20

 松井は瞳孔を開いた。

 夜闇に紛れた罪人を炙るのは数え切れない程くぐり抜けてきた。視覚のみならず、五感に張り巡らせた全神経を酷使しなければ闇に溶け込んだ犯罪者を発見する事は出来ない。前照灯が拓く狭い視界に、霊魂全てを振り翳す。騒音を最小限に絞る為サイレンを止め、クリープ現象で進む。不毛の荒野に咲く一輪の花を――真味の実りたる真実を探すように――アクセルに足を載せたその時――背後に妖気が――

「くそうッ!!回り込まれたッ!!ちっくしょうが!!」

 こちらの行動を全て読んでいた。反射の激しいルームミラーを覗き込む。「ちょ待@◇#ッ」みるみる近づいて来たと思うと――追突された!!道は急な上り坂に差し掛かり、ほんの少しだが車間距離がとれた。  

 ――が。

「ええい憎たらしいやっちゃ、ベッタリ付きやがってえ!!」

 相手は熟練らしく、トルク伝達を無駄にしない巧みなシフト捌きで猛追を仕掛ける。トラックは貨物車なので、当然ながらトルクが大きい。つまり、馬力がある。更に後輪が二本重ねのデュアルタイヤの為、トラクションもかなりのものだ。

追う者と追われる者、禁断の下克上。

 松井はハンドルを握り直し、何度も追突されながらも決して減速せずにパトカーを操る事に全神経を集中させた。住宅街から離れる山の方角に進み、何度も急カーブをパスしてさらに深い林の道に進入した。そして――直線の先に黄色と赤色、二つの妖光ひかりが揺らぐ。今がチャンスだ。左に舵を切ると、光も後方に流れる。パトカーに追突する事に気を盗られたトラックは急ブレーキをかけたが方向転換が間に合わず、スピードを維持したまま真っ直ぐに滑って行った。断末魔の咆哮と共に怪物が突っ込んだのは、工事中のアパートだった。トラックに正面から突撃されて三階建ての一階部分が大破し、轟々と砂煙を上げた。どこか哀愁を含み、一方で儚い笑いを含んだ、壮絶な最期。全てが、ほんの一瞬の狂いによって灰色の瓦礫に埋葬された。

          

「達也君が!!」

 トラックを後から追っていたダットサンが急停止する。急カーブを曲がり損ね、速度を維持したまままっすぐ建物に突っ込んだ上に瓦礫や建材に落ちてこられたのでは、ひとたまりも無いだろう。達也も遂に脱落したか。

「分かってる、俺もちゃんと見た」

 竜司の目は濁らない――何よりも作戦の進行を優先し、誰にも邪魔をさせてはならない――辻方が車を発進させた時、後方で爆発音が上がった。激動と粉塵のさなかに三人が見たものは、闇の中で瓦礫を巻き上げ立ち上る、龍に似た真っ赤な火柱だった。えんえん天に漲る中で垣間見た夜龍が、ニッコリと笑ったように見えた。

          

「はぁ、はぁ、……なんやどうした。事故ったかいな……」 

 バックミラーに目をやる。どうやら、大きい方は巻いたようだ。文字通り自爆した奴らをこの手で捕まえる事が出来なかったのは悔しい。 しかし、夜龍がまだ後ろにいる。荷台に二匹、車内に一匹。常軌をとうに逸している奴らのこと、もう何を仕掛けてきても不思議じゃない。

 しかし背水の陣を敷いて孤軍奮闘中の今、我が身は蛇、虎、熊に睨まれた窮鼠も同然。

 本来なら追う立場の警察が追われるという、未曾有の事態。よもや、刑事歴29年の儂に挑んで来ようとは。これまで、犯罪史に残る事件に何度も関わってきた。幾度となく修羅場を潜り抜けてきた。一度目を付けたホシは、何があろうと決して逃がさん――


