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――学者さんは言いました。
人間は社会的動物です。とかく群れたがり、常に左右を見て、皆と足並み揃えて仲良く平均を目指し、開拓を放棄して模倣に甘んじる愚かな動物、それが人間です。
個性を無くし、惰性に塗れて平坦に生きる中、勇敢な誰かが怠惰な現状を変えようと違った方向に一歩でも足を踏み出した途端、周囲は突然変貌します。それまでの薄っぺらい笑顔を引き剥がし、顰めた顔で陰口を言いふらし、根も葉も無い噂話を建立したりしてその偉大な(破滅への)道を踏み外しし者に狂おしいまでに執着する。
なぜか?大まかな理由を挙げると『嫉妬』です。人間は弱いから群れているのが楽で、居心地が良いというのも一つの理由ではありますが、実は心の底では群れから抜け出したいと思っている、不特定多数の反逆児候補が混じっています。これは『集団』であるならいつでも、どこでも当て嵌まる事なのだそうです。先生の中にも、いらっしゃるのではないでしょうか。ダラダラと無味乾燥な時間を垂れ流すのは、さぞかし楽な事でしょう。
しかし、いつまでもそうしていても、だんだんと刺激が無くなっていくでしょう。
水や空気と同じで、人間の心も常に流れ、渦を巻き、波立つのが普通です。それなのにずっと淀んでいると、腐ってしまいます。腐ったモノは臭いので人は嫌悪します。確かに周りには若い人でも腐った奴はいて、負(腐)のオーラを漂わせています。人と自然は共通点が多いなと、本当に感動しました――
「……し、芝浦、君?」
「何ですか」
「どこで読んだのか知らないけど、インチキしちゃダメよ。変な小説の文章を写したんでしょう。先生、それは良くないと思」「違います。これは俺が自分で調べて、自分の頭で考えて纏めた作文です。インチキなんてしません。というか、それは教育者の言葉ですか」
「っ……」
竜司が小学校五年生の時の出来事である。
――人間なら誰にでも備わっているモノに〝欲〟がある。三大欲求と言えば、ご存じの通り食欲、性欲、睡眠欲。人間はこの三つの欲が満たされてようやく幸福を感じる事が出来る。
が。
人間の欲はそれだけではない。これら本能的な欲以外にも、普通の人間であれば抱くであろう欲が存在する。それは自己顕示欲や自己実現欲等の前向きなモノから、支配欲などの邪なものまで様々だ。しかしそのどちらも、強弱の違いはあれど誰しもが持ち合わせているものでもある。欲の善悪の指標として強欲と欲望の違いが挙げられる。強欲は英語で「グリード」欲望は英語で「アンビシャス」――またの意を「野望」――と全く違った解釈をされる。これらの欲とは、非常に優れた良薬でありながら、また大変危険な劇薬にもなりうる。正に目に見えぬ危険物と形容できる。例えば自己顕示欲を上手に使うと人は輝く事が出来る。自分を高めたい、自分を磨きたいと言った洗練された欲である為、それが向上心を掻き立て、情熱とやる気を一気に燃え上がらせる事が出来るからだ。
それに対する支配欲等は、自他を破滅に導く危険で低俗な欲とされる。
陳腐な例として恋人への異常な嫉妬や束縛、しつこい付き纏い等が挙げられ、しばしば事件にも発展する。「相手を自分の思い通りにしたい」「自分だけを見て欲しい」「自分だけのものにしたい」という奇異な執着と支配願望が、時に人の命を奪う事すらある。
また性犯罪の中でも特異な例として、意中の女性に自らの尿や精液を浴びせかけるという事例がある。個人的な観点及び当該書籍の情報から独自に考察すると、これに於ける心理は絶対的支配欲が理性の防波堤を薙ぎ倒し、一面に利己的欲求を撒き散らす〝狂走型〟意中の女性と性的に両想いになりたいとの歪んだ欲望から、相手が自分の体液をかけられて歓ぶと妄想し、ありもしないような被虐嗜好性支配欲を打ち立てて犯行に及ぶ〝傍迷惑型〟に分けられる。
私個人の考えを述べると、欲望という物質は取り扱う人間の心理状況を如実に反映し、毒にも薬にも成り得る、また如何ようにも加工・コントロールする事が出来、無限の可能性を秘めた既知でありながら果てしなく未知の〝資源〟であるとすら言える。
これこそ、正に劇薬ではないか――!
