16

「おはよ~席に着け~い。おい松田、ゲームをしまえ。中川、化粧は禁止だっての!」

 八時四十分、担任の大野日出男がチャイムと共に登場。毎朝の挨拶と小うるさい説教から始まるSHR《ショートホームルーム》は、瞬時に心身の怠さを誘う魔力がある。出席簿を睨み、軽快に点呼を取っていた声が十三人目で途切れる。「坂田。坂田……あれ、今日は坂田は休みかな」

 大野教諭は出席簿を腹に突き立て、教室を見まわした。

「先生の方には何も連絡が無かったんだけど、誰か、何か」「先生!」

 一人の女子が挙手した。

「おぅっと。どうした?」

 中条に次ぐ優等生でありながら天衣無縫てんいむほう、不思議系キャラが売りの谷本たにもと千夏ちなつ

「私、見ましたよ。今朝、坂田さんが鞄を持ったまま家庭科棟に歩いていくの」

 あくまで平静を装って。もちろん、教師を誘導し坂田優香の干物を見つけさせるため。

「家庭科棟? なぜに?」大野教諭の声が裏返る。

「全く以って分かりません」髪質の良いポニーテールがあえかに揺れる。

「あ。もしかして課題とか補習とかそういったモノは」「きれいさっぱり、ありません」

「じゃあ、おかしいじゃないか。どうして坂田が一人でそんな所にフラフラと」

「俺も見ました」

 次に手を挙げたのは、男子。独特の低い声、鹿島だ。

「鹿島、お前も?」

「はい。朝練が終わって上履きに履き替えて階段を上ろうとしたら、一人で家庭科棟に向かう坂田さんが見えました。いつもより早く学校に来ていたから、何だろうなって」

「……あぁそうか、なるほどな……ありがと」

 大野教諭は赤い教務手帳を捲りながら考えた。トイレかな。いや、まさか。この階に二箇所も有るし、わざわざ家庭科棟まで行く理由が無い。説教を食らっているのか? いや、それもないな。優秀な彼女が早朝から呼び出しを受けるような大失態をやらかすとは思えない。

 竜司が咳払いをする。「先生。私、心配だからちょっと見てきますね!」それを合図に千夏が席を立ち、廊下に出て走り始めたので教諭は面食らった。

「あ、コラ! 後でいいから、おいって!」彼が止めるのも聞かず、階段の方に一目散に駆けて行く。「あ、俺も」「私も坂田さんが心配」「もうじっとしてらんないぜ」「しゅっつど~う」

 妙な騒めきに振り返ると、クラスの全員が廊下に出て来ていた。

「おい!まだHRの途中!坂田の事は後で先生が確認する――」「自分、クラスメイトを放って勉強出来るほど薄情でもないんで」修が冷たく言い放つと、三十人の生徒が一斉に走り出した。

「おおおおい!?どうなってる!?待ちなさい、コラ!」

 彼も出席簿を抱えたまま成り行きで後を追う。

「こらぁ、誰か説明しろ!」B組とA組の生徒が、窓の向こうで唖然と見送っている。

「大野先生」

 突然呼び止められた。振り向くと、A組のドアから掘り深い面長の顔が覗いている。

「どうしました。何があったんですか?」

 若手英語教師の皆川は、濃い眉毛を訝しげに寄せた。

「皆川先生。丁度よかった、一緒に来てもらえませんか」

 いちいち説明するのは面倒臭いと、目を眇めている彼を戸口に呼び寄せる。

「いや、あの、大野先生。HRの途中です」

「いいからとにかく、一緒に来て下さい。生徒が一人、行方不明なので」

 それを聞いて、皆川教諭の目の色が変わる。

「何ですかそれ?じゃあ、なぜクラス全員が?いったい何が起こっているんです?」

「いいから!来てくださいって!」

 大野教諭は困惑する皆川教諭の背中を押した。二人が階段室に足を踏み入れた刹那。

「ギャッ!!何コレ!?」四面に乱反射した悲鳴は、そのまま甲高い金属音にも聞こえた。

「中二階だ」二人が階段に向かうと、生徒達が職員トイレに鈴生りにたかっていた。

「どいて。邪魔だ邪魔!」

 生徒を押し退け掻き分け進むと、何人かが女子トイレの個室前で立ち尽くしていた。

 そのドアの向こうに見えたモノ――居た、坂田優――香――何かが変だ……首が長い?