 爆音と共に20m程前方を走るパトカーの尾灯が砕け、路上に破片が飛び散った。

「くそ、弾が逃げやがるぞこれ!ムズ過ぎる!」

 竜司は四苦八苦しながら銃に弾を込めると、激しく揺れる荷台から再度銃弾を浴びせた。何度か放課後に練習していたのに、いざとなるとうまくいかない。今度は窓に命中し、辺りに細かい破片をばら撒く。散弾銃は近距離用の銃器だが、概ね五十m程度なら銃弾は照準の軌道を外れる事はない。ところがこの銃はセミポンプ切替機構の重量が先端部に集中している為バランスが悪く、車の揺れもあって照準が著しく狂った。

「嫌よ嫌よも好きのうち。本当に命が惜しけりゃ、止まって降参すればいいのにさ」

 竜司は度重なる逆境に屈する事なく、むしろ、より一層闘志を剥き出しにした。こうして鞭を打つのは独特の快感を覚える。彼はSMモノを見て思った。Sには人間の欲望が如実に現れていると。排莢し、肩に担いで引金トリガーを引く。エジェターから脱包された空薬莢が道路に零れ落ちる。

「竜司君、耳が痛くて我慢」「しろ」

 寺島に腰の辺りを支えてもらってバランスを取り、再び獲物に畳み掛ける。

    

 凄まじい発砲音の後にピュン、パシッ、と聞き慣れない甲高い音を立てて散弾が容赦なく車体に食い込む。このままでは付近住民を巻き込みかねない。これまで捜査中に死人や怪我人を出した事は、ただ一度たりとも無かった。それなのに、こいつらのせいで初めて死人が出た。それも、大切な相棒を……もう、これ以上誰も傷つけたくない。

 ――この先に消防用の貯水池があった筈や。あそこに誘い出してみるか――

 この極限状態にありながら、よく思いついたと大見得を切って誰かに話したい。

 松井は僅かな隙を見て無線で応援を頼むと、決死の思いを載せハンドルを切った。

      

「あ、コラッ!どこへ行く気なんやワレ!」

 辻方も素早くハンドルを転がし、獲物に縋り付く。「なぁ、おい!」彼は視線を固定したまま、竜司を呼んだ。

「何だよ」

「見てみ、様子がおかしい。もういい加減ケリつけろ!ここまで来た苦労を棒に振るなよ!死んだアイツらの為にも!」

「……………………」

 いらえはない。二台は舗装路を外れた。

「早くせい!やっぱり何かあるぞ。ハメられる前に、急げ!」

 辻方は咆えた。過ぎたるは猶及ばざるが如し、少々遊びが過ぎたか。

「わかった。りょーかいだ」

 タイヤに狙いを定め、引金を引く。小さな鉄球が拡散しながら飛んでいく。命中こそしたが悪路のせいでまたも狙いを外れ、バンパーに逃げた。舌打ち混じりにコッキングすると、キャビンにバイポッドを真似て肘を突き、照準を絞る。発砲――ダメだ、また外れた。今度は右の尾灯だ。暗くなったテールで時折ハイマウントが点灯する。突き刺すような耳鳴りと鼓膜の激痛に頭を振りながらポケットから実包カートリッジを摘み出して排莢・装填すると、目からレーザーを出すように照準を絞る。四、五秒固定し発砲。銃口マズルから飛び出した細かい鉄球は、竜司の描いた直線上を厘毛の狂い無く突き進み、左後輪に突き刺さる。直後、間抜けな音と共にタイヤがバーストし、車体がぐらりと傾いた。「よっし、リーチ、リーチだ!」

