14
「あれ何かな」と警邏パトカーの巡査部長が前方を指差す。ハンドルを握る巡査がハイビームにすると、こちらに鼻面を向けて駐車するバンが浮かび上がった。「車ですね」「あれ?ちょっと待てよ」巡査部長が異変に気付く。同時に、血の気がサッと抜けた。登坂するパトカーの前方五十メートル余りの所に見えたバンが、明らかにこちらに向かって動いているのだから。
「あかんあかん……ちょっと止まれ……!」
運転する巡査も状況が理解できたのか、顔がさっと蒼褪めた。もう、すぐそこまで来ている!慌ててブレーキを踏むが、猶予は無かった。強い衝撃があって押し出される。後続の刑事の車が追突していた。前方には表情のない仮面――衝突音が轟き、辺りの空気を凹ませる。
バンは警邏パトカーに真正面から突っ込んだ。柔らかいフロントを押し潰して後続の覆面パトカーのレガシィごと後ろへ弾き飛ばす。おしくらまんじゅうに遭った警邏パトカーは弾みで後退し、道を逸れて木の枝をへし折りながら斜面を転がり落ちていく。後方のレガシィは路肩に押し出されて泥濘にはまって停止した。そこへ、再び惰力で下ってきたバンが左側面に容赦なく突き刺さる。
空気の流れが希薄な密林の中、サイレンのみが虚しく吹鳴し続ける。
衝突されたレガシィはエンジンからキュルキュルと音を立てながらも、それでもなんとか自走が出来た。動こうとすると左の土手っ腹が鳴く。まだ下ろうとしているバンが車体を押しているのだ。それでもアクセルを精一杯吹かし、車体を削りながら前進した。破壊音を奏でながらリアバンパーが外れ、かろうじて車体にぶら下がる。バンはレガシィの車体から離れた途端に再び坂を下り始め、木の幹に衝突してようやく停止した。
「お、よしよし。うまくいってるよ!げっぷぅっ」
達也が窓から顔だけ出した。前に停まっているロケバスの窓からにゅっと腕が伸び、親指が立った。先ほど生贄に捧げたバンが上手く働いてくれたようだ。
だが、どうしても厘毛の狂いが生じる。もう一台が生き残ったのだ。
「ちっ。忌々しい、一台残りやがってからに」
「結構スピード出てたのにね。あれも壊さないとまずいんでしょ?」
助手席の美幸が修を振り返る。普通と違う心理状態の為か、媚びた声ではない。
「そりゃあそうさぁ。なぁ辻方」
「ん、何かと後が面倒臭い。この際やから潰しとかにゃ」
辻方は軍手を嵌めた指でパフパフとステアリングを叩き、しきりに何か思案している。さっき胸を強打したせいか、時々苦しそうに咳き込んだ。
「だけど、もう道具も武器も無いじゃん。どうやってあの車を制圧するのさ」
取り乱しやすい修が問題を毛羽立たせる。
「使えるモノはなんでも使う。何も無い事はない、黙って探せ」竜司は座席の足下に窮屈そうに屈み込むと、座席の下や物入れを探り始めた。だが期待も虚しく何も良い物が出ない。のど飴、ビニール袋、ノート、台本と思しき冊子など、まるで役に立ちそうもない。修のスタンガンは電池切れ、ワイヤロープはテンパった寺島が脱出する際に落としてしまうという体たらく。
助手席の美幸が何かを見つけた。と思えば、それは発煙筒だった。「抜くな!」
「あーもぅ、どうするよ。出らんねぇ」修がシートにふんぞり返って足を投げ出した。
「……リスクが伴うんだがな……」
ボソリと呟いたのは、なんと辻方だった。ささくれた衆目が辻方一人に注がれる。
