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 息を切らして走る。走るのなんて久方振りだ。しかも袈裟は重くて走りづらい為、思うように体が動かない。後ろからは班員達が負傷者を抱えて追ってくる。天井から下がる案内板によると、ここを左に行くと階段が有る。果たして――左に曲がる。

「はぁ、はぁ、助かったぁぁあああ」

 中年の音声係がゼイゼイと肩で息をして壁に寄り掛かった。一行は気絶した四人を抱え、慎重に階段を下りる。照明機材を捨ててしまったので、今は小さなペンライトのみが頼みの綱だ。「慎重に、し」「ウアァッ」気絶した一人の足を持ち、後ろ向きに階段を下りていた照明係が脚を踏み外し、階段を五、六段転げ落ちた。始めに落ちた小太りの照明係が踊り場でのたうち回っている。「川口さん何があったんです!?」「どこを打ちました?」「立てますか?」

 数人が駆け寄り、ライトを当てる。足の裏で何かの照り返し。

 光源の輪の中で、凶暴に光るメスが靴底を破って深々と突き立っていた。

「なんなんだ……これ……」「何で……こうなるんだよ……」「そんなアホな!」

 他の二人も転げ落ちたせいで胸や腰、腕にハサミやメスや注射器が刺さっていた。至って単純だ。階段の途中に発泡スチロールのブロックがあり、鋭利な部分を上向きにして射し込まれたが置いてあっただけのこと。

「罠だ……狩られるぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 一人が憑かれたように叫び出した。それを火種に、気絶した者を放り出して方々に散る者、その場で凍りつく者、負傷者を助けようとする者。Egoismとaltruismが明確に線引きされた。

