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「――来たな」
竜司は三階のベランダから振り返る。ここは正面玄関の真上に位置する。「いよいよ、だね」未来がベッドの上から妖艶に微笑みかけている。サテン地のように整った黒髪が風に靡き、月明かりに浮かび上がる細い首筋と彫刻のような生足はゾッとする程美しい。
「機材降ろせ。暗いからな、足下も悪いし、気をつけて。転けるなよ!」
頭にタオルを巻いた髭面の男が先頭のロケバスから現れた。野太くよく通った声でスタッフ達に機銃掃射の如く指示を出していく。どうやらこの取材班の班長らしい。二台のライトバンには撮影機材が積み込まれ、スタッフ達が手際の良いリレーで荷降ろしていく。サーチライトのような照明、厳ついカメラ、巨大ネコジャラシのような集音器にクーラーボックス――
突如、バンが光り輝いた。ルーフに搭載された強い投光照明の灯だ。
総勢二十人前後だろうか、静寂に沈んでいた病院は一気に喧噪に巻かれる。
「思ったより人多いね」未来は楽しそうに前歯を覗かせた。
「何人いたって変わりゃしない。俺達のやる事は数の比じゃない、質で勝負だから」
「また難しい事言ってる。まぁ~頑張れば大丈夫か」
バスの中を覗き込み、班長が何か言っている。二台のハンディカメラがバスを捉えた。
程なくしてスライドドアが開かれ、派手な衣装を着た若い女性二人と頭を剃り上げた袈裟姿の男性、そして煌びやかなタキシードに蝶ネクタイ、赤縁眼鏡の男性が降りてきた。赤い、バラエティー番組の司会者らしいマイクを独特の握り方で構えている。
「いやー。やって参りました。どうです、この空気!」
タキシードの七三分けが封切りする。いよいよ収録の始まりだ。
「さて、我々は今回タブーブレーカー特派員としてあの渦中の地、三重は四日市市、風死見村へとやって参りました。進行を務めるのはスッキリラボでお馴染みのわたくし
黒沢が袈裟姿の男性にカメラをエスコートし、うさんくせ、と竜司は鼻で笑う。
「そしてなんと、今まさに人気大沸騰中のアイドルグループ【ラブコマンダーエンジェルズ】から
いかにもアイドルらしい可愛い女の子だ。『なっち』と『れいぴょん』で通る二人は始めあまり気乗りしない表情を浮かべていた。だがカメラを向けられると、いつもファンに送る業務用スマイルを上映する辺りはさすがプロ、といった感じだ。
「はい、七つの海を股に掛け、アナタのハートをゲット!吉野七海です!」
「体は女、心は乙女!好きな言葉はごちそう!いつもデキたての段棟田玲です!」
――なんだかな――
失笑しつつオープニングを拝見した後、竜司は一等席を立ちつつ「もしもし。そっちの準備は出来てるか」となるべく声を潜め、翼に電話を掛けた。
📶 おう、問題ないぞ。ところで確認したい、これホントに上手くいくんじゃろうな 📶
武闘派に似合つかわしくない弱気な発言が、竜司の耳殻から滴り落ちる。
「何言ってる、安心しろ。策は練ってある。万が一第一段階で躓いてもすぐ対処するから」
📶 そうか……じゃあよろしく頼んだぞ 📶
電話を切って柵越しに下界を見下ろすと、まだ前置きが続いているようだ。
「遅いし、長い。何をモタついてるんだまったく……」
「いいじゃん、見てこうよ。面白いよ。それにこういうのナマで見るの初だし」
未来は今この瞬間を心底楽しんでいるようだったが、一方の竜司は早く物事が進んでくれないかとむかついて仕方が無かった。未来は竜司の様にリーダー面をしてはいるが、彼よりは幾ばくかソフトである。それが少し、二人の間で微細な齟齬を生むのだった。
「先生、いかがでしょう?」黒沢が嬉々としてマイクを向ける。あまり現場の雰囲気を読めていないのか、やけにテンションが高い。竜水は辟易して顔を顰めた。
「あのね、すごーく嫌な気配を感じるんですね。相手は一体じゃないですね、たくさんの霊体さんが集まって来てますから。十分に気を付けた方がいいです」
「あれまぁ、いよいよそれらしくなって参りましたよスタジオの皆さん」
――霊? いやいや霊じゃない。生きた人間、それも強い悪意を持つ人間の瘴気――
それを聞き、アイドルが泣きべそ顔を見せる。無論、これも立派な商品価値がある。
