15
五月十四日、月曜日。
早朝、朝日の射し込む二年C組の教室に人影があった。手にはハガキ程度の紙切れ。
これには白地に赤インクで詩が詠まれている。
*****
鳥篭の中の鳥は
自分以外の鳥の存在も
空の青さも
世界の色さえも知らない
そして 自分の翼が何故
何が為に存在するのかも知り得ない
もし この鳥がその身に罪を纏い
黒天へと舞うことがあるならば
私は太刀風に乗ってそれを追い
突き刺す風雨に耐え忍び
乾かぬ怒りに灯した執念の炎で
その翼を焼き尽くす――どこにも逃げられないよ
*****
初めて読んだ時は吐き気に襲われ、目を逸らした。でも今は、正面から見据える。
坂田優香は一人、教室の後ろの掲示板を睨んでいる。クラスメイト三十二人分のプロフィール『私の説明書 OF 2―C』という黄色い紙が掲示してある。手元の紙とそれらを交互に照らし合わせ、一つ一つ入念に照合を進めていくと、七番目で目が留まった。出席番号八番、神原翼。手元の紙を横に並べて見比べてみても一目瞭然、翼という字がやや右上がり、且つ独特の崩し方――見事だ、判子を押したように瓜二つの筆跡。
「やっぱり、そうだったんだ」
痺れる手から怪文書が落ちる。木の葉のように踊り舞い降り、ドアのレールに挟まる。
ふいに朝日が陰る。戸口に立つ影が紙切れをゆっくりと拾い上げた。気配に気付いた優香が振り向くと、軍手をした手に太いベルトを握った翼が不適な笑みを浮かべ、左手に持った紙をヒラヒラと揺らす。戦慄が、蜘蛛の巣のように放射状に肉体を捕らえる。
「そんな、嘘……」彼女はじりじりと後退した。翼はのっそりと敷居を跨ぐとドアを閉め、彼女との距離を詰めにかかった。「嘘じゃと?ワシは嘘をつかん主義じゃがな」
静かに、ねっとりとした声音で囁き、徐に左手を突き出す。「キャッ!!」優香は机の脚に躓いて転倒し、後ろに膝行った。翼が迫る。声が出ない。「来ないで、来ないで」
死ぬほど怖いのに、蚊の鳴くようなか細い声しか出ない。翼は彼女の正面にしゃがみ込むと、得物を目の前で揺らして見せた。ベルトはバックルに通した状態で、犬の首輪状になっている。
「よぅワシの仕業と分かったの。流石は優等生、舞台女優を目指すだけありそうじゃな」
「バ、バカにしないで」
「ワシからの恋文はどうじゃったよ。小洒落た詩も創った。ちゃんと読んでくれたよな」
「ふ、ふざけないで……こんな事までして……何様気取りなの?」
優香はありったけの勇気を振り絞り論駁を加える。
「おぅ、女優さん志望なら少しはその素質とやらを見せてほしいモンじゃがのお。ええか。売れる役者ってのは演技の為なら平気で己の品性や人格も擲つ事が出来る。アンタみたいな自分可愛屋が、一流への道を志すとなりゃ最初の登竜門はここじゃ」
優香の中で、何かが弾ける。「知ったような口利いて人の夢を弄ぶなんて最低!人格を疑う!」
「そら、イイ顔しとる。ワシが監督なら一発で合格出すレベル!まずはワシの世話役にでも」
「絶ッ対ムリ!死んだとしても嫌だわ」
「あかーん不合格。今のは遠回しのぷろ・ぽうずってヤツなのに。これに気付けんようでは~」
「ほんとありえないから。この遊びが終わったら校長に頼んでアンタを即刻退学にしてもらうから覚悟してなさいよ」
心配しなくても、その夢も叶わぬ
「やめて、キモイから、もう離れて!離れてってば!」
「何じゃ。アンタのその美しい面に惚れたからアプローチしたのに、傷つくのお!」
片手をドンと壁に突いて、彼女を追い込んでみたりする。人によっては、これが興奮すると聞く。そういった連中は恐らく気を病んでいるのだろう。「あんた、狂ってるよ……狂ってる、後から絶対に後悔」「するもんかい」言うが早いか、翼は彼女の首を掴んで喉笛を押し潰した。
「ゴチャゴチャとまあよ~~~ぅ喋るメス豚じゃの!性悪クソブス、こいつッ!」
激しく喘ぐ優香に馬乗りになると、彼女の首に輪奈を被せる形でベルトを通し、バックルの付いていない一端を馬の手綱のように引き揚げた。頸綱の原理だ。「ぎひッ!ぐこあぁぁあッ」床に四つん這いになって必死に逃れようとする彼女の背中を膝で押さえつけ、首を反らせるように絞め上げる。彼女は指をベルトと首の隙間に差し入れる事で少しでも緩めようと抵抗を見せるも、翼の圧倒的な馬力を前に全く太刀打ち出来ない。
「おうおう、うは。意外な馬鹿力。家畜じゃ家畜。そ~れ、はいど~うどう!」