「おどれら、こうなってしもたらもう強硬手段を使うしかねぇで。オェに策がある。よう考えてみよ。ここまで怖いくらい上手くいった。そやのに、こんな所で簡単にしょっ引かれてたまるもんかぇ。そやろ? 意地でもこの仕事を成功させるんちゃうんけ? 力尽くだろうがサイテーだろうが、目的を達成するのに綺麗事は蛇足やろ。トップに立つには己の全てを投げ出して全力で駆け抜ける思い切りさというかな、こう……勇敢にならんとアカン時もあるやんけ。それが今やぞ。お前ら、この修羅場を乗り越えたらまた一歩目標に近づくんや。トップに立つ資格をゲットできる、違うか?」それだけ言うと、大きく噎せ返った。
皆は彼を心配する気持ちと、らしくない言葉に対する想いとが入り交じった複雑な表情で互いを見合った。そして唐突に、ぎこちない拍手が起こった。
「辻方、よく言った。やっぱりアンタは優秀だよ」
竜司が熱弁を讃える。
「やめぇ、こしょばい(くすぐったい)わぇ」
「そんなら、早くしようぜ。奴ら無線で応援を呼んでるかもしれねぇ」
「それもそうだな。辻方、どんな考えだ?」
「よぅ考えよ? 車の中に使える物は無い。って事は頼みの綱はこれしかない訳や。おどれら全員、出来るだけ前の方に来い。ケツから突っ込む。この車はでかくてゴツイ。オェらの分の重量もある。あっちは普通のステーションワゴン、軽く吹っ飛ばせるはず」
「よし賛成、そうしよ。みんな早く前に来て、早く!」
未来がバトンを繋ぐ。この車は後部席が四列有り、皆を前二列に集めようというのだ。
運転席に辻方、助手席に美幸、その後ろに修、竜二、未来、さらに後ろに寺島、柿崎、翼が互いに身を寄せ合う形になった。皆まともに座れないので窮屈そうに蹲る。
「みんな準備出来たな? 達也にも言わなあかん、ちょっと待っててくれ」
彼は車を降りて行った。
「ぐぇあ~……いってェなこんちくしょう、なんてこったぁあ」
松井は左肩を庇い、呻いた。衝撃でドアが内側に凹み、それで強打したのだ。
「大丈夫ですか?他にどこか怪我は無いですか?あったら言って下さい」
軽傷の中谷が松井を気遣う。幸いエアバッグが作動したので、二人とも致命傷は避ける事が出来ていた。中谷にあっては少々首を痛めた程度で奇跡的にほぼ無傷だった。
「うぅ痛い。大丈夫や、ちょっとした打撲……こんなん気にせんでええ」
松井は姿勢を変え、林を睨んだ。「あのPC《パトカー》の奴ら、平気やろか」
「わかりません、どこまで行ったんですかね。音はしますけど」
「くっそドアが開かへん!中谷、ちょっとアイツらの安否確認だけ頼めるか」
「了解です。松井さん、本当に大丈夫ですか?」
苦痛に歪む表情を見る限り、心配するなという方が難しい状況だ。
「大丈ー夫。署の方に連絡入れとく。安心しろ」
「分かりました。じゃあ、ちょっと見てきますね」
中谷は物入れを開け、ペンライトを掴むとドアを蹴って無理矢理開け放った。
「がっ!?ふうっ、はぁっ」突如、氷柱で刺すような激痛が腰椎を射抜いた。
――ダメだ!腰をやってしまったらしい――中谷は立ち上がると同時に背中を丸めた。
「おい中谷、お前」「大丈夫です、だ……え」
突如固定する中谷の双眼。怒りとも悲しみともつかぬ目で一点を凝視する。鳥肌が立った。
―――なぜ?
―――何がしたい?アレは、何だ?