 棹桿コッキングレバーを引いて排出された薬莢が荷台に当たり、微かな金属音を立てる。

「寺島、俺の両膝を持っててくれ」

 寺島は荷台に座り込むと、竜司の膝を抱き抱えるようにした。狙いを定めてから10秒、銃身バレルを小刻みに動かして目標を追い、発射――命中。

「いいぞいいぞ!ビンゴだビンゴ!どんどんいくぞ」

 後輪は左右両方とも潰され、車体が後ろに沈み込む形になる。てっチンホイールが露出し、砂利や路面の凹凸に乗り上げる度に、それらの衝撃が全て車体を直撃する。

「竜司君、前も!もう車を止めてよぉおおおお!」

 足元で寺島が泣き叫ぶ。バネが跳ねるような機敏さで照準を合わせ、左右に動く前輪に照準を絞った。すると、大粒の砂利の上で火花を散らしてよろけはじめた。「――腹を、見せな」車体が精度の低いスローモーション映像のように、ゆっくり、大きく左に流れ始める。必死でカウンターを当てる右前輪、それは猛獣の白々とした太鼓腹。

 今だ――撃ち込んだ――当たったか?レスポンスが欲しい。

 車体が大降りに体勢を戻した。その瞬間、武者震い。

 車は満身に痛手を負いながらも残った一つの車輪で舵を取っている。

「あかん!ガ、ガソリンが無ぇ!やられたッ」辻方が情けない声を発した。

「はあ?……待てよ、そうか。そうだったのか」

「そうだったのか、じゃねぇよバカ!あと少しで」「分かったぞ、向こうの狙い。ガス欠にさせるつもりだ。周り見てみろ。田んぼに囲まれてる。このだだっ広い所を回ってどちらかがガス欠になって車が止まったら四方から袋叩き、つまりはそういう事だ。さっきからバカみたいに農道を走り回ってたのは、応援が来るまでの時間稼ぎだ。仮に車が止まらなくても、ここで囲まれれば逃げ場が無い」

 竜司はさも分かり切ったように言った。辻方も寺島もポカンとしている。

「……なんてこった……」

 またしても痛恨のミスか……いや、いける。今からならまだ形成を立て直せる。

「最後まで付き合わされるところだったぜ。忌々しい」

          

 今、まさに墜落する航空機の中だ。怪我をした場所が痛むし、激しく酔ってきた。

 パンクでハンドルも効かない。だが、もう少し――見えた。貯水地。シートベルトを外して飛び出す準備をする。禁断のプラン、走行中の車からのエスケープ。車両を身投げさせ、後ろのトラックをハメる。かつてお前達が儂にした事と全く同じ事や。儂も若い頃はたいがい無茶をしたが、走っとる車から飛び降りるんは初めて――

          

「ふっ」薬莢を零しながらほくそ笑む竜司の足下で、寺島がまた張り叫ぶ。「いや、ダメ、止まれえええぇっ!!」ヘッドライトの照らす先に【危険!防災用貯水槽】の看板が突き立っていた。

「おっと、何だありゃ」前を走っていたパトカーが前方につんのめるように体勢を崩したかと思うと、右後輪を溝に引っかけて激しく横転した。「ななんなぬぁ!?」辻方がブレーキを力一杯踏み込み、車体が四肢を踏ん張って悲鳴を上げる。ヘッドライトの光の中でパトカーは一回転し、貯水池に落ちる寸前、フェンスの手前で停止した。

 暫しの沈黙。砂煙が静かに流れ、薄墨のような雲が月を覆い隠した。

「……ちょっと近付いてみてくれ。いるかな?」

 固唾を呑み、半クラで車を進める。ハイビームで潰れた車内を照らし付ける。

「いや、見当たらん」

「……逃げた?」

「なに?」

「逃げたんじゃねぇのか。運転せ――」

 星空が震えた。瞬く星々がみんな落ちてきそうだ。隣に立っていた寺島が垂直に崩れた。頭をキャビンに打ち付け、地面に叩き落ちる。それを表情一つ変えずに見届けると、ゆっくりと振り向いた――予想通り。激しい流血と尾灯の反射とで全身が紅蓮に染まった大男が拳銃をこちらに向け、10mくらい先で仁王立ちしている。

 大男の方に身体を向けて向き合う。暫く互いに睨み合ったまま、不意に竜司が笑みを浮かべた。口の端に小さい笑窪がよく見える。

「――なに。俺を殺したら、それで終わりと思うのかよ」

 大男は銃を向けたまま、錆びついた嗄れ声で応えた。「やっと面接できて嬉しいぞ、このくそったれがよ」

「こちらこそ」

 愉しんでいるのか?