「それってぇ、ユーレイがいっぱい居るって事ですか?」竜水は困った。
「そう。この建物自体がね、吸い寄せちゃってるんです。グワーって」
視界の左下にある通り番組をトレールしなくてはならないのは、ある意味屈辱だ。
それを見下ろしていた竜司は思わず吹き出した。その後も茶番は五分ほど糸を引き、一度カメラを止め、四人はバスに戻った。やがて収録が再開すると、一行は遂に移動を開始した。
「荒れた地面に廃車、建物の方もガラスが割れたりして酷い事になってますねぇ。ここは正面入り口、あ!ここ見て下さい、救急車!こんな物まで残されてるんですねえ」
黒沢が臨場感あるリポートで番組を牽引していく。
「こういうのを残しておくと、霊達も人がいると思って寄って来るんですよ」
自称霊能者が厳粛な解説を添える、これも定石だ。
「げげぇ、そ、そうなんですか。とすると我々、大丈夫なのでしょうか」
「今は霊体さんの方も遠巻きに見ていますから、危なくなったら教えます。くれぐれも、勝手な事をしないようにだけ、お願いしますよ」
彼はこの躁病の目覚まし時計のような男に危機感を抱いていた。
一行は院内に踏み入った。強力な照明が焚かれ、何とも不作法な来訪の知らせが届く。撮影隊以外に、バンの投光照明を操作する係と班長が車に残っているようだ。
「お、来たか」
廊下がパッと明るくなる。翼は一階の給湯室に潜み、蜘蛛のように客人を待ち伏せる。
📣 はい、そこで一枚撮ろうか 📣
トランシーバーを通した声が広い空間に響いた。どうやら心霊写真を撮りたいらしい。
――何や、とことんやる事が下らん。この連中はこんな事を凌ぎにしているんかと思うと、阿保らしくてならん。鼻から呆れて屁も出やんわ――
「カメラ入りまーす。3、2――」「――はい、ここですね。ロビーの待合椅子があるでしょ。あの辺りからね、何か感じるんです」霊能力者御大がシナリオ通りに導く。
「撮るとしたら、だいたいこの辺ですよね」段棟田がデジタルカメラのシャッターを切った。
「酷い事をするものですね。――おや?」
黒沢が床に落ちていた新聞紙を拾い上げ、カメラの前に突き出す。
「これ、日付が1983年の4月15日ですよ。東京ディズニーランド開園ですって!今から三十年も前のやつですよ!こうして残っているんですねー」
この瞬間、一部の人間は恐怖を忘れ一種の亢進状態に陥っていた。そこからは童心が垣間見え、ひどく楽しそうに見える。しかし翼はある事に気が付いた。アイドルの二人だけがどうもシケた面をする。カメラが向くと口端を釣り上げたりするものの、決して楽しんでいない。女性は男性より場の空気を鋭敏に感じ取るというが――こちらの気を感じ取っているのか。
「エエ女はエエ鼻を持つってのは、本当じゃの」
暫し浮かれていた一行は二十分を空費し、給湯室へ辿り着いた。
翼は古ぼけたシンクの狭い収納スペースに潜り込み、息を殺す。
「ここは湯沸かし室ですね、おそらく」
強いムービングライトが錆びた薬缶や即席コーヒーの瓶を寒々と照らし出した。
「……行きましょか」一行はそのまま立ち去っていった。狙い通りクリア。翼は一行が通り過ぎるのを確認し、物音に神経を遣って慎重に這い出た。扉が軋んで音を立ててしまったが、相手は二十人弱いるのだ。雑踏の中、気付かれる心配などない。
「しかし、獲物が自分から進んで罠に掛かるっていうのは如何なモンかの。漁も狩りも同じ筋書じゃけど腑抜けてまうわな」
給湯室の隣には階段がある。翼が物陰から覗くと、ちょうど最後尾の人間が踊り場に上がったところだ。まるで迷い込んだ小鳥を籠に閉じ込めるように、重たい防火扉を閉ざした。
*
風呂から上がり、濡れた髪もそのままベッドへ倒れ込む。何か、自分の中で一番大切な柱を蹴り折られたような深い悲しみと絶望、そして恐怖が血液に溶け込み全身を巡る。自分は何をされる?相手の要求は?思考を巡らせる程、樹形図状に考えが枝分かれしていき、取り留めもない悪夢への扉が開こうとする。「どうしてこうなっちゃったのかな」ぞっとする。
白骨は保健室で飼われていた鳥だった。骨に付いていた鈴が解明の糸口となった。
「そういえば」