それは、動物的に、人間の心理的に、理解できる限度を超えた世界。
「あ」大きな車体がレガシィの右前部を砕いた。咄嗟の判断が遅れを取り、中谷は車体の間に挟まれ、そのままフルパワーでゴリ押す車体に潰された。なおも猛り狂う7000rpmの爆音。車体は衝撃で左舷側に横転した。高出力のディーゼルエンジンを吹き上げ、坂道を転がり落ちる。四回転はした頃、不意に車体が踊り腹を下に路肩に停止した。
無惨な姿となった覆面パトカーの横を掠め、バスが轟音と共に通り過ぎる。すぐに無理な急ブレーキをかけて止まり、引き返してきた。スライドドアが開き、修が下り立つ。懐中電灯で車内を照らして見た。中年を過ぎたくらいの恰幅のいい男が一人、助手席でぐったりとしている。頭や鼻から流血し、口は半開きだ。「よし、大丈夫そうだな」
願ったり叶ったりで彼は跳ねるように車へ舞い戻った。丁度良く達也が追いつく。何か大きい物を踏み越えたらしく、ヘッドライトの光線が大きく波打った。
バスの横に停車すると窓が下がり、場違いに明朗な笑顔が覗いた。
「どう?招かれざるお客様のご機嫌は」
「ん、まぁ、満足じゃないか。とりあえず殲滅はできたし」
ダットサンは急かすように、しきりに車輪を軋ませている。「なら早いとこ逃げちゃお。プロは姿を消すのも早いって」「そんじゃ行くか」
二台は何事も無かったように飄々とその場を走り去った。
インパネの時計は午後十一時半を示す。かれこれ三時間以上病院に居たが、それにしても長く感じられた。軽く十時間くらい居たのではと錯覚するくらい濃厚な時間だった。
「はぁ~。いつもより何倍もハラハラ、ドキドキして楽しかった~!」
ポカリスエットを飲んでいた美幸が、満足感と安堵の混じった歓声を上げる。
「だけど、サツが登場するなんてねえ。それも、こんな山奥の廃病院によ」
一方で寺島がジェスチャーを交えて愚痴を吐く。緊張の余韻がくっきり残っていた。
「警察様はどこへでも来る。それが彼らの仕事だから。一番デカいのは警察が来た事じゃなくて通報した人間が居た事だ」竜司が諌めるような目で寺島をちらと見やる。
「言えてる。チクった奴が居なけりゃ元からこうはならなかったもんな」
交互に二人の様子を観察していた柿崎が、諦めたような溜め息を漏らす。
「いいじゃんもう、もう終わった事なんだから忘れろよ!なんだかんだでビックプロジェクトが成功したんだぜ?もっとハジケよーぜ!」修はヒステリックに喚いた。
「確かに私達、よくやったよね~。よっしゃ、今回は大成功!」未来がそれに同調する。
「よし、明日は打ち上げだあ!」「どこでやる?」「達也にも言ってやらねぇと」
喧噪に包まれた車内で、辻方がルームミラー越しに遮った。
「そうだった、達也を忘れるとこだった!」「「「ハハハハハ!」」」
全員で後方をどんがらと追い縋る達也号を覗く。見る度に思う、あんなに砕けているのによく自動車として機能しているなと。二台は公会堂前に差し掛かり、T字路を右折して速度を上げた。腕利きの窃盗団のように素早く、屈強な海賊のように俊敏な身のこなしだった。
薙ぎ倒された枝の先、六m程下の雑木林に警邏パトカーが転覆している。
完全に裏返しになっているせいで屋根が潰れ、車幅灯とサイレンだけが馬鹿になって作動し続けていた。落下の衝撃でスロットルバルブが開き、エンジンが突飛な音を立てて後輪を猛烈に回している。捕まった猛獣が自由を求めて懸命に四肢を踏ん張っているようだ。
巡査が体に積もった硝子の破片を払い落とし、苦心して顔を出した。助手席で相棒の巡査部長が足を上に〝く〟の字になっている。身体がシートベルトで宙吊りだ。
「うぅっつ……」少し動いただけでも激痛が走る。右足の膝辺りを骨折し、痺れて動かす事が叶わない。肩にある無線機のマイクを探る。ふと地面に目をやると、外れた無線機のマイクが落ちていた。拾い上げてスイッチを押す。「い、一○七号車から本部っ」