「こちとらな、仰山の気の狂った奴らを相手にしてきた人間や。海千山千、場数も踏んできた。せやけどな、今回のは流石にたまったもんやない。お前だけはホンマにあかん。お前という奴は……………」揺らぐ瞳と悸く舌が暴れ出す。

「お褒めに預かり身に余る光栄です」

 月が大男の顔半分を朧に照らし出す。目には仄白い炎がひたひたと揺らめいている。

「おう。失敬したな。教えろ、貴様らの本当の目的を。人を殺して、物を盗んで、世間様に恐怖を与えたのはなぜや。のは、なぜや」

 ダットサンのエンジンが咳き込むようにして停止した。乾いた風が吹き抜けていく。

「さぁさぁ、年貢の納め時やな。この儂がくたばる前に早よ答えろ。ほれ。なあ!」

 大男はこちらに銃を向け直した。殺意すらも凌駕する、灼熱の憎悪を弾と共に込めて。

「はー。そんなに聞きたいのなら。そっち側の人間に話す機会は一生無いか思ったけれど、冥土の土産に聞かせてあげましょう。録音の準備って出来てます?」

「それ、PCのドラレコか何かが録音しとる筈や」

「俺達がこうする理由っていうのはつまるところ、革命を起こしたい訳ですよ。よろしいですか?世の中不公平だと思っていきましょうよ。例を挙げます。そうですね……じゃあ、頭の良い人間とそうでない人間。いや、勉強が出来る人間とそうでない人間、ハッキリと線引きして区別し、両者の間に壁をつくる。それでもって勉強の出来る人間を金銭的に優遇し、そうでないサイドはというと……?例え良い大学を出ていても、たまたま勉強がデキただけで情熱も常識も無いロボットかもしれない。肝心の〝教養〟はいずこへ……これが今の社会の穴です」

「確かにそういう事も有るけど、全部が全部そうじゃないぞ。儂らの若い時よりもよっぽど選択肢も増えて生き方も多様化してきた。ごっつエエ時代になってからに……ニュースとか、ちゃんと見とるか。それに物事には往々にして必ず理由があるものや」

「あなた方が作ってきた時代に責任感とか無いんですか?」

「仕方ないやろそんなもん。経済っちゅうもんは常に動いているから。諸行無常、いつまでも同じ手が通用する訳が、どだいあらへんやろが!?」

「実は日本は人権が保護されているようでいないんです。多数派に有利に造られてるだけで」

「うるせえ!……養ってもらう立場のヒヨッコが、偉そうに、やっかましい!」

 松井は知らず知らずのうち、踊らされている事に気付いた。何が狙いなのか。

「毎日がマンネリ化して、充実感が無い。味気無くて、すっかり心が冷めて、勇気も野心も干涸びて。どの大人もそう見える。同じに見える。畑に植わったたくさんの大根に見える。稲は実るほど頭を垂れるんじゃない。背負うものが多すぎて、猫背になっていくんだよ」

「麻痺してくんや、人間は。社会の荒波に揉まれて、それでも家族の為に踏ん張ってかんならん。それが正しい意味での強さや。生き残る奴が結局正しい。不公平で結構じゃ」

 自分ではおよそ考え付かない事を〝言わされて〟いく。

 自分、こんなに毒を溜め込んでいたのだろうか?