 いや違う、あれは――

「せせ、せ、先生~ぇぇ、扉に鍵が掛かってたんでぇ、おれ、俺が蹴って開けたんです。そしたら、そしたら、坂田さんがぁぁあああ」鹿島が激しく動揺した様子で彼に縋りつく。

「首、吊ったのか」

 見れば分かる事なのに――慌てて口を閉じる。

「ウソ……何で!こんな事……何でぇえええええええ」

 未来の隣にいた千夏は、ショックのあまりその場に泣き崩れた。

「こ、こら、早く出てきなさい!これは見たらあかんッ!早く出なさい!」

 大野教諭が生徒を遠ざけようとするものの、全員の動きは鉛のように鈍い。


「ン……んん、んっくくく……ぎひっ……」               

 人集りの後方、二階に繋がる階段の中程から見下ろしている竜司は、込み上げる笑いを抑えるのに苦労していた。親指を強く噛み締め、かろうじて押し殺す。みんな芝居が本当に上手い。俳優になれそうな位だ。坂田の為の通夜悲劇を上演する筈が、どういう訳だかあいつらの晴れ舞台になってしまった。本気で取り乱している教師のなんて滑稽な姿……どんな映画より演劇より、今この光景を見ている方が愉しい。どうだろう、劇団『芝浦座』でもつくってみようか。


「何てこった……あぁぁぁあ……」

 大野教諭はどうする事も出来ず、唇を噛み締めた。

 なぜだ。なぜ、事前に防ぐ事が出来なかったのかと、自らに厳しく問うた。一方の皆川教諭は、冷静に状況を整理していた。消沈する生徒達を目の前に、クラスメイトが縊死した際には一教員としてどのような対応が最良かを迫られる。突然の不幸に対し、現実を受け入れられない生徒も多く居るだろう。カウンセリングを徹底し、PTSD等に対するケアー入念にしなければなるまい。早晩生徒達はこの現実を受け入れる時が来る、その時にそっと寄り添ってやる事ぐらいしか出来る事はない。

「校長先生と、学年主任を呼んできます」

 床と下半身には失禁の跡があり、硬直した手足が現実味を剥離させている。目、鼻、口から体液が流れ、生前の影も無い――その姿はまるで車に轢かれた蛙のようだった。


 生徒達は自習を命じられ、打ち拉がれたポーズで教室に退却してきた。

 その後はクラス全員で作戦の進行を確認し、成功を静かに祝った。

 騒めきの外で、未来は一人、皆から離れて佇んでいる。ふとゴミ箱を見ると、自分が捨てた優香の自己紹介カードが覗いている。写真の中の彼女と目が合う。暫くその笑顔を見詰めた後、一人静かに教室を出ていった。


          *


 夕方、仕事を終えて愛車に向かって歩いている時の事だ。

 なにか不穏な気配を察して視線を上げると、三〇mほど先の道路に悪魔がいた。

 無視を試みるも、耳に届いた声に動きが止まる。倉庫の陰に隠れ耳をそばだててみた。

「――うん、分かった。次はあの――そう。あの人を潰すんだってさ。げぺっ。なんでも今回はこっそりやるらしいから――そう、うん。だから明日の放課後に基地に集合って事でいいかな。うん。よろしくね~バイバ~イ」達也は携帯電話を仕舞うと、自宅に引っ込んだ。

 おい、今、潰すって言ったな……まさか。一昨日のあの夜、彼はあの倉庫に居た。そして基地というのは正にあの場所を指す隠語なのだ。芒洋とした疑念は遂に確信へと昇華した。

 ――沼田達也は連続猟奇シリアル殺人サイコキラー――

 確信が持てたとなれば、彼が計画している悪事を食い止める必要がある。とにかく明日もう一度あの倉庫に行く。警察にはまだ触れさせない。まだ調べるべき事が山積みだ、ここは敢えて二の足を踏んで道草を味わい油を売ろう。菰田の内側で、刑事に憧れた頃の記憶と高揚感がアリアリと蘇ってきた。


 心拍数は高いままだ。高校時代に不整脈が見つかったのに、これでは身体に悪い。

 翌日。菰田は仮病を使って欠勤し、例の倉庫を訪れた。達也の事で気を揉みに揉んで今にも破けてしまいそうな敏行が、まさか君までおかしくなったの、となかなか電話を切ってくれず朝からフルストレスで精神のバッテリーも上がりそうだ。

「無力は大罪、無力は大罪……ああ、いつになったら来るんだ」

 風も音も止んだ。時計を見るともう二十分も経つ。学校が放課になるのが三時二十分。彼らの移動時間も考慮して四十分からここに居るのだが、いっこうに姿を見せない。

「これ、まさか感づかれてないだろうな」

 それから更に三十分も粘ったものの、遂に〝猫〟は現れなかった。


 菰田がしぶしぶ立ち去った後、何もなかった林から人影が伸び上がって、揺れた。

「よっこらしょっと。あ~、待ち呆けは辛いよお」

 菰田が坂を下って行くのを見届けながら、扉に凭れ掛って二つ折りの携帯電話を開く。

「もしもーし竜司君?聞いて、予感的中。うちの新入りさん、ボク達のこと疑ってた……基地の事もいつの間にか知ってたみたい……うん、分かった、そうするよ」

 携帯電話を仕舞うと、林の中に隠した工具箱を取り出し、基地に入る。

 実は昨日のあの時、菰田が本気で自分達を疑っているかテストする為、皆に内緒で彼をここに仕向けたのだ。それは彼の独断であった。あたかも仲間と電話をするように装い、隠れているつもりの彼に聞こえるよう喋っただけ。