「……し、芝浦」
「何ですか」
「お前、これコピペだろ、コピペ。正直に言いなさい。何でこんな事し」「違います。これは俺が自分で読んだ本について纏めた感想文です。教員免許状を持っているだけの活字耐性の無い貧弱な公務員に難癖を付けられる筋合いはありませんし、次にこんな事を仰れば名誉棄損並びに侮辱罪で教育委員会と警察に通達させて頂きます」「っ……」
竜司が中学二年生の時の出来事である。
*
腕時計を覗く。五月十二日午後七時二十二分。樹木に蒸されたムッとする夜風を切りながら、ペダルを踏み込む。田園地帯を抜け、東の外れ、公会堂前のT字路を左折。曲がってすぐ左手に【白石歯科】のぼんやり光る看板と、小さくて綺麗な歯科医院を認め、その斜向かいに【水野米穀店】の古ぼけた店舗が闇に身を浸している。
前籠に入れたビニール袋が時折乾いた音を立てている。
「こんな所までロケハンに来るなんて、テレビ業界も相当干上がってんのかな~」
視線の先には、かつて村人の生誕も終焉も看取った【御神山総合病院】の広大な抜け殻が聳え建っている。一時は六十人余りの医師、看護士が勤務する優れた病院だった。だがやはり村の衰退には抗えず、三十年程前に閉鎖され、そのままの状態で残されている。駐車場はあちこちで土の盛り上がりや陥没が見られ、アスファルトが捲れ上がっている。閉鎖された頃から停めてあるらしい初代いすゞ・ジェミニと初代スズキ・アルトが錆と蕩けている。
自転車を降りて歩く事にした。巨大な病棟は外壁全体に草が巻き付き、今まさに崩壊が進行中である。だが視線を下ろすと一階の壁には猥褻な言葉が色とりどりの塗料で書き殴られ、都会の倉庫や高架下と変わりない。ジオラマを盛り上げる役者として、入り口の横には腐敗した救急車まで鎮座。自転車のライトに気付き、人影がひょっこり出迎えた。「よう」
「竜司よ~。よくもまぁこんな所に来ようと思ったな。枝に引っ掛かりまくりで痛ぇよ」
修は肘や脇腹を撫で擦り、開口一番に愚痴をぶつける。
「ご苦労さん。自転車はこの建物の端っこ、壁の陰に隠しといてな」
「あっそう、分かった。あ、あとさ。持ってくるモノって、これとこれしか……」
修は少し控えめにビニール袋を摘み上げてみせた。「あぁ、充分」竜司は菓子を食いながら、余裕たっぷりに振る舞っている。修は言われた場所に自転車を引いていった。既に五台の自転車が駐車されている。修も並べて駐輪し、約束の品を携え院内に吸い込まれていった。
「修~!」「は……」
竜司に案内されて入った医局には、既に自分以外の面子が揃っていた。しかも災害時用のランタンで部屋を照らし、菓子やジュースを広げてパーティばりに騒いでいるではないか。
短気な翼がコンビニのサンドイッチを齧りながら「半には来いっつったのに。どこで油売っとったんかなあ?」と毒づく。気迫に押されるように左腕のG―SHOCKを見下ろす。デジタル表示板は七時三十八分を示していた。「あぁ悪い。遅れるつもりはなかったんだけど」
「おいおい、遅刻は犯罪だぞ。こっちは早くから待っとるんじゃからな」
「ごめん悪かったよ。それよりお前ら何余裕かましてんだ、俺らの存在バレんだろ!」
ついさっきまで誰かがここに居たという事が分かれば、クルー達は安全のために撮影を中止する可能性がある。リポーター役に彼らと同い歳のアイドルが来るからだ。
「ちょっとどうしたの。修らしくもない。怒りすぎでしょ」未来がやんわりと口を挟む。
「構わんじゃろ。ほぅら周り見ろ、昨日もヤンキーが溜まってた跡がある。気負うな」
お前は黙ってろ、と言いたいのをぎりぎりのところで堪える。
「それより修、コレ見てよ」と事務机の上に胡坐をかいていた美幸が、日清のカップヌードルを持ち上げて見せた。「それ、カップラーメンだよね。お湯どうするの」その回答に、彼女は吹き出した。「お湯じゃなくてぇ、どう見ても変じゃない?めっちゃ黄色いでしょ」
「いや、ここからじゃよく分からない」
「え~、もう。これ、賞味期限見たら一九九九年の八月だよ。すごくない?」
「お前それ……どこにあった」「棚の中よ」ゲームをしていた寺島が被せるように回答した。
「寺島、お前が見つけたの?これを?」
「そう。使えるもの無いかと思って漁ってみたら、それがあったの」
「仕事熱心っすなぁ~あんた……」