「西田D。スタッフ数名が刃物で負傷、四人が失神状態、フォローしてもらえますか」

 小柄な男性Mがトランシーバーを使って救助要請をし、慎重に階段を下り始める。

が、踊り場で金縛りに遭ったように直立不動になってしまった。

「ど、どうしたんですか?」と後から来た吉野と段棟田も、先の光景を前に一様に固まる。一階に続く筈の階段。しかしその先にあるのは、先程見たのと同じ鋼鉄の壁だった。

「だめだ。完全に監禁された。あー。困ったなちくしょう」

「カン……キン……」負傷者の手当てをしていた黒沢が、呆けたように呟く。

 明らかに、悪意有るヒトの仕業だ。

「別の出口を探そう。それからみんなを助けよう」

「そうだ、こんな所に居ても仕方ない。とにかく動き出さなきゃ」

 カメラマンの鶴の一声で、その場にいた五人は再び二階へ上がる事にした。

「玲ちゃん、七海ちゃん、足下に気を付けて」

 スマホのライトで足下を照らし、アイドルを気遣う竜水。

「待って!僕も行きます」

 右腕と尻からの出血が激しい中年の照明マンが危ない足取りで立ち上がる。

「川口さん、必ず助けますから。絶対にメスを抜かないで。失血死するから」

 彼は後ろを振り返ると、足を負傷したスタッフ、川口に告げた。

「いや、むしろ抜くべきじゃないですか?変な菌が付いていて感染したら……」

「いや、それもダメだけど、失血死の方がリスク高いです。菌は病院で抗生物質を点滴してもらえれば大丈夫だから。それよか、血が無くなったらもう一貫の終わりだから!」

「そ、そう言われればそうですね……すいません」

「川口さんだけじゃなくて、怪我をした皆さんの為にも、先を急ぎましょう」

 それはそれで、苦渋の決断でもあった。六人は狂気が充満する病棟の更に奥へと消えた。


「ちょ、ちょっと待って!」

 四階に駆け上がり、長い廊下を走っていた若い男性局員が立ち止まる。すぐに三人の男女が駆けて来る。彼らは負傷した仲間を見捨て、とんずらした腰抜け組だ。

「ほら、これ、これで出られますよ!」

 彼の指差す先には、緊急脱出用の縄ハシゴが穏やかに戦いでいる。

「よく見つけたな。コイツは使えそう」

 カメアシが窓から身を乗り出して上階を仰いだ。庇が邪魔をしてハシゴの元は見えないが、確かに上の階から垂れ下がっている。

「他の奴らがコレで降りたのかもしれない。俺らも行こうか」

「上の階に行きません? ここからは危険じゃ……」

「は? 何を言って……ダメダメ!!下手に動いたら、また何か引っ掛かるかもしれないし、今ここで逃げないとヤバイよ!?死ぬよ!?」彼は躊躇う音響係の女性局員を言い包め(半ば脅し)窓枠に足を掛けて下を覗き見た。六、七mほど下に地面がある。ハシゴは草が所々に生えたコンクリートに向かってまっすぐ伸びていた。窓枠をしっかり掴み、ハシゴに足を掛けて乗り移る。そのまま片手で窓枠を掴んでハシゴを窓に寄せ、女性局員に掴ませると、巨躯を揺すって降り始めた。二人の女性局員と、若い男性局員も続く。


          *


「恐怖管理理論ってのがマーケティング手法であってな。どういうものかっていうと、ニュースの間や嫌な内容のテレビ番組の間でも車や食品のCMが挟まったりするだろ?」

 事前のロケハンの時、竜司はこの縄ハシゴに強く関心を示していた。

「そういえばそうだね。なんとなく不思議というか、脈絡ないよね、よくよく考えると」

 同行していた達也はウイダーのゼリーをちゅうちゅうと吸いながら無垢な目で見返す。

「そう、そこがミソなんだ。みんなよく考えてないとか言うけど、そこが何よりも、本当に何よりも危険なんだよ。世の中にあるものの全部が誰かの計画の一環だっていうのに、気づかないなんて悔しい」

「え、どういう計画なの?」

「人間って、ストレスとか恐怖を感じると、それを別の何かで補おうとするんだよ。たとえば仕事のストレスを解消する為にオヤジ達が手放さないものって何が思い浮かぶ?」

「うーん。酒とタバコと……女?えへへ」

「そうそう。つまりどれも快感が伴うものだろ?」

「確かに……どれも人によっては快感だね。げぷっ。ボクはどれも理解できないけど」

「お前はマトモだからだよ。俺についてくるぐらいだから、正常な証拠だ。問題なのは世の中の九割……とにかく、殺人事件のニュースだとか、痴漢冤罪や空き巣や交通事故で障害が残った話や震災で避難生活を余技なくされた話やら予想外の大きな病気のテレビなんか見たら、誰だってストレスを感じるだろ? 後味悪いだろ?」

「うん。病気こわい。冤罪もこわい。借金も……うあああああああ、世の中怖いものだらけだああああああ!」

「そういうとき、お前なら何で以てそれを乗り越える?」

「……毛づくろい」

「というと?」

「車たちを舐める、かな。げぷっ」

「………………まあ、要するに現実逃避を仕掛けるわけだろ?そういうわけで、ストレスを感じている視聴者に新しいSUⅤのCMを見せたりとか、高級チョコや新しいチーズなんたらバーガーを見せると飛びつきたくなる。『俺も私も、食べられるとき、買える時に手に入れとかなくっちゃ』って。海賊的な思考になる……そもそもこれ『宵越しの銭は持たねー』っていうのと同じで、耳障りはいいけどなんら中身はないんだよな」

「それは言えてるね! でもその理論と今回のこれ、どこに共通点があるの?」

「絶望の裏に、絶対に希望を仕掛けておくんだ。追い詰められた標的達が絶対に行きたがる方向に罠を仕掛ける。逆に言えば、そこへ導く。相手から、来てもらう」

 竜司の肌艶は日に日によくなっているのが、達也の目にもはっきりとわかる。

 そう、まるでガラス繊維コーティングを施したポルシェ・ケイマンのように――


          *


 最後の者が乗り移った直後だ。向かいの病室のドアがゆっくりと開き、巨大な剪定鋏を担いだ竜司が現れた。ブランブランと揺れる縄ばしごの向かって右側の縄を容赦なく切断した。ハシゴが傾きながら回転を始め、悲鳴が上がる。軋みながら捻れるもう一方の縄に刃を当て、容赦なく閉じる。切断面より上の縄が軽やかに弾み、短い悲鳴の後、一拍置いて重い荷物を投げ出したような音が届いた。