顔はみるみる鬱血し、普段の彼女からは想像も出来ない般若の表情を形成した。
「こりゃ、あんまり暴れるなって!余計な傷がつくじゃろがッ!」
「ぎぎぎ…………ぎひっぎぎぎ」
「うおひょぉ、活きのイイこと、このまま築地にでも引っ張って行こかな?」
右に左に首を打ち振る優香を見下ろし、翼は一種の快感を覚えた。まるで、他の犬に吠え掛かる飼い犬のリードを引くように手に一巻分ベルトを巻き付けると、上方向に千切り取るように渾身の力で引き上げた。頭と腕がダラリと垂れ下がり、抵抗が無くなる。「……ふぅ」
翼は蹴り捨てられたような無様な優香(だったもの)を見下ろし、深呼吸をすると、手を三回、高らかに叩いた。それを合図に教室の戸が開き、興奮冷めやらぬ生徒らが雪崩れ込んだ。
「うわぉ。やっぱり翼君はやることが違うね! ブラボゥ!」と細身の
「これですっきりしたな。クラスのお荷物が減ったわけだし」
長髪をアイロンで真下に下ろした、ニキビ面でハスキーボイスの
「朝飯前じゃ、こんなの」皆、処刑された罪人を見るように輪をなして優香を睥睨した。生贄を取り囲んで祈祷を捧げる、カルトとオカルトの両義的な構想を掻き立てる光景だ。そのまま一種の
「翼の
竜司は新品の軍手を嵌め、翼、達也、修、辻方と一緒に遺体を人気の希薄な家庭科棟へ運び出した。輪から毀れた女子が一人――未来の氷結した
それは彼女にとって一種の
「よし、ゆっくり行くぞ。落として余計な傷を作ったりしたら全部パーだからな」
建物全体が薄暗い家庭科棟は他の教室棟より老朽化が酷く、昼間でも陰湿な気が漂う。五人は中二階にある職員便所を目指した。汚れが激しく損傷も酷い為に教師陣もほぼ使う事がない。
「階段、持ち方注意!おい修、もっと肘から抱え込め、それじゃ落ちるぞ」
「あいよっと。しかし最初で最後の舞台がこんな豚箱だなんて、この女も報われんな~」
修は割と真剣に憐んだ。「イイじゃないか、初オファーだぞ。高校生で役者デビューなんて、いろいろと女冥利に尽きる話だと思うがなぁ」「ふふ、確かに。げふっ」
そう、死に場所として絶好のポイントに優香を運ぶのは他でもない。
女優を夢見る彼女に、自殺者を演じてもらう為に他ならない。
「当然の報いだわな。ルサンチマンだかなんだか知らんが、オェらに楯突いた落とし前がこの程度で済んだら、まだまだ
辻方は巨漢のくせに持ち手には加わらず、ポケットに突っ込んだ腕と肩を揺らしながら徒然な口で喋りまくっている。時折、古い掃除機のように咳き込んだ。あまり〝あたたかい〟視線を浴びた事がない彼女の最初で最後のビックイベント。めでたいではないか。
「えへへへ。つまりボクらは坂田さんの夢を叶えるお手伝いをした、そういう訳だよね。夢運び人だ、夢の使者だ。えへへへへ、カッコイイよね~げぷっ」
「その通り。コイツは夢の死者だ。夢に死んで、且つ死んで夢を掴んだんだ」
「常日頃から視点と観点の違いで級友と折り合いの悪かった少女が人知れず心を曇らせ、人間関係に疲弊し切って自死を選択する。どうだ、十分に想定可能だろ」
室長という役割も彼女が望んで就いた訳ではなく、皆に言い包められて渋々やっただけの話。
彼女に味方は居らず、孤独だ。さらに内向的な性格でなかなか感情を表に出さないが故、優等生なのに教師達との関わりも皆無という始末。慟哭も届かぬ北海を漂流する蟹工船の如く、絶望的に孤立していた。
「そだね。シナリオとしては完璧だと思う」
「こういった損な性格の人間ってどこにでも居る訳でさ、世間がコイツの死の真相を知った時はさぞかし同情の涙を買う事請け合いだな。それがせめてもの
階段を昇り切ると、女子便所の最奥の個室に運び込んだ。修が予め優香の指紋を付着させた(わざと放置しておき、彼女に片付けさせた)大繩飛びを取り出し、それをわがねると彼女の首に、もう一方を天井に張り巡らされた上水道管に渡し、滑車で物を吊り上げる要領で体重を掛けて下に引く。彼女の軽い体は簡単に浮き上がり、宙吊りになった。制服のスカートがヒラヒラと揺れ、呪われたてるてる坊主の様相を呈する。便器の上に立ち、上水道管の所で縄跳びを結ぶと、彼女の上履きを洋式便器の前に丁寧に揃えて置いた。未来と美幸が彼女のバッグを持ってやって来た。これも足下へ丁寧に供える。
「完璧じゃないかな」
七人は微かに揺れる優香を眺め、嘆息した。
