03.境界の公園①
午前中の家は、静かだ。
窓を打つ細い雨と、冷蔵庫の低い駆動が、遠くで続いている。
定位置のソファに丸まった朔の呼吸の上下が、ブランケットの布越しにゆっくり伝わってくる。それを背中に受けながら食器を並べたり、洗濯物を畳んだりする手つきが、最近はだいぶ速くなった。
ふたり分という単位が身体に入ると、家事は案外やりやすい。
茶碗をふたつ並べて出すだけで、少し楽しい。
洗濯物に自分のものじゃない靴下が混ざっている、という当たり前に慣れていく。
自分の生活を自分だけで守るときの刺々しさが、角ひとつぶん丸くなる。
この部屋で蓋をし続ける何かの代わりに、別のところに小さな鍵穴をひとつ用意するみたいに。
――自分が、誰かと同じ屋根の下で、こうして淡々と暮らせている。
それにいちばん驚いているのは、まぎれもない自分自身だ。
寸分の狂いなく積んだトイレットペーパー、調味料のラベルはすべて正面に向ける。クローゼットの洋服は季節と丈で左から綺麗な直線を描くように並べ、靴は靴箱の中で番号を振ったように定位置へ。
以前は、少しでもずれていると呼吸が引っかかった。なのに今は、ラベルが前衛芸術みたいな角度で並んでいても、別に死ぬわけじゃないしな、と思える。
朔は、そういう汐見の中の小さな秩序を、やわらかく崩す。軽やかに、でも容赦なく崩していく。
ともすれば土足で踏み込まれるようなそれに、腹も立たないのがなんともおかしかった。
朔には朔のルールがあって、間違われたら直せばいい、やれる人間がそれをすればいい。
――俺が、そんなふうに考えられる日が来るなんて。
馴染むはずのないものに、馴染んでいく自分がいる。
その事実に、時々、胸の奥がふっと軽くなる。
アルバイトの時間まで、皿を洗い、ゴミをまとめ、洗面所に新しい歯ブラシを出す。マスキングテープを小さく切って《KAZU》《SAKU》と書いて、柄をそろえて貼った。
手間だと思う前に、手が動く。こういう小さな「揃える」は、昔から好きだ。
鍵盤以外に、手でできる整えがあるのは、悪くない。
ブランケットの膨らみがわずかに揺れて、朔が寝返りを打つ。寝息は浅いのに、眠りは深い。
ポットで湯を沸かし、白湯を注いだマグをふたつ用意する。まだ起きない朔の分は、ローテーブルに静かに置いておく。薄い湯気がブランケットの方へ流れ、天板の木目に薄い輪が残った。
「行ってきます」と、奥の定位置でまだ夢見心地の朔に軽く声を掛けて、汐見は部屋を後にする。
ドアを開けると、煙る雨の向こうからぼんやりとした湿気が立ち昇ってきた。
*
今日の仕事は、隣町のショッピングモールでの食品レジスタッフだ。
レジ打ちと棚出し、品出し、バックヤードの片づけ。
マスク越しの声、消毒液の匂い、時間ごとに入れ替わるBGM。
腕時計を見れば、短い針が夜のはじまりに差し掛かっている。シフトを上がると外はすでに薄闇で、路面に灯が滲み始めていた。
駅前の天丼屋でテイクアウトを頼む。俺たちは野菜を摂るべきだよな、と思いながら野菜天丼をふたつ。
たった三十円、ふたりで六十円のささいな奮発。
これも朔と暮らしはじめる前にはなかった習慣だ。
帰路を急ぐ。いつの間にか身体に染み付いた帰り道は、誰かが待っていると思うだけで足取りが軽くなる。
マンションのエントランスで一日中消えない明かり、無人のバス停、上がったままの遮断機。
線路沿いの赤錆びた鉄柵が、濡れた街を等間隔に区切っている。人気は少ない。
信号の赤が路面に揺れて、風はぬるい水の匂いを運んだ。
集合ポストに手を入れると、郵便の不在票が一枚入っていた。
差出人の欄より先に、宛名に目が行った。
『潮見様』
一文字違うだけで、別の人みたいになる。
はぁ、と軽く息が漏れた。ドライバーの携帯にかけて、「汐見です、朝じゃなくて夕方のほうで」と言うと、「失礼しました、しおみさん」と丁寧な声が返ってきた。
訂正の会話にはもう慣れっこな、いつもの小ネタだ。
一〇二号室の鍵を回すと、内側から小さな足音が玄関の方へ寄ってきた。
「汐見さん、おかえりなさい」
扉を開けると、朔がのぞく。長い髪を後ろで束ね損ねたまま、頬に一房だけ落ちている。
朔の声は、男にしては少し高い。けれど軽くはない。濃茶と翠を混ぜたような瞳と同じで、複雑な艶がある。最近の汐見のお気に入りの音だ。
「ただいま。天丼、買ってきたから食べよう。冷めないうちに」
「やった。いい匂い」
弾んだ声の朔は冷蔵庫を開けて、迷いなくコーラを取り出した。
「え? 野菜天丼にそれ?」
「コーラのシュワ~に天ぷらの衣のジュワ~、これが最高」
「嫌だ。俺は絶対認めたくない、そんなの」
汐見のぶっきらぼうなツッコミに、朔は気にせずのんびり笑った。
喉が小さく鳴る。喉仏の上下が、時々呼吸と噛み合っていない。
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