できない。まったく。人生は試練の連続だ、瀬戸際で暢気に呟いた、激しい衝撃が閃き洗濯機の中に投げ込まれた、体を打ち付け全身打撲、投げ出されそうになった。車は横っ腹に体当たりを食らい、車体が一回転して元に戻った。

 車輪がしっかりと地面に着いているのを確認すると、今度こそ走り出した。

 ほんの六~七秒の出来事だった。

「殺される殺される、殺される殺される、殺される」


「クソ。痛ぇぞ、あのポンコツめ!許さん!しばく!」

 翼は背中を丸めて起き上がると、側に落ちていた釘抜きを拾い、トラックの荷台によじ登った。「大丈夫かい? 行くよ?」「ああ。出してくれ」

 どこか楽しげな達也はすぐに車を発進させて菰田の軽の後を追った。


「ここを、左や」

 松井は運転する部下をナビゲートしながら、胸の高鳴りを必死に抑えていた。まるで本能が近付くのを拒んでいるかのように、早鐘を撃ち続ける。ずっと高血圧なのに、痛い仕打ちしくされやがって。パトカーが左折した途端、前方から奇妙な車がやってきた。車体がぐしゃぐしゃで、フロントガラスが割れた軽自動車。猛スピードですれ違った。「ちょ、止まれ!」松井はマイクを掴むと、大声で後続車に指示を飛ばす。

📢 みんな先行ってくれ!儂らはあの車を追っかける! 📢

 それだけ言うとマイクを置き、部下に怒鳴った。「追え、あの車、はよ!」

 パトカーは道路を目一杯使って鋭角なUターンをきめると、軽自動車を追いかけた。


「警察、助かったぁ~」

 菰田は路肩に急停車した。中村書店という本屋の近く、少し開けた場所。彼が車を切り返して走り出そうとしたその矢先、前方からパトカーが一台、こちらに向かってきた。縋るような思いで車から這い出し、まるで遭難者がそうするように両手を大きく振った。彼に気付いたパトカーがつんのめるように停車して、若い刑事が飛び出してきた。

「通報してくれた方?」

「そうです。大変です、助けて下さい、奴らは僕に目をつけて追ってきてます」

 刑事は彼の車を見て呆気にとられながらも、「わ、わかりました。怪我とかはない?」と彼を気遣った。

「大丈夫です。だけど、もうじき奴らはここに来ます。早くここから離れないと」

「おい、菰田君」という声に振り向くと、顔がガーゼや包帯だらけの大男が立っていた。あの熊のような風貌、腹に響く声。網膜と鼓膜に濃く焼き付いている。「松井刑事……ご無事で……!」驚いた。最後に見た姿から数ヵ月は入院を要すると思っていたのに、まさかもう職務に――よりによってこんな凄惨な現場に復帰していようとは――

「おう。こんなになっちまったけど、生きとんぞ。そうか君が……えらいこっちゃ」

 松井は天然水のペットボトルと自前のハンカチを菰田に差し出した。

「ちょっと一服入れな。追われとるって何や?」「はい。あ、頂きます」

 菰田は水を一口含むと、噎せながら掻い摘むように説明した。

「まず、結論から言いますと、黒幕は地元の高校生です。男女併せて八人か九人くらいです。奴らが今、二台のトラックに分乗して自分を追っています。鉄パイプやバールなんかの凶器も持っていました。奴らは本当に何でもします。こうしている間にも――」

 一台のトラックが悠々と通過した。おかしな事に、ライトが片方だけ玉切れしている。

「あ、あれ?あれか!?」若い刑事がトラックを指さして叫ぶ。

「あれです……まずい、早く逃げないと」

 菰田は松井を逃がそうとしたが、彼は無言でトラックを見詰めていた。

「松井さん?」「松井刑事?」


 その刹那、松井の脳裏には過ぎ去りし者達の姿が蘇った。

 悲惨な交通事故死をした教員。

 冷たい便所で縊死した女子高生。

 廃病院にて惨殺された取材クルー。

 罠に掛かり職務に殉じた若手警察官。

 そして、同じく殉職した相棒の後輩刑事。


「いや。ここで尻尾巻いてとんずらする訳にゃいかん。あれに相棒を殺されたまま何をしとらん――儂は仇を討たなあかん――おい、この子を頼んだ。儂は、行く」

 懺悔とも宣誓ともつかないものを唱え、松井はパトカーの運転席に乗った。儂は、行く――行くって、いったいどこへ?すぐに部下が制止する。菰田も全力で彼を引き留めにかかる。