「自分の判断が全て正しいと思ったら大間違いだよ。体育会系」

 竜司は大股に廊下を渡り、階段に向かった。一歩ごとに男の呻き声が近づく。「な、なんだ!?イテテッテテ」二階の階段付近にいた男は巨大な鋏が目に入った途端、恐怖を滲ませた。

「た、た、頼むから、助けて!何も悪い事してないでしょ、お願いですっ!」

 両手をつき、痛みに歪んだ顔で命乞いをする姿はむしろ神経を逆撫でる。

「じゃあ、俺達に協力するか」哀れな男を見下ろし、柄を撫で撫でとても静かに囁きかける。

「やれま、し、する……何でもする、はい!しますからっ」

 恐怖で呂律が回らないのか、それとも脳がバグって飛んでいるのか。

「なんでも?」高輝度LEDで顔面を射抜く。

「やるします……ヒッごめんなさい……助けてくゲヘッ」

 ストレスを感じたので、爪先で喉を蹴り上げる。

 醜悪な音と共に大量の吐瀉物を撒き散らした。辺りに酸っぱい臭いが漂い始める。

「よし、目を閉じろ。助けてやるから」「ぐ、ぐぇ……」

 べそかきながら大人しく跪くチビデブ男。Sっ気のある竜司は笑みを零した。全長一m程の刃を閉じて脚を肩幅に開き、刃先を下に構え、頭髪の薄い脳天の上に配置する。

「ど、どうするつもりですかぁ?」脂肪がブルブル振動する。なんと情けない姿だろう。

「言っただろ、救済だよ。人命救助。だから大人しくしてなさい」

 ライトを口に銜えて得物を高々と掲げると、それを一息に振り下ろす。

 ――ザクッ。シャベルを地面に突き立てた時と同じ音、感触……一瞬、時が止まる。

 ――思ったより堅いんだなぁ、人の頭蓋骨って――

 次の瞬間、男の体は手足がピンと伸びきり、激しい痙攣を始めた。

 別に見ていて心地よいものでもないので、早々に剪定鋏を引き抜く。

「これで楽にはなっただろ」階段を降り切ると、すぐそこに血塗れの若い女性が座り込んでいた。茶髪のボブカットにナチュラルメイク、二十代半ばくらい。またしても玩具の差し入れ。

「キャ!?なに、学生!?」

 女は竜司を見るなり身を退いた。態度では怯えながらも目では威嚇をしている。

「何やってるの?助けて!ねぇ何よそれ?アンタ誰、どこから来たの?」

 女は矢継ぎ早に質問を飛ばすが、竜司は全く意に介さず、その様子を冷静に観察した。

「ちょっと。ボサッと見てないで!私怪我してるの。見てよ最悪、脹脛と腰に何か刺さっちゃって出血も酷くて。なのにどいつもこいつも我先にと逃げちゃって、ほんと最低。出口はどこか知らない?ていうかみんなは?」

「知ってる。でも一つだけ質問に答えてほしい」

 竜司はあくまで事務的な受け答えに徹した。

「え、何?」

「自分という存在と命、守るとしたらどっち」

「え? は?」女は気の強そうな目をさらに吊り上げる。

「あんたという尊い存在か、それともあんたの命か、はたまたそのりょ」「ちょっとぉ意味わかんない!私怪我してるの!見てほら血が出てるの!しかも自分で歩けないの痛くて!早く助けてよねぇ!なんなのアンタ?」

