02.気配②

 濡れたままアパートに連れ帰り、ユニットバスに押し込んだ。

 しばらく何の音もしない。心配になって戸を軽く叩くと、内側から弱い声が返った。


「……もう少し。出たくない」


 濡れた衣類の匂いに、むせ返る潮の匂いと淡い鉄臭が混じって押し返してくる。

 えづきそうになって眉間を押さえたとき、戸の向こうでガタンと大きな音がした。水の気配が動く。


 とっさに「開けるぞ」と手が動いた。

 ノブを回し、隙間を数センチだけ拡げた。湿気の膜が顔に貼りつく。視界の端で、水面のような何かが揺らめいた。

 反射的に、汐見は戸を閉めた。心臓が二度、三度、慌てて打つ。


 見間違いだ。頭はすぐそう言った。潮の残り香が肺に刺さって、咳がひとつ出た。

 中から小さく「ごめんなさい……」と声がした。

 

「……大丈夫なら、いい」


 汐見は額を指で押さえ、その場を離れた。


 朔が出たあとのバスルームは、ひどい有様だった。床全体に残る潮の匂い。ぬめるような感触。排水口の縁には、白い粉のようなものが輪郭を縁取っている。

 汐見は一瞬顔をしかめ、引き出しからゴム手袋を取り出した。掃除用洗剤を撒いて、スポンジで円を描く。ケミカル臭と海の匂いがぶつかって、泡が白く盛り上がる。換気扇を全開にし、消臭の霧が落ち着くのを待った。


「……ごめんなさい」


 至極申し訳なさそうに朔が浴室の戸口で言う。濡れた髪の先から、ぽつ、ぽつ、と滴が落ちる。

 汐見は視線を合わせず「別に」とだけ返した。フォローのつもりで口が勝手に動く。


「人の家の風呂って、落ち着かないよな。わかる、俺もあんまり好きじゃない」


 言ってから、これは何のフォローにもなっていないと気づく。

 朔は困った顔のまま、視線だけを足元に落とした。そこにある濡れた足跡は、やはり形が一定せず、数秒で輪郭を滲ませて消える。

 当てつけに聞こえたかもしれない自分の言い方が耳に残り、喉の奥が少し苦しくなった。


 *

 

 朔がここへ来てほどなくして、汐見は小さな白いソファを買った。

 寸法だけ見て勘で決めた、通販の安物。

 宛名に『汐見和久しおみかずひさ様』とある大きな段ボールを開けて、フローリングの上で組み立てる。

 ベリベリとガムテープを剝がす音に、六角レンチの触れる金属音。床で作業するあいだ、朔はおとなしく座って静かに見ていた。あらかた出来上がったところで手招きする。


「ちょっと手伝って」

「なに?」

「そっち持って。移動する」


 ふたりで持ち上げて、道路沿いの窓の下、今までほとんど開けることのなかったカーテンの前に置いた。

 カーテンを少し開ければ、鈍色の空を映した塔が視界に入る位置。


「そこ、お前の定位置な」


 狭い部屋をさらに狭くするのに、置いてみると妙に収まりがよかった。

 自己満足だとわかっていても、満足だった。

 

「どうしたの?」と朔が問う。


「なんていうか……部屋のバランスが崩れる? お前の存在感を消したい」

「えっ……」


 朔の瞳が不安げに揺れる。出ていけ、の意味しか拾われていないとわかって、慌てて言い直した。


「あ、違う。そういう意味じゃなくて。居てほしいからそうしてる」


 うまい言い方は他にある。けれども舌が焦って回らない。

 言葉に穴が空いたまま、さらに余計な比喩が口から滑った。


 「小さな生きものがいたら居場所作ってやりたくなるだろ、それと同じだ」


 自分でも、適切なたとえかはわからない。

 朔は一拍置いてから、薄く笑った。その笑いは、目尻より先に喉の奥でふるえる。


 買い置きのタオルを棚に積み直し、ソファの足元に薄いマットを敷く。

 朔は言われたとおり、窓辺の定位置に腰を下ろした。膝を揃え、両手でマグを包む癖。濡れたようにうねる髪が背中に貼りついて、肩の線を濃くする。窓の光が黒に薄い青を混ぜる。外の水色と内側の黒が、細い境目で交わる。


 そうして、ふたりの共同生活は始まった。

 始まってからも、汐見はたまに、朔をこの部屋に置くべきじゃなかったかもしれない、と一瞬だけ思う。思って、すぐに否定する。

 自分以外の誰も踏み入れたことのなかったこの家に、彼を迎え入れたのは、ほかならぬ自分だ。


 汐見にとって、この部屋は見たくないものに蓋をするための容器だった。誰にも触れられないようにしてやっと保ってきた均衡。そこへ朔を招いたことは、汐見にとって小さな破綻で、無自覚のまま蓋の隙間を指で押し広げる行為だった。

 暴かれるのが怖いのに、開けてしまった。指先は、まだ震えている。


 線路沿いの鉄柵の前。古い街灯の落とす鈍い薄明かりの中で、汐見の口からすべり出た音は「朔」だった。

 新月。見えない夜の入口。

 名前を与えるというのは、迎え入れることだ。

 名前がひとつあるだけで、輪郭はそこに寄ってくる。呼ぶたびに、空気の中のどこかに座りを得る。

 

 見えないものは、存在しないのと同じだ。名前のないものは触れようとしても輪郭を持たない。

 いずれどこかへ流れていって、誰にも見とられず終わる――かつて自分がそうなりかけたみたいに。

 その想像が身体の奥で熱をつくり、静かな誓いに変わる。

 誰にも気づかれずに消えることを、黙って見送るつもりはない。


 彼が見えないままで消えていくことを、ただ見過ごせない。

 どんな理由より先に、その単純な衝動があった。


「朔」

 

 部屋で何度か呼んでみる。朔は、驚いたように、しかしすぐ慣れるように、振り向く。

 名前が身体に馴染むまでの短い時間。呼べば、彼はここにいる。呼べば、自分もここにいる。

 呼ぶという行為そのものが、この世界に対しての小さな反駁だと、汐見はうっすら気づいていた。


 思考のどこかで、祖母の顔が浮かんでは消える。幼い自分が弾いた拙い練習曲を、誰よりも嬉しそうに聴いてくれた人。彼女の不在が、汐見の人生の大半を占めた『音楽』の場所にぽっかり穴を開けた。

 競争、評価、燃え尽き。

 逃げだと言われればそうだ。けれど、逃げることでしか守れないものだってある。

 守ったはずのものが、いちばん重くなって残ることも。


 蓋の閉じた電子ピアノに手を伸ばす。鍵盤には触れない。まだ触れられない。

 蓋の角だけをそっとなぞる。そこに小さな熱が残る。


 夕方、朔はまた湯に沈む。浴室の戸の隙間から潮の匂いが細く流れ、キッチンの蛇口をひねると、水がほんの一瞬、逆に引くように喉を鳴らしてから、いつもの調子で流れた。

 この部屋の水だけ、別のルールで動いているみたいだ。外の雲はさらに低く、塔の水色は薄い膜の向こうに遠ざかる。換気扇を止めると、部屋の音は雨だけになる。


 夜の入口、暗くなるまでの間は長い。窓の外で、世界がゆっくり暮れてゆく。

 雨粒が窓に当たり、半拍遅れて、返ってくる。

 今は、それでいい。朔を放っておけなかった自分を、これ以上否定したくなかった。






◇◇◇

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