*


「〝おきて〟ですか……?」

「うん。ちゃ~んと守らないと、大変なことになるよ」

「それってあの……失礼ですけど。都市伝説とかそういった類の何かでしょうか?」

「いんやぁ、まぁそうなるのかねぇ。僕もハッキリは分からんのやけど、一応みんな守ってはおったらしいから、そこは右ならえで、お願いしたいところだねえ」

 強いシーソーポリシーの持ち主だな、『だるい役人肌』というレッテルを貼り付けてやろう。

 つい癖で人様にレッテルを――スーパーの値引きシールの如く、一度貼りつけた人間の顔を見ると相手の名前よりも先に『前歯ッハ』『歩く粗大ゴミ』『第一次成長期事故物件』等のレッテル情報が見えるほど研ぎ澄まされてしまった。

「守ってない人もいるんですか?それでいて何とも無いのなら、もう形骸化して必要ないモノになっているのでは?」すかさず率直な感想をトスする。

「僕もそう思とった。せやけど三、四年前からおかしな事故が多発するようになってな、亡くなった人を知る人はみんな〝おきて〟を守っとらんだって口を揃えるんや。こんな事あったらもう、みんな一様に震え上がってしもて。それはもう大急ぎで神社にお御祓いしてもろたりしたけど、それも結局最初のうちだけでさなぁ」

 予想外のホームランを飛ばされ、脳内の実況係も舌を噛む。

「ただの不注意ではなさそうですか」

 相手は髭の剃り跡が濃い頬をソリソリと掻きながら「うーん、それは……まぁ確かに車が少ないから、飛ばす人はおるけどもな。クククク」と控えめに笑う。話は興味深いが、語り手に説得力が無い。語りが栄養不足でナスビも採れない。相手が煙草に火を点けた。喫煙者は嫌いだ――薄気味悪い。自分の身体を汚すものに金を出し、それを気持ちよさそうに吸う、楽しそうに自分を壊している様子が嫌悪感累々なのだ。「あー。うまい」「だとしたらそこまで大きな事故は起こらないかと」顎を引きつつ冷静に突っ込む。

「ふー。そこがだなぁ、そうそう、良いトコ気付いたなぁ自分。殆どがそこまで大した事ない事故なんさ。高の知れた、って言うたら変やけど、こう、重くはない。ところがな。被害者がみんなおかしな死に方をするから、どの事故も真相が分からず終いになってる。信号柱にカメラを設置した事もあるけど、なぜか事故の度に動かんくなるから行政が撤去したそうさ」

「あの、それって故意に誰か壊している訳でなく?」

「あぁ、全く壊れてない、無傷でへっちゃらさ」

「不思議ですね」

「気持ち悪いやろ、えぇ?ウハッハッハ!そりゃビックリするわ。初めて社会に出ていきなり呪いだぁ~なんて言われたら、堪ったもんじゃないなぁ~。そりゃそんな顔にもなるわ。ハッハッハ」こっちはいちおう引いているのだが、驚いていると解釈するのか。

「……趣旨はわかりました」

「ん。よろしい。まぁ難しく構えんでも大勢がこの〝おきて〟なるモノと仲良うやっとるで、深く考えんとな。ただ守ってやって欲しいっちゅうだけや。ええか? しっかり守ってな」

「かしこまりました」

「よし。そしたら四月からよろしく頼むぞ、新人君!」

 ――関西弁と地方訛りが海馬で泡立っている。遡ること数ヶ月。菰田が村に越してくる前、就職先の沼田モータースの責任者、沼田ぬまた敏行としゆきから村に伝わる何ぞやについて噛んで含められた。

 沼田は五十代前半の気のいい(しかし髪を含む色々な部分の抜けた)男だ。件の存在を鵜呑みにしていないようだが、それでも律儀に遵守していた。そしてその帰り道、電柱に乾燥した板がワイヤーで留められているのを発見した。そこには粋な居酒屋の暖簾によくあるような筆文字で『灯天滝侍』とあった。これもどうせ、変な習慣の類だろう。気が滅入る。

 その日の夜、菰田は電話で友人にこの話を持ち掛けてみた。「元々この〝おきて〟の噂は三十年前に、高校生が流布させたみたいだよ。車が普及し始めた頃だろ」

「ああ~」

「そうすると村の外から通学する生徒も出てくる訳だから、街と村を繋ぐバスが開通したのも多分この頃で、当時の人にとって外の人は新鮮で、ましてや多感な高校生だし、きっと街の子にすごく興味を持ったんだろうな」

 彼特有の抑揚を持った口調が紡ぎ出す仮説に、友人も同調した。

「俺らの年はほら、冒険心とか野心が活性化してさ、危険を冒す事に興味を持つじゃん。それとか、自分らを管理しようとする親や教師を消したいとか、人によってはボコボコにくたばらせたいって、本当に喉元まで出かかってるような連中も、ニュースや2ちゃん見る限りは本当にたくさんいるみたいじゃん」

「そうだな」

「それ故みんなが恐れるモノに立ち向かってみたいとか、刺激と快楽を得たいとか思う心が、時に大惨事を招くんだよな~とか言ってみたりして」

 友人はゲーム機に意識の殆どを持っていかれている様子で、しかし妙に老成した文句を並べ立てた。そして、気味悪く一人で笑った。「――あながち間違ってはないと思う」

「中でもアレ、まだウブで純粋な子なんかさ、その時その場限りの好奇心に駆られて手ぇ出しちゃってさ、勝手に悪に染まるんだよね。見てられないというか、純白の布に付いたシミはしかし人生に於いて消える事はない、って感じだな。どうよこれ」

 類は友を呼ぶ。人は一人よりも同じ考えを持った者同士で団結した時、恐ろしいパワーを発揮する。菰田は学生時代、級友らを見ていて切にそう感じた。

「いいと思う。人間って常に何かに飢えていて、生きている間は満腹にならないらしい。その感傷的センチメンタル欲望デザイアを誰かと共有できた暁には、ある意味友情よりも強い感情で結ばれて、まるで自分が強く大きくなったような過大妄想に陥るんだと。それでリミッターが外れて暴走、の果てに堕落が待っている……近頃の教育はもっとそういう過ちの恐ろしさについてレバレッジを掛けるべきだと思う。何が脱・ゆとりだよ、弛み世代め」缶コーヒーを飲み干し、囁く。


          *


「ソアラ。おいで」

 真っ白く綿毛のように毛並みの良い猫が、鈴のコロコロという音をさせて駆け寄った。

「よしよし。いーこいーこ」ポケットから猫用ささみを取り出し、小さく裂いて口元へもっていく。「よく噛んで食べなきゃダメだよ~」みゃあ、と返事が返ってくる。いい食べっぷりだ。

「さ~て。君もご飯だね~」

 燃料油キャップを開け、ガソリン携行缶に入った軽油を並々とタンクへ流し込む。

「お腹いっぱいになったら、次はお風呂お風呂~っと」

 少年はトラックの車体を自分の舌で舐め始めた。薄暗い電灯の下で、唾液に濡れた板金は水棲生物の肌のようにヌラヌラと光っている。猫が彼の足元で身体を擦り付けた。 

「あ、ソアラも毛づくろいしたい?この子のお世話の後でね~。車は自分では何も言えないから、ボクらが気付いてあげなくちゃ」

 少年はご機嫌にそう言って徐に服を脱ぎ始めた。カッターシャツのボタンを外し、そしてズボン、パンツ、靴下まで――全裸になってしまった。

「えへへ。一緒に気持ち良くしよーねー」車体に身体を密着させ、小刻みに揺れ始めた。

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