寺島、柿崎、未来、竜司の四人はPSPのモンスターハンターで通信プレイの最中だ。完全に友達の家に遊びに来たムードである。毎度毎度、肩に余計な力が入るのが修の欠点だった。
再度腕時計を見る。午後七時四十八分。確かテレビクルーが来るのは八時過ぎの筈。
「おいお前ら、今もう五十分だぞ。そろそろ用意した方がいいんじゃ」
修は宴会モードの六人に、現実に戻るよう諭す。「え、もうそんな時間?早いな~」
未来が慌ててジュースを飲み干した。皆は私服だが、なぜか彼女だけ制服姿だった。
「よし、いよいよだな。ベンセレーモス!」竜司が拳を突き上げ、一同がそれに唱和する。ベンセレーモスとはニカラグア共和国の言葉で『(私達は)勝つ』という意味がある。彼のお気に入りの言葉だ。明かりを消し、軍手を嵌め、六人は各々打ち合わせした場所へと散っていく。
誰もいなくなった医局では、空のペットボトルが音も無く床を転がった。
「香ばしい香り。あ~。またかい?」
「は?なんじゃおのれ。文句有るんかェ」
「文句なんて、無いよ~。人の楽しみに水差さず~。煙草だけに」「意味わからん」
達也はニコニコと腕を組み直し、シートに背中を預けた。
辻方はというと、湿気って火が点かない煙草に悪戦苦闘している。
「ねえ、一日にどれくらい吸うの?」
ようやく火が点き、気持ちよさそうに煙を吐き出す横顔に尋ねてみた。「七、八本」そっぽを向いて唇を尖らせる。
「吸い過ぎだねぇ~。高校生なのに」
「うるせぇな」
「癌になるお?癌はこわいお?おっおっお」「ほっとけって!気持ち悪いやっちゃな」
さすがの辻方も困惑の表情を浮かべて、心なしか肩を竦める。
「それ一体どこで買うの?コンビニ?まあ君の見た目ならどこでもいけそうだね」
「自販や。親父のタスポ抜き取って買うんだが、それが何か」
「さすが!爆ヤン(爆裂ヤンキー)は違うねぇぶぶふっげぷっ」
「知るか、ゥグッゲホッゲホ」
満月が綺麗だ。二人は各々の出番を待ち詫びて、ぬるい雑談に興じる。これはこれで悪くない。彼らはどちらかというと裏方的な役回りだが、大切な仕事を任っている。演劇で言うなら黒子、横文字ならサポーター。しかし竜司は言葉使いが卓越している。辻方は煙草を吹かし続けているが、達也にはどうも煙草の良さが理解できない。
「ほぅら、ね。もうじきドクターストッ」「殴り飛ばしグホッゲホゲホっどらぁ!くそ」
「えへへへへへへ。副総長も大変でしょ」
「そりゃ縦社会やからな。上に行けば行くほど責任だメンツだは付いてくる。けど、それがオェらの世界じゃ一種の勲章だわ」
「へ~、殺陣社会かぁ。侍だね~。よっ武士道! へへへっげふっ」
「お前、何か勘違いしてへんか」
「さあ、どうだかね。あー、暇だ。暇疲れしちゃうなぁ」
かれこれ四十分はこうしている。車は病院の敷地を一望できる場所に停めた。道の無い林を強引にバックで登った為に辺り一面が樹の海だ。妙な胸の高鳴りを覚える。不思議だ。人間の心の奥底に眠る野生の魂、狩る者と狩られる者両方の血が、怪しく沸き立っているようだった。
やがて鬱蒼とした木々の間から眩い光が零れ始めた。
粛然と時刻は八時を回る。修は階段の手摺りの陰に身を潜め、その時を今か、今かと待ち構えた。「うぎゃおっ!?」着信音が静寂を破った。大袈裟に跳ね上がり、愛用のスマホを取り出す。沼田達也からの、オープニングコール。「……さあ。いくぞっ……いくぞ」
いよいよだ。皺一つない夜の闇、その艶やかな肌にメスを入れる。
達也は来客メールを一斉送信するとハンドルを握り締め、息を吐き前を見据える。自車から四、五十m前方に駐車場への入り口が見える。そこへ向かう目映い光の群れ、ロケバス集団だ。駐車場に入っていった車を数えると中型が一台、小型の商用バンが二台の計三台だった。
煙草をもみ消しながら「おぉ、そろそろちゃうんけ」と辻方が身を乗り出してくる。
「よし。じゃあ行こうか」
エンジンを回さずにサイドブレーキを外し、惰力で下らせ、静かに出口を塞ぐ。尾灯を光らせぬよう、サイドブレーキを引き絞って車輪を留める。
「これでみーんな袋の鼠。大丈夫、ちゃんと可愛がってあげるからね~」
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