「度胸が無いから正面からは立ち向かわずに、ストーカーみたいに裏でコソコソ調べて、ネタが集まったところで国家権力の力を借りて血祭りに上げる。コレがこの女の企みだったのよ」
美幸が勝ち誇った顔で腕を組む。
「卑怯者!勝ち組に嫉妬するような小っさい奴を殺しても人斬り御免だ!なぁ竜司ぃ」
修は美幸に寄り添いながらへいへいと宣う。
「勿論だろうな。曖昧な善悪とかは置いといて、仲間達が描く理想を具現化する事こそが、俺らの役割だから。薄っぺらな人情味や世間体だの人徳だのグズグズ言ってる輩はもうダメだ。勝った者が生き残って、負けた者は死ぬ。それだけだ」
「要するに、勝者になればいいんだよね~」
――「Survival of the fittest.」――
イギリスの哲学者ハーバート・スペンサーの唱えた【適者生存の法則】は、実によく的を射ている。イギリスの地質、生物学者チャールズ・ロバート・ダーウィンが自身の著書【種の起源】の第六版で取り入れた為、彼の立てた学説と勘違いされがちだが、真相はハーバートが1864年に【Principles of Biology】で提唱したのが基となっている。
書籍上でダーウィンは言った「体の大きな、強い動物が生き残ったのではない。環境に適応した動物が生き残ったのだ」この言葉は、人間にもそのまま当て嵌まる。
象に匹敵する巨躯、鮫に匹敵する歯、豹に匹敵する脚を持たない人間。唯一、頭脳だけが取り柄の人間界に於ける「強者」とは?環境に常に適応しうる「勝者」とは――?
戸の内側から錆塗れの鍵を下ろすと、壁に手を掛けてよじ登り、個室から脱出する。
「まあどうせ、一週間くらいで忘れられるよ」竜司は軍手を外しながらさっぱりとシメた。
「摩擦は少ない方がいいもんね。これでもっとヒートアップ出来るんじゃない?」
美幸が服装を正しながら、悪い笑みを咲かせる。
「そうだな。でも、まずは一昨日の病院の事で世間がどれだけ反応を示しているかを確認しないと。あまり立て続けに、我武者羅に加速し続ければいいってもんでもないからさ」
辻方が腕を組み「そりゃそうや。何でも見境を無くすとアカン。ボロが出て自滅に繋がってく」と頷く。百戦錬磨の職人然とした態度が、妙に似合つかわしい。
「つくづく思うんじゃが、やっぱし修には慎重さがちょっと足りんぞ」
屈伸運動をしていた翼が痛烈なダメ出しをする。
「そ、そーいうのは寺島とかの役目だろ。俺はムードメーカーだからいいの!」
「対して盛り上げとらんクセに」
七人は穏やかに談笑しながら教室に戻った。
*
「いーこいーこ。よしよしよし~よしよし」丸目の世話を終え、帰宅。ハイチューを三個まとめて口へ放り込み、テイクフリーの中古車雑誌をめくる。「あ~あ。かわいそうな子たち。ちゃんと整備したらまだまだ走れるのに……こんなに安く叩き売られて、ほんと。現実の女の子も、可愛い子はたくさんいるけど、車の方がいいよぉ。静かだし、悪口を言わないし」
ドアがふわりと開いたかと思うと、隙間から愛猫・ソアラが現れる。
「ソアラ。ごめん、今は食べ物はもうないの。ごめんよ~」
にゃあ、と言い残して部屋を去る。息を整えた途端、心臓が飛び跳ねた。
「たっちゃんよう」
なんと、普段は部屋になんて上がってこない父親が顔を見せた。厄日だ。
「な、なに、お父さん」戸惑いを隠せず、滑稽な挙動になる。
「いや~、最近どうもおまえ、なんか口数が減ったんじゃないかなぁと思ってんだよ」
身体が硬くなるのを感じる。「そそ、そ、そうかな」「なあ、達也」
ドキリとする。たっちゃん呼びじゃなくなった。そういえばあの気持ち悪い整備士の新入りが、お父さんにボクの行動の意味を探れと言われた、みたいな事を言っていたな。
「な、なに?」
「お父さん、最近お前の様子がおかしいの、ちゃんと気付いてるよ。お母さんも心配してる」
「それは、ごめん。げぷっ」
「なあ、おまえ」
一瞬、間が開く。
「好きな女の子でも、できたんだろう?」「ぶりゃっ」三個のハイチューが飛び出した。
「た、た、達也おまえ、歯が!!抜けたか!?」
「違うこれお菓子、いいから出てって。ソアラのトイレ掃除しといて!」
余計な信号が灯ってしまうまえにとっとと追い出した。
女の子を好きになるって?ご冗談でしょ!
女なんて怖い怖い!
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