「うん。じゃあ、結局はあなたも自分本意でしょう?そうなんでしょ実際」

「そうや。誰が他人様の事なんぞ本気で考えてくれる。お前も無理やろ、そうやろ!自分の事を棚に上げてっ」

 ――無理だ。この男と会話するには、わずか頭皮一枚分の嘘も建前も許されない。

この男との会話そのものが、苦痛に満ちた拷問でしかない。 

「もう素晴らし過ぎて何も言えないですね」

「そんじゃ、もう一丁、若僧で革命家のお前さんに聞こう。お前さんがやっとる事、やってきた色んな事――そうやな、たぶんお前さんの〝お仕事〟かな?それは、人の命を奪ってまで、やる価値は有るものなんか」

「はい。なぜなら、この作戦は俺だけの意見や意志じゃないから。多くの同志達の望みを具現化したに過ぎないから。本当の意味での教養と知恵の使い方をしていると自負があるので」

 愕然としたまま、落とした感情が戻ってこない。

「例えどんな理由が有ろうと、命を奪うのは罪やと教わらんだか?」

「今度はあなたが答える番ですよ。そういう事を言いつつも俺に銃を向けているのはなぜ。これじゃ脅迫という罪になります。引き金を引けば、殺人罪。皮肉ですね~警察が殺しなんて。それとも、そんなこけ脅しが通用するとでも?」

「じゃがしい!儂はお前を必ずしょっ引く、相棒の敵を……夜も寝れへんし飯も喉を通らへんのや。さぁ、降りてこい!面接終了や。お前は人間落第じゃ。もう、終わりや」

 松井は拳銃を振り回し、駄々っ子のように喚き散らした。

「俺を捕まえても、あなたの大事な誰かは戻って来ないんだぜ?それこそやる価値は」「じゃがぁしいわぇ!!絶対に許さん!!この悪魔!!異常者!!……死神がよ!!」

「てか、そんなにツレが恋しいのなら、あなたがその人に会いに行けば話が早いんじゃないかな。ねェ――」一瞬の早業で銃を構え、引き金を引いた。尾を引く鮮紅の閃光。

 

 松井晋太郎が崩れる。

 柴浦竜司が崩れる。

 霧と静寂の帳が降りる。


 ――討ち死に――なんじが信念を全うしこの場にたかく眠らんや

願わくは、この場に我が骨、神とて拝み納め奉らんや――


 どこからともなく透き通った唄が流れて来て、木枯らしのように吹き抜けていく。それは邪気を払い、同時にこの世のモノではない何かをここへ置いていった。

 辻方が顔面蒼白で車から下りてきた。脚が震えて頼りない。荷台に力尽きたボスは引き攣った笑顔のまま、額のど真ん中を打ち抜かれて死んでいる。

まるで、第三の目が開眼しているようだ。相撃ちだった。

「あ……あ……ヤベェ……よ……あぁあ……そんな……」

 寺島に近付いて肩を揺すったりする。糸の切れたマリオネットのように、完全な死体だ。

「おェ、おェ! 冗談キツいわェ、洒落にならん、どないすりゃええんやぁ……」

 運転席に戻り、キーを回した。が、スタータが虚しく空転するだけでエンジンに火は入らない。数秒間思考停止に陥った後、その場から逃げようと駆け出した。その刹那。

「お?」

 体がほんの一瞬間宙に浮いたかと思ったら、既に地面に叩き付けられていた。まるで高熱に冒されているように身体が動いてくれない。かろうじて首を動かし、乾きゆく眼球で辺りを探ると、ノロノロと立ち上がる巨大な影があった。黒々としたその影が、ゆっくりと歩き始める。何かの妖怪のようだ。オェは幻覚を見とんか?そんなアホな。転んだ際に舌を噛み切ってしまって言葉が作れない。

    意     識   が    あ         あ   

          

「――――――――――――終わった――――――――――――――」      

 ざら、と顔を出した月が、緑一色の田園を優しく照らし出す。嵐の後のように妙に濃くて澄み切った空気が吹き込む。幻想的な銀白の光が、絵画のような風景を叙情的に引き立てる。