痛みに耐えかねて一度手を離す。いらえはない。
「一○七号車の吉本……応答願います……」
ノイズさえ届かない。腰に付いている本機を上に向けた。蓋板は割れ、中の基盤が露出している……電源ランプが点いていない。――絶望だ――
力無く無線機を手放すと同時に、何かがおかしい事に気付く。――どうしてこんなに、明るいんだ――愚問だった。視線を上げると死神の放った業火が赤々と光を放っていた。
「うわっ!? 引火しとる、こりゃあかん」
渾身の力でもがくが、身体が抜けない。上半身は辛うじて車外へ出せたものの、下半身が潰れたルーフに引っ掛かっているのだ。車は右前方、エキゾーストマニホールド周辺から激しい炎を噴き上げている。構造上、爆発の危険性があり、二人とも危ない。
「くそっ、なんだ、こんのっ!」
身体を捻ったり曲げたり、反動をつけて捩ったりするが全く抜ける兆しが無い。逃れようともがけばもがく程、蜘蛛の糸や蟻地獄のようにのめり込んでいく。
「ぐゃああああ!!ひい、いててて」
折れて人形のように覚束なくなった右脚が、逆方向に捩じくれた。
「うがっ……さ、斉藤さん、斉藤さん!大変です!起きてくださいよ!」
懸命に呼び掛けるが、相棒は身動ぎ一つしない。鼻を衝く刺激臭。ガソリンと樹脂、そしてゴムが焦げる臭い――破れたエキマニから漏れる高温の排ガスがアンダーカバーを焼き、それが火元となっていた。「やばい、どうしょう、クソッ!」ドアとルーフの隙間に手を突っ込むと拳銃を引っ張り出し、ヒンジに向かって六発の銃弾を浴びせてみた。歪んでいるドアは根本から無理矢理に外してやればいいと考えた。
だが死神はそこまで慈悲深くない。取っ手を掴み身を捩って引くも、ほんの数センチ前後に動くだけで如何な開く兆候を見せない。「そんなっ……おい頼むよちょっと!」
火は着実に勢いを増している。火炙りの贄とされたパトカーは、もういつ爆発してもおかしくない、正に一触即発絶体絶命必死危急万死一生累卵存亡――
「抜けろ、このやろ、っか!!あばぁ!!あああああああああああろあああああああ」
走馬燈は高速回転をやめない。それまで木霊のように芒洋と立ち篭めていた死神の唄が、塩のようにいよいよ心に擦り込まれ滲み始めていく。
「死にたくない!! 頼む、ちくしょう!! 待て、やめろおおおおおおおおおおおおおお」
*
目を開ける。筆で刷いたような、ただただ真っ黒な空間が漂うだけ。
「……ナニか来たかなぁ……よっこいしょ」
腹筋に気合を入れて上半身を起こす。ズキンと頭痛がした。枕元の時計、デジタル表示板は午後十一時四十八分を示している。まだ床に入って二時間も経っていない。菰田矢太郎には鋭い勘が備わっている。何かいつもと違う事が起こったり、何もなくとも矢で射抜かれたようにピンと来た時、決まって良くない事が起きる。それは中学二年生の時に唐突に身に付けた望みもしない不可思議な力。きっかけは父の交通事故死。その葬儀を終えた直後から、霊界と現世の狭間から飛ぶ電波を拾い始めた。
――今度は何だ――実家の母親に不都合か。親戚の不幸か。友人の悲報か。布団から抜け出して冷蔵庫に向かう。墓場より殺風景な眺め。「しまった、飲み物切らしてたんだ」