「ここを見られた以上、見逃す訳にはいかないもんね~」

 達也はふわりと微笑んだ。やれやれ、またしてもちょっかいを出す子が出てくるのか。

 楽しく生きるのも楽じゃないねえ。

 鼻歌混じりに三台の車の点検をしながら、星の処分について策を練り始めた。

「うん、そうだね」

 突然、声を上げて狂ったように笑い始める。

「やっぱり、殺しちゃお~っと!」


          *


 髪がサラリと翻り、まるで満開の花に顔を押し当てているような香りが舞い上がる。

 体勢を直すと、竜司は背後から小さな耳を甘噛みした。

「うっ……ん」一瞬びくりと反応した後、まるで刺激を求めるように、養分を欲するかのように、自分から腰を押し付けてくる。本能的で、野生的で、最高だ。

「奴ら、どこまでついてくるだろうな」

 弾む息を少し抑えた様子で囁く。

「わかんない……どうして……」未来は目を閉じたまま、絞り出すような声で応える。

「この作戦ってのはさ」

「うん」

「自由は自由だけど、如何せん不安定なのは……お前も分かるだろ?」

 肩に直に触れた喉仏から低く振動してくる声は、たとえ同意の気がなくても頷かずにはいられない、そんな魅惑の力、呪縛のようなものを内包していた。

「うん……うん」

「どこまで自分を信じて、ついてきてくれるだろうな。俺を信じるより、奴ら、どれだけ俺の敷いたレールを歩んでいけるか、自分自身をちゃんと信じていけるか、気掛かりだ」

「う……ん」

「なかなか難しいもんだな、これ」

 未来は後ろから規則的に突かれながらも、頭は至極冷静な思考を保っていた。作戦の首謀者であり、発端そのものである自分を信じるよりも優先すべき事がある、と説く竜司。

 普通なら、自分を何よりも信じさせるのが首謀者というもの、そういったイメージを持っていた未来は素直に驚いた。否、自分があまりにも短慮だったのか?そんなまさか。

「お前は、どう思う」

 彼の特徴の一つが出た。こうして唐突に意見を求めてくる。

「え……っと、え……」

 ダメだ、追い付かない。感じているフリをしてごまかしてしまえ――

「あれ、あまり理解できてないか」

 ばれた。

「いや、その、そうじゃなくて」

「いやいや。まぁいいや」

 そう言って、動きを大振りにし始めた。彼自身が盛り上がってきたのだろう。

「どうした。今日はあまり乗り気じゃなさそうだけど」

 声の調子こそ普段と変わらないのだが、妙にドキリとさせられる。

 自分の中の一切合切の感情だけではなく、身体的な反応すら読まれている。

「そんなことないよ、ちょっと疲れてるから、エンジンがまだかかんないだけ……」

「なるほどな。いつもならもっと締め付けてくるのに、どうも緩いからさ」

 未来の頭の中は白紙になる。何か、この男は別の意味でやばい。

 全ての現象を、手に取るように把握している――

「ごめん……うあっ」

 その瞬間、身体を離したかと思うと左腕の付け根を軸に仰向けにひっくり返された。

「身体は嘘つかないから、嘘をついてるのはなんとなくわかったりするけどな」

 すまなさそうに笑った顔を俯かせ、作り物のように見事で美しい胸に顔をうずめる。

「あっ……っくくぅ」

 いきなり性感帯を刺激するのは反則だ。理性の薄皮を突き破った本能の声が漏れる。

「本当に綺麗だな。お前の身体は」

 悪い気などしない――しないのだが、次の行動が読めないのが不気味なのだ。

「だったらほら早く、もお一回ちょうだい」

 媚びた声で自慢の美脚を開いてみせる。

 再び、硬くて熱いものが侵入してくる。最初よりも強く、しなやかに。

「ようやく、エンジンかかり始めたか」

 穏やかな声が得意気に湿っている。

「うぅ……あっ……っく……」

 未来は自分の声に興奮し、たまらず竜司の腕に歯を立てた。

「いつまたできるか分からないからな」

 竜司はペースを上げた。

「やばい、そろそろっ」

 十分ほどして、未来は自分の鎖骨に両手を寄せ、上体を逸らせる。まだ十代だというのに官能的だ。「俺もっ……あっ」

 力強い脈動を股間に感じながら、未来はあれ、と思って上体を起こし、悲鳴を上げた。

「……ゴムしてなかったの……?」

 自分の体内から流れ出る濃厚な精液を眺めて、唖然とするよりなかった。

「気にするな。次いつできるか分からないって言ったろ。これが最後かもしれないからな」

 竜司は上気した顔を近付け、唖然とする未来の頬に優しくキスをした。


          *

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