 松井は重たい足をなんとか引っぱり上げ、無造作に横たわる肉塊には目も呉れず拳銃をホルダーに差し込むと、そしてそれを差し損ねて落としても構わず、危ない足取りでダットサンに近づいた。部屋に戻るわ。運転中に右の肩胛骨付近に被弾したのと、真正面から左腕を打ち抜かれたせいで、体が思うように動かない。中谷。痛みというより、体の中心に針金を差し込まれたような強い違和感。医者を呼べ。耳も、足下の音をどこか遠くのものと錯覚するほど脆くなって。今日は何曜日や。火薬、花火、硫黄、鉄、吐瀉物、硝煙と血と胃酸の臭い。死体がある。鑑識が来るから、心配するな。ヒョロヒョロの小僧のクセにここまでやるとは。署長は出張や。額に穴を空けて荷台にへたり込んだ男を見る。調書は、どこや。


 ―――――――――死神の死体―――――――――――


 西洋の不気味な傀儡くぐつのように引き攣り、硬直したままの笑顔。

「おい、中谷。返事くらいせえよ。おい」

 ここは、桜署ではない。

「あぁ……そうやったな」

 男のズボンのポケットから、何かを記したメモが覗いている。松井はそれを拾い上げ、小声で何かを呟いた。そして男から目を逸らすと、危ない足取りでパトカーに歩み寄った。ケションケションになってしまって。

「何やねん、情けない格好で。ははは」

 パトカーの車体を叩き、語り掛ける。左の肘関節にポッカリと穴が空き、流れ出た血液が月光を浴びて、ぬめっとした輝きを放つ。こんな時になんだが、血液は美しい。

「中谷、悪いんやけど包帯、巻いてくれへんか」

 返事が無い。早く助けを呼ばなければ、失血死するかもしれない――するのか?

 ――これだけ色々潜り抜けたんだ、自分はもう、死なないんじゃないだろうか?

「中谷、己の不調も見抜けんようになったら人間、終いやで。はは、ははは、はっは」

 車の無線機を引き出すと救援要請をした。自分の無事を喜ぶ歓声が上がっている。

「中谷に言ってやれえ、たまには休憩せえて。げほっげほ、ごふっ」

 パトカーに背中を預け、夜空を見上げた。白く大きな満月が自分を見下ろしている。

「中谷よ。見てみいほれ。こんっなに空が綺麗に見えたんは、いつぶりやろうなぁ」

 言いようのない達成感と胸に溢れる成就感。こんな気持ち、刑事になってから初めて――否、人生で初めてだ。何かとんでもない宝物を、果てしない苦労の末にようやく手にしたかのような、心の底から沸き上がるこの喜び。

ようやく、ようやく、ようやく、勝った。

 ようやく、笑顔で報告が出来る。ようやく、寸暇を惜しんで苦労した報いが来た。

「はっはっは。ええ、最高やな、ほんま」

 二匹の蛍が飛んでいる。右へ、左へ、上に、下に、優雅に舞っている。

 その光は時折、サーチライトのように強い閃光を放った。――蛍にしては光が強いな。

 二匹、ピタリ等間隔に寄り添ったままこちらに向かって来る。ブォーンと鳴いている。

「あー。蛍は鳴く虫やったか、この歳で初めて知ったわー」

 ――おい待てよ。今、何月や――

 憔悴し切った脳味噌にそんな難問、無理だ。顔を上げた頃にはもう、小型バスが目前にいた。不可避だ。「……おぉ……」体はピクリとも動かず、眼球だけが普段の数倍速で稼働する。車の動きが非常に遅く見える。これが真の恐怖の姿か。「中谷よ、お前が見たんは、これやっ」容赦無く押し潰された彼の体はバスとパトカーの間に挟まれ、そのままフェンスを突き破り、貯水池へと真っ逆さまに墜落していった。

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