このアパートを出て少し行くと自動販売機がある、スポーツドリンクを買おうかと、小銭を掴むとサンダルを突っかけて部屋を出た。駐車場に下りた途端、妙な音がしている事に気付いた。車だ!車の音だ。この辺りで夜中に出掛ける酔狂な人間といえば、二軒隣で一人暮らしの茂田の爺さんぐらいしか心当たりがない。しかし彼の軽トラの音ではない。菰田は駐車してある車の陰から正面道路を凝視した。割れた音――大型車かディーゼルエンジン。道が淡く照らされる。その光の中を疾走していったのは中型バスだ。百鬼夜行の具現かと思った。先頭を走るバスのテールは大きく凹み、二台目の小型トラックは車体そのものが崩壊している。荷台に自転車を載せ、山の方へ疾走して行く。彼は無意識に部屋へ取って返すと、コップの水道水を一気に飲み干し、携帯電話と車のキーを掴んで寝間着のまま部屋を飛び出した。エンジンをかけ、フル加速で灼けた轍を追い掛ける。ただ単純に好奇心に駆られただけ――それだけだ。しかし、その好奇心の中心には言葉にならない
「どこ行った。そう遠くはない筈だぞ、出てこい」
小出力の機関を
「……いやがった」ぼんやりと赤い尾灯が現れ、幻惑される。速度を落とし、ライトを消す。
二台は高校脇の細い山道に分け入っていく。二十秒ほど遅れて菰田の軽自動車もそこへ入る。少し登ると左方向に未舗装の小道が現れ、車はそこに停まっていた。二台が確認出来ると即座に停車し、エンジンを切って車外に飛び出した。足音を殺して木の陰に滑り込むと、そっと様子を窺う。古い建造物が視界に入る。トラックのヘッドライトが寒々と照らし出す中、バスから四、五人が降りてきて扉の前で何か話し始めた。ここから連中までの距離はおよそ十m。まだ声は届かない。ガチャリという音が響き、続いて低い音を立てて倉庫の巨大な門が開かれた。よく見えないが、声や背格好からしてそこにいるのは全員が男性ということは分かる。男達は皆、倉庫の中に入ってしまった。すぐに明かりが点き、程無くして中から金属を放り投げる尖った音や、何か重い物が倒れる音が漏れてきた。五分後、男が一人、出てきた。
「いいよ。入って」
運転手に向かってそう言うと、車の後ろで誘導を始めた。車は尻から入っていく。
それと入れ替えにさっきの四人が出てくる。トラックの運転手に何か伝えている。
「タツヤー。チャリ、今すぐ降ろすってー」
高い声だな。声の質からすると、中高校生だろう。大人ではない、周波数が高い独特な少年の声で「タツヤ?」確かにそう聞こえた。男はすぐに車から離れ、倉庫の扉を片側だけ閉めた。そして、頭から入っていくトラックと他の三人を見送ると、もう片方の扉も閉め、建物横にある小さなドアから中へ消えた。菰田は勇を鼓して倉庫に近付いてみた。さぁ、ここからが勝負だ。建物の外壁をなぞり裏へ回り込む。「あそこ……」一カ所だけ、窓が割れてブルーシートで目張りが施されている。覗きという行為は何とも汚らわしいが、今は冒涜も道徳も二の次だ。湿った土だけ踏み、そっと捲ってみた。思わず目を見張る。眼球が膨張する錯覚に見舞われた。
倉庫の中には暖色の電灯が灯り、見渡すのに十分な明るさが供給されていた。扉側には先ほどのバスと小型トラック、そしてもう一台、錆の酷い四トンクラスの平ボディーがこちらに尻を向けて停められている。車の周辺には整備に使うジャッキや工具、オイル缶等が散乱している。視線を移すと、車の周りには六、七台の自転車も並べてある。
「あれって、もしや」その中の一台を見てハッとする。緑のフレームに、泥除けがマットブラックのラッカーで塗装されたマウンテンバイク。これは、確かに沼田達也の愛車だ。
――タツヤ君――本当にあの子なのか――
脳が感電したような感覚になる。さらに研ぎ澄まされた聴覚が男女の声高な話し声を拾った。首を突っ込み、声のする方を見ようとした――
ピリリリリリリリリリリリリィィィィィィ
ポケットに入れてあった携帯電話が激しく鳴り出した。慌てて黙らせるが、「おい、なんか外でケータイみたいな音、しなかったか?」「気のせいだろ?」「一応見てくる。サツかもしれねぇ」と騒ぐ様子がビンビン伝わる。菰田は一目散に逃げ出した。空を飛ぶように走り、自分の車に飛び乗ると惰力で坂を下らせ、道に出るとエンジンを始動し、瞬く間に走り去った。