「松井刑事、やめて下さい!理屈じゃ通用しない連中ばかりで危険ですから!」

「そうですよ、何するつもりですか?機動隊を待ちましょう!」

 松井は後輩を見返した。強い決意が滲むと同時に、微かに悲しみの色が滲んでいる。それが、名状しがたい〝気迫〟として全ての言葉を押し流す。

「儂、今なんて言った?この子を頼んだ、そう言うた筈や。大丈夫やから。行ってくる」

 生傷だらけの腕でハンドルを握る。しがらみを一息で断ち、闇に向かって鉄の軍馬を駆る。

「行っちまった……うっく……」菰田は急に眩暈を覚え、その場に膝を突いた。

          

「来たぜ」

「来たな」

「やるのか」

「初めよう」

 竹林に潜むダットサン。そこから二人が見つめるその先を、三台のパトカーが列を成している。なんて間抜けなパレード。「よし行け!」竜司は荷台の枠に掴まり、将軍のように利き手を振り翳した。

          

 三台のパトカーは通報を受けた場所を目指して直走る。がれどき。足早にとっぷりと日が暮れて、赤色灯の明かりで空気が赤く明滅する。怒る。おこる。闇夜に熾る断罪の松明。不意に前方に大きな影が現れ、三台は急停止した。憮然と蹲る影は警笛を叩いても動く気配がない。

📢 緊急走行中です。道を空けなさい 📢

 先頭の一台が拡声器で呼び掛ける。影が大柄な胴体をこちらに向けた時、目映い光が照らした。右目だけ爛々と光を放ち、巨躯を揺すって後退していく。(!?)背後から鈍い物音と断末魔の叫びが上がる。先頭車両の二人が慌てて車外に出てみると、僅かな隙を突いて後続の二台が強襲されていた。最後尾の車両は窓に消火器を噴かれて、車外に出てきた警官三人が鈍器で滅多打ちにされており、二台目の横っ腹には小型トラックが突っ込んで白煙を吹いている。混沌だ。呆然と立ち尽くしている二人へ、背後から新たな爆音が迫る。振り向いた途端、開いた

 ドアに引っ掛かり、衝突されたパトカー諸共後方に吹き飛ばされた。二台目にぶつかるとそのまま玉突き衝突を起こして止まった。          

 圧倒的な馬力でカタをつける。竜司はトラックを手に入れておいて正解だったと微笑んだ。翼が一仕事終えた顔で荷台から地面に降り立つ。

「ふっ。思ったより百倍もチョロいのぉ」と彼が言い終わるか、終わらないかの時だった。

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」

 鼓膜を穿つ重低音、長く尾を引いた。

 皆の動きが止まる。

 翼が崩れ落ちる。

 血塗れた釘抜きが地面に落ちた。

 血達磨になった警官が地面に這い蹲りながら、こちらに拳銃を向けている。残りの生命力を職務の執行と復讐に使うのか。震える手と血走った目に強い意志。銃口は呆然と立ち尽くす柿崎に向けられ、噴火。真っ赤な血花火が盛大に咲き乱れ、前のめりに倒れ込む。断罪の筒口は驚愕する寺島に向けられた。

 しかし先ほどより重い爆音が轟き、警官の頭が西瓜のように弾けた。

 寺島の頭上で竜司が散弾銃を構えていた。みるみる、一筋の煙が闇夜に立ち昇っていく。

「りゅ――」寺島は己の九死一生を喜ぶ事すら忘れ、幻覚を見ているのではと瞬きを繰り返した。「竜司君……あなた、それ……」「気にすんな。死んだ爺さんから失敬した中古だよ」