優香は一瞬躊躇したが、意を決してペンケースから紙切れを取り出すと、注意深く眺めてみた。所々に続け字が見られ、筆跡鑑定をしなくとも焦りがあるのが見て取れる。 古典文学のような連綿体と稚拙な漢字の中で、ある一字に吸い寄せられた。「翼」という字だけ、不自然に右上がりに書かれてある。自分の名前など書き慣れた字を走り書きすると人によってはどちらかに傾きがちになるが、さてどうだろう。一度愛読書に目を移して活字で目を洗って再度見てみると、もう一つ気付いた。部首の下の部分の「異」を独特の崩し方で書いている。これは完全に個人の癖だろう。「やっぱり……」思わず下唇を触る。追われてばかりだった自分が、相手の尻尾を少し掠めたような……暗く沈んでいた彼女の心は薔薇色とまではいかないが、仄かに温まった。「誰がこんな事をしたか、突き止めなくちゃ――」
壁に掛けたコルクボード。数年前の自分と共に映る、才色兼備な少女の笑顔が怪しく光る。
*
「おい、何の音だ今の!?」
重い金属音が空気を破る。振り返ると、今の今までそこにあった廊下が無い。一瞬の空白。「不審者!?」慌てた証明係がライトを向ける。ペンキが剥がれ落ち、錆を露出させた鋼鉄の防火扉が立ち塞がっていた。居合わせた全員の脳が
「何があったの? こんなモノ、早くどけなきゃ」
恰幅の良いカメアシが扉に駆け寄って力一杯に押してみる。が、扉はビクともしない。
「だめ。取っ手が無い」振り向いた彼の顔から、みるみる血の気が退いていく。
「こっちからじゃ物理的に開けられない」
「閉じ込められたぞ!!」「嘘だ!?」「誰にですか!?」「そんなまさか!」場が騒然となっても、カメラマンはこれも立派なネタと言わんばかりに撮影を続けていた。
「ちょっと皆さん落ち着いて!階段はここだけじゃないでしょ!こういう時は冷静に対処しないと、余計マズイ方向へ行きますよ。この建物は老朽化が進んでいて危険です。何より我々は何かの怒りを買ってしまった――もうこれ以上は無理だ。一刻も早く退避しましょう」
ありったけの声を張ると、皆を二階へ上がるよう促した。
「な……何があったんです?」
階段の上では、リポーターの皮が剥がれた黒沢が、野兎より他愛無くなっていた。
「出口を探します。来て下さい」竜水は早口で端的に切り、先頭に立って進んだ。この先にも階段は有る筈だ。背後でアイドル二人が泣き出したようだが、今はそれどころじゃない。正直、彼自身も何が起きているのか理解できないのだから。
「フェギャアアアアアアアハアハアアアアハアアアアフィギイイイイイイイイイェェェ」
突如降って湧いた絶叫が乱反射する。たった今通り過ぎたばかりのレントゲン室の前で四人のスタッフが倒れ込み、奇声を上げて手足をバタつかせている。まるで陸に揚げられた海老のように、飛び上がらんばかりだ。「な!? な? な」
他の者は驚いて後退り、止まり損ねた数人が前方の者に躓いて玉突き状に転んだ。
「いったい何をしたんですか!?どうしたんです!?」
ようやく動かなくなった四人は、それぞれ泡を吹いて気絶していた。
「ヤ、ヤバイですよ先生、は、早く……いったい、どうなってるんですかコレ……」
「とにかくその四人を連れて、もう一つの階段まで行こう。じっと留まらない方がいい」
他のスタッフは機材を投げ出し、床に伏したままの四人を抱えて走り出した。
「……めいちゅう」
寺島はレントゲン室からそっと顔を覗かせる。向かい壁に釘を刺し、そこにワイヤーを架け、もう一方をスタンガンの電極に繋ぐ。祖父が農業を営む修が持ってきた――音で猪や猿を追い払う事が可能で、万が一それらに襲われても身を守れるという理由から村で密かな人気を博している代物――スタッフ達が通った際にワイヤーを張って通電させる事で、文字通り泡を吹かせるトラップ。何とも言い表せぬ快感が電流のように全身を巡る。間違って自分も感電したか? 彼は一人でせせら笑う。「さーて、次のお仕事、行くわよーい」
随分と明るくなった廊下に、どろりと躍り出た。
「そぉうら、お疲れじゃったのお。どっこらしょーい」
もう一つの階段も閉鎖した。手摺りの陰から外の様子を窺う。そこには探照灯を点けた車が佇んでいる。「へっ。烏賊釣り漁船じゃあるまいし」
もうじき奴らも動き出す。翼は
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