「…………………………………………」

 はい、上がり。恐怖の重圧に負け攻撃に走ったか。

「分かった。待ってて」彼女にも〝救済の手〟を差し伸べてやる事にしよう。

徐に背後に回り込み、いきなり――細い首筋に剪定鋏を突き立てた。女は喉から「カッ」という短い音を出して崩れ落ち、直後にゴポゴポと吐血した。

「話を最後まで聞こう。成功する人の多くはな、選択肢を前にするとどちらか一方じゃなくてその両方をと考えるんだ。生存欲求が薄すぎる。失格」

 さっき転落した縄ばしごの連中を見に行くと、一番最初に降りた男がまだ呻いていたので、狙いを定めて剪定鋏を槍のように放った。まっすぐに飛んだ剪定鋏は見事に男の胸に突き立ち、まるで伝説の剣のようになった。決して引き抜きたくはないが。


 未来は三階の個人病室から廊下を覗き見た。「そろそろ、そろそろ、そろそろ……」距離感すら掴めない、真っ黒な闇が茫洋と立ち込め、外から差し込む月明かりで辛うじて物の輪郭が分かる程度だ。深呼吸をした。

 普段の明るい女子高生から一肌脱ぎ去り、貴高く獰猛な雌ライオンへと変貌する。

「よ~し、やってやろうじゃん」

 潜在的な自信に満ち溢れた彼女は、小脇に抱えたそれを強く握り締めた。  

            

「あかん。ちょっと一緒に来い」「あ、はい」

 西田Dは隣に居た若手に声を掛けた。今し方、局に緊急事態発生の連絡を入れた。何が起きたかなんて分かるものか。上からの指示で、現場責任者である自分が乗り出す羽目になった。 

 強力な照明を玄関に照射し、オルタネーター(発電機)を駆動する為エンジンをかけたまま車を飛び出した二人は、悍ましく暗らかな戻らずの館へと踏み入った。

          

「よっしゃ、今がチャンスッ」

 入り口で張り込んでいた辻方が姿勢を低くして投光車に接近する。

手前にあるジェミニの影に隠れると、二人の走っていった方向を絞るように睨んだ。

日頃から他校のゴロツキ相手に追跡や待ち伏せをしていただけあって、身のこなしはプロの傭兵顔負けだ。


「おーい木村ぁー!!」

 妖艶な慟哭を期待していた翼の鼓膜に煩い声が突き刺さる。

ボスキャラ登場か。部下を捜しているのだろうが、残念ながらここには居ない。

「おーい、川口ぃ!!」

 翼はバックグラウンドで用意していた作業着に着替え、キャップを目深に被り、仕上げに伊達眼鏡を掛けた。鳴り物として職員用出入り口の扉を乱暴に閉める。

「木村か?おぉい!」

 西田Dが目ざとく気付き、懐中電灯で音のした方向を照らす。十m程先の闇に男が佇んでいる。ギョッとした。その人物は帽子を深く被り顔が見えない。局の人間ではないが――普通の人間とも一線を画す、なんとも言えない妖気を纏っている。

「おい誰やそこ!!」懐中電灯を突きつけ、凄みを利かせて誰何する。

「あ、怪しい者じゃありません。私は、ここの管理人です。先程、近くの住人から騒がしいと苦情が入りまして様子を見に来たのですが。何か、ありましたか」

 酷い嗄れ声。胡散臭い。

 西田Dは強張った表情を疑問一色に塗り替える。「管理人、所有者だぁ?」

「えぇ。ここの土地は事実上は私の管理下に置かれてまして……つまりはそういう事です」

「……は」

 ――待て、おかしい。村長に取材の依頼をした時、ここの土地は私有地ではないと言っていた。ちゃんと取材許可も取ってある。個人が出しゃばってくる筈はない――

 じゃあ誰だ。しかも、この辺りは空き家ばかりで苦情がくる訳も無いじゃないか。

「何かご質も」「おいおいおい!ちょっと待て。待て待て、待てや。村長さんに聞いたらここは個人の土地じゃないと言ってたぞ。何者ナニモンや。まさか、アンタがウチのもんに手ぇ出したんじゃぁないだろーな!?」