 腰の抜けた寺島なんて一瞥も呉れず、なにやら慣れた手付きで銃弾を装填するとバンドを肩に掛け、背後に回して旧日本兵のような構えをした。

「おいおい、こりゃ派手にやられたぞ。どうしようかね」

 射殺された二人を目にして、流石にショックを受けた。だが目の前で相次いで繰り広げられる非現実のような光景にも一切合切、何のも出なかった。衝撃が度を越し過ぎたのだ。

「――何としても俺達は生き残る。もう一台いる、あとはアイツだけだ。ほら、乗れ」

 竜司はすっかり憔悴した寺島をダットサンの荷台に担ぎ上げると、辻方と達也にもう一台のパトカーを追うよう指示した。彼には微塵も動揺が見えない。

「待て。おい、なあ。ホンマにやるんか、芝浦」辻方が声を落として論駁を加える。「もう何が起こったとしても、後戻り効かへんぞ」竜司は黙って俯くと、散弾銃に笑い掛けた。

「むしろ、戻っちゃダメだ」

 車は動き出す。

 人生は二度ない。

 痺れる未来は、今にある。竜司は自分の物語を紡ぐ重たいペンを、しかと握り締めた。彼が持つ銃は猟師を副業としていた祖父の遺産、イタリア製ベネリM3Super90というショットガンで、元は軍や治安当局向けに開発された正真正銘の殺傷武器だ。その完成度の高さゆえ世界中で需要があり、日本の海上自衛隊も使用している代物である。

 何かあった時の為にと今日こっそりと持ち出してみたら、いきなり出番が回ってきた。なんたる偶然、まるで何かが意図的にそうしているかのようにさえ感じられた。

          

 赤い尾灯が逃げていく。これは本当に殺人鬼か。松井は逸る気持ちを抑えつつも距離を縮めていく。見る限り、車両の外見に異常はない。だが様子がおかしい。サイレンを鳴らして赤色警告灯を点灯させているにも関わらず、全く逃げる素振りを見せないのだ。

 ここまで来ての降参か?思い出した。この高校生達は精神がアレだった。挑発の一環かもしれない。ならば、構うと逆に危険だ。引き寄せて襲い掛かる魂胆かもしれない。

📣 前のトラック、前の青いトラック、路肩に停車しなさい 📣

 停車を促すと、雑作も無く応じる。車を降り、拳銃を抜いて厳重警戒で歩み寄る。

「ドア開けえ。出てこい、こら」

 運転席のドアが開かれ、弱々しい男の声が零れた。「す、すんまへん、すんまへん」

 顔は見えない。相手はいつ飛び掛かってくるか分からないので、三m以上距離を置く。

「両手上げて降りてこい。何も持たずに、早よ」松井は摺足で一歩踏み寄る。一方で男は特に変わった動きを見せない。手を頭の位置に掲げたまま、抵抗する意志もなさそうだ。懐中電灯で照らすと、紺色の作業服を着て鉢巻きをした貧相な中年男がいた。

「……なんや……」

 男は眩しそうに目を伏せながら弱々しく両手を上げ、小刻みに頭を下げている。トラックに目をやると、多少錆びてはいるものの、ボロボロという程ではない。荷台の側面には『多田村電器店(自家用)』と屋号が刻まれている。

「アホな……おい、ちょっとあんた」

「す、すんません、ライトの玉切れは知ってました、ちゃんとしますからあの、ぶ、罰金……」

 松井は男を剥がし取るように退け、車内を覗いた。

 ――こ  い  つ  じ  ゃ  な  い――

 弾かれたように身を翻す。「あの、自分はどうしたら」「ええ、ええ。どっか行け」

 男に構っている暇は無い。まさかこんな事があるとは。野犬のように唸り、パトカーに飛び乗ると急発進した。その場に一人残された多田村は暫し呆然と佇んでいたが「へ、なんでぇ。ただの脅しかよ」と唾と共に吐き捨て、煙草に火を点けると悠然と走り去っていった。

          

「おい、アレだ。アイツでひとまず片付くぞ」

 竜司は屈み込み、運転手を激励した。「しっかり狙えよ!頼むでホンマ!」ハンドルを握る辻方が、前方を見据えたまま応える。

「あの時の事、思い出すよな」

 竜司はどこか虚ろに語り掛けた。

 普段あまり見せた事のない表情で、寺島は悪寒を覚えた。

「う、うん……あの時はすごかった……」

 上の空で返事を返す。竜司は無言で目線を前方に戻した。サイレンが風に乗って流れてくる。馬鹿め。サイレンなんか鳴らしたら、自分の居場所を知らせる狼煙になるというのに。

 後続の丸目トラックに向けて親指を立てた。

「さ~て。ファイナルステージ開幕ですよ、と」

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