運転中、また着信が来た。ゴネゴネと縺れる手で携帯電話を掴み、液晶を見ると【沼田社長】の文字。幻滅と安堵が前頭葉で交錯して新たな惑星を創出しそうだ。
「は、はいこんばんは。こ、こも、菰田です」
📶 おう~。お疲れちゃんばんわ。わざわざ名乗らんでも、分かってかけとんのやで 📶
「あぁ、はああいえぅ」
📶 ハッハッハ。さては寝惚けとるな?いやぁ、夜分遅くに悪い。起こしちゃったか 📶
「い、いいえ、そんな事無いですよ。大丈夫です」
📶 本当? なんか息切れしてない?平気かい? 📶
「大丈夫です。どうしましたか?」早く要件を言えウスノロハゲ。
📶 う~ん、あのな、また警察からなんやけどな 📶
「ケイサツ!?」
📶 そう、なんか警察の車が事故を起こしたらしくて。今は作業車の手配が出来やんから、大至急応援に来てくれって言うんだわ 📶
「そうなんですか」なんだ、くだらない。
📶 まったく訳が分からんよ。本当にごめんな。明日休みやのに。他の子らも呼ぶから、ちょっと工場まで来てくれるか?ホント、ごめんな 📶
「あ~、いいんです。どうせゴロゴロしているだけですから。今すぐ向かいます」
電話を切ると、ちょうど自分のアパートに到着した。大急ぎで数時間前に脱ぎ捨てた油染みだらけのツナギを纏い、工場へ急ぐ。既に敏行と二人の職員が到着し、作業車を暖気運転したり工具を纏めたりと物々しい雰囲気だった。沼田モータースは保険会社と契約しており、まれに夜に事故が起きるとこうして緊急出動することがある。
今回の件はそれに加え、三重県警の車両をかつて扱っていたご縁ともいう信頼もあり、呼び出しがかかったと思われた。
「ほな行こか。これをずーっと行ったところにある、昔病院やった場所やわ。おっかねー」
敏行は営業車のプロボックスのハンドルを回しながら顎で一本道を示す。菰田は助手席に乗り込んだ。この車とおんぼろ軽トラック、
「達也のヤツ起こしちゃったかと思って見たら、居らへん。こんな忙しい親父をよそにま~たどっか放っつき歩いてからに、ホンマにもう。不良少年だなぁ。ハハハハハ」
途中、サイレンを鳴らした警察車両が強引に追い越しをかけたので「おいおい、僕らも急いどるんやけどなぁ」と、敏行が遠ざかるテールランプに向かって呟いた。
「……事故……なのか……?」
鬱蒼と茂る木々が一カ所だけ、巨大なスプーンで抉り取ったようにポッカリと無くなっている。その中心でお焚き上げの供物のように燃える自動車の残骸があり、もはやオカルト的ビジュアルを呈していた。消防と警察は先着し、消火、救助活動が行われていた。「生存者!生存者一名!」「
「おぉ、まずいまずい。おいみんな、ちょっと車も下げて!自分らだけ逃げないで!」
敏行が指示を出し、自身もプロボックスを退避させた。ふと救助作業に目を移すと、丁度事故車から人が救出される瞬間だった。慎重に作業が進められ、救出された人物の顔を見てギョッとした。「松井刑事」そう、ほんの数日前に自分に聞き取り調査をした、あの県警の刑事。見まごう筈ない。
「おーいヤッちゃん、危ないからこっちに来いって」
数秒のあいだ茫然としていた。菊池に呼ばれてその場を離れた。
「ちくしょう、いやだなあ。警察も自分の尻拭いくらい自分でしろよなぁ。これだけ大袈裟に騒ぎ立てておいて、地元の人らがどれだけ迷惑か考えないのかな」
軽トラックに乗った菊池の愚痴を背中で聞きながら、悪いのは警察ではなく専ら犯人の筈と、内心穏やかではなかった。その後、黒焦げのパトカーと大破したレガシィを回収し、アパートに戻れたのは翌日の早朝五時を過ぎてからだった。
*
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