 極道のようにドスの利いた声で詰め寄る。

「おぇ、何とか言ったらどうじゃ!警察呼ぶぞ。ウチの連中はどこ行ったっつーの!?」

「はて、アナタのスタッフ?さてねえ」

 喉が痛い。名探偵コナンのような変声機付きネクタイが欲しい。

 翼は眩しさに目を細めつつ二人の後ろに迫る人影を確認すると、くるりと背を向けた。

「ちょ、帰るな!それならこの建物の中を案内してくれ。それくらいなら出来るやろ」

 瞼喁げんぎょう控えい。パワハラするのはこういうタイプじゃろうな。間違っても尊敬の対象にならん。

「んん、一度入ったら二度と出てこられない魔宮なのですが、覚悟はよろしいですか」

「アンタ、人が困ってるって時にふざけグボッ」

 西田Dの輪郭が歪曲し、糸が切れた操り人形のように無造作に倒れ込む。

「ひあ、うぎゃあああああグムェォッ」

 連れの若手も不協和音を奏でて拉げる。眼鏡が軽く吹っ飛んでいった。「っふぅ」

 目映い後光に浮かび上がったのは、大きなスコップを携えた男のシルエット。

 その影の殺人者に近付いていき、グータッチを交わす。

「修よ、お疲れ。ナイススイングじゃった」

 足下に倒れた二人を見下ろす。班長は後頭部が真っ二つに割れ、若い局員は下顎が左に大きく突き出していた。アメリカのコメディアニメのようで滑稽だ。彼はまだ息があって目球が元気に動いているので、スコップを突き刺しておく。「殲滅」「完了、じゃな。ワシらの仕事はこれでおしまい」修は悪を討ち滅ぼしたヒーローよろしくライトに向かって親指を立てた。


 ゴーサインが出た!

 辻方は軍手を嵌め、ジェミニの影から飛び出すと投光車のドアに手を掛けた。

「やっとオェの出番やわ。どれだけ待たせるんやまったく」

 サッと運転席に乗り込むと、サイドブレーキを解除し、Dレンジに入れて走り出す。強い光の線が大袈裟な弧を描く。鹵獲品を達也の待つ病院入り口へ回送する。その姿はまさしく、極秘任務に従事する傭兵そのものだ。

          

「今、投光車を盗られました」

『なんて? 何がどうなってる? 相手はどんな人物だ、いったい何人いる』

「一人、恰幅のイイ男が乗っていきましたが」

『相手は一人なのか?なら追えよ。そのまま渡すわけにはいかんぞ。絶対に取り戻せよ』

「は、はい。分かりました」

 通信が切れると間髪入れずにキーを捻り、アクセルを踏み込む。車内の機材が転がり、危なっかしい音を立てた。――急げ。今だけ、刹那主義者となれ。

          

 右側より、三つの強力な光源が向けられている。

「辻方君。上手くいったみたいだね」達也はクシャッと微笑むと、ダットサンのエンジンを始動させ、シフトコラムを――唐突だった。全神経を変色させんばかりの破裂音――振り向くと、バンの後ろに何かがくっついている――「え。な、何で」

目を疑う。動く筈がないもう一台が、辻方のバンに激突していた。

「辻方君……辻方君、ねえ大丈夫!?」

 達也は顔面も脳髄もいっそう蒼白になり、投光車の運転席に駆け寄った。

「いっててて!ちくしょうぉぉぉ、何じゃいこれ!」

 辻方は激突の衝撃で胸を打ったらしく、苦しそうに喘いでいる。

「なんで、どうして――」達也が後ろのバンに駆け寄り、運転席のドアを力一杯開けた。

 男が居た。若い。テレビ局のポロシャツを着ている。神経が細切れになる。

「だ、だ、誰ええええええええええ!?どうやって車に戻ったぁあああああああ!?」

 叫ぶ、吠える、取り乱す!ボクは全てのコマンドを選択!

 頭がおかしくなった!

「は、始めっから乗ってたんだよ馬鹿……お前達だろ、みんなを襲ったの……」

「今、なんて言った?初めからって!?」

「ずっと中の映像を見ながら、局と連絡を取り合ってた……当然、だろうが」

 無い物を絞り出す声だった。――ずっとテレビ局と連絡を取っていたという事は、ボク達の動きは全て筒抜けって事?こうしている間にも、ボク達の行いを誰かが見ている――???

 打たれた!

 苛まれた!

 齧られた!

 絞られた!

「よくも……よくもおおおおお!!」

 達也は男を引きずり降ろし、血の支流が走る顔面を力の限り蹴り飛ばした。男の顔面は血飛沫と前歯を散らして明後日まで吹き飛ぶ。「ぎひ、何ひやがる、もうふぐ警さすが来るそ!これへお前はひも刑務そ行きは」「え、なに。どうしたの」

男は前歯の無い口で精一杯の悪態をついた。舌足らずに罵られた達也は男の胸ぐらを摘み上げると、ニコッと微笑……微……ニコ、ニッ、ギッ……笑えなかった。

「ガキのクヘになまひきひゃそくほは」「黙ろうよ、ね。怒ってるんだよボクは。げぷっ」

 妙に冷静になり、男の両目に指を突き挿れた。

 深く  深く  さらに奥へ。

         温かい。

          柔らかい。

     時々固い。

  汁が出てきた。

                 あれ? なんか陥没した。

「ぎゃらぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「うるさい、うるさい、うるさい、うるさ……い……?」

 ふと視界の端で揺れたモノを凝視すると、辻方の腕だった。あんな酷い怪我を負いながら、何をしようというのか。喧しい肉人形を投げ捨てる。

「だ、大丈夫? 息は苦しくない?」

「アホ、苦しいわ!てかオェはええから、大変じゃねぇか、早くどうにかしろ!」

 辻方は苦しそうに胸を擦って、噎せ返った。

「うん、ボクがなんとかするよ。待っててね。げぷ」

 とは言っても今まで独断で何かした事がないから、一体何をすればいいのやら……う~ん。そうだ、この男を殺してしまおう。ボクのもう一つの体の出番だ!混乱している頭では精一杯の名案だった。達也は衝動に身を窶し、車で突進した。照準は一途に裏切りパンダへ。 

「死んじまえぇー!!」限界までアクセルを踏み込む。鈴の音が、時を刻む。

「やめほぉぉぉぉぉぉぉブジッ」正面からまともに轢かれた男は頭が潰れ、マネキンのように無造作に吹き飛んだ。お祝い事のように辺りに賑やかに飛び散ったのは、脳味噌。

 急ブレーキをかけてRギアに入れ、全速力で再度男の肉体を踏み潰し平らに均した。そのまま投光車の脇に停車し、辻方の下へゆく。「どう、動ける?」発汗の激しい辻方は、達也を横目で見ると、苦しそうに笑った。「お前が、あんな事するとは、意外だな」

 過ぎてしまうと、何とも思わなかった。

「ボクにとっては、あれは正しい判断だったと思うよ。初めてボクの意志でやったんだ」

「お、おう、そうか。それより早く行こうや。サツ、来るんだろ」

「うん。でも運転は?」

「任せろ、大丈夫だからよ」

「……そう。すぐに全員を呼び戻すから、待っててね」

 辻方の背中を励ますように軽く叩き、愛車に飛び乗った。――その瞬間、彼の中で不思議な感情が湧き上がった。ふと、さっきまでの自分が自分でないような気がしたのだ。こんな事はかつて一度もなかった。何だろう?自分が自分でない……なら、さっきのボクは誰?まさか……悪魔が乗り移ってボクを操ったとでも?ましてや殺人だよ。さっきのボクは、やはりボクじゃないんだね。きっとそうだ――。

「えふひ、えへへ、へへ。また一つ出来る事が増えた、増えたげっぷっ」

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