第二部、第六章:決行の日低屋デート

深夜の国道を、あの漆黒の高級車が滑るように走る。

そして、俺の絶望を乗せたまま、見慣れた「日低屋」の赤い看板の前で、静かに停止した。



「お嬢様、やはり、本日はもう営業が……」


運転席のSPがバックミラー越しに、最後の抵抗を試みる。

その声は胃もたれで苦しむ俺の心情を代弁しているかのようだった。

たすけて、SPさん、ぞうさん〇ク〇クさん。



「開けさせなさい」



ディアの一切の妥協を許さない声が車内に響いた。



もう、その一言で全てが決まった。


(終わった)


SPは何も言わず車を降り、シャッターを半分下ろしていた店長の元へ向かう。



~~~



数分後、完璧に「貸し切り」状態となった日低屋のカウンター席に座っていた。


店長はSPから分厚い封筒を受け取ると、無言で厨房に戻っていった。

資本主義が深夜のラーメン屋で静かに牙を剥いている。



目の前には湯気が立ち上る「W玉中華そば」。二つ。

今日、俺の胃袋が受け入れる、記念すべき(呪うべき)4杯目のラーメンだ。


家系、九角屋、高級フレンチ、そして日低屋。


俺の胃はもう世界中の脂と炭水化物の国際会議場みたいになっていた。


正直、匂いを嗅いだだけで、胃液が喉元までせり上がってくる。

俺が必死に胃をさすっている間、隣のディアは非常に、非常に、満ち足りた表情をしていた。



「完璧ですわ」


(いや何が?)



彼女はうっとりと呟いた。

その手にはゲームセンターで手に入れたばかりの、安物のクマのぬいぐるみが抱えられている。


あの時俺が取ったやつと寸分違わぬ、くたびれた茶色のクマ。


ディアはそのクマのぬいぐるみに、愛おしそうに顔をうずめた。



「……この、少し埃っぽい化学繊維の感触。そして、安物の綿が詰まった、不格好なフォルム」

「……そして、この、化学調味料と豚骨が混じり合った、野蛮で、暴力的な香り」


恍惚。

まさに、そんな言葉が似合う表情で、彼女は目を開けた。

そして、その虹彩がきらめく瞳で、俺をじっと見つめた。

超高級ペントハウスの時とは比べ物にならないほど、その瞳はギラギラと、本物の“熱”を帯びていた。



「これですわ!これこそが“原点回帰”!」


「お、おう……そう、だな」


「高級な夜景など、所詮は借り物の“価値”。ですがこれは違います!

 わたくしとあなたが初めて互いの“価値”を理解し合った、聖域の空気!」


聖域(日低屋)のカウンターで、俺は脂汗と冷や汗をダラダラ流していた。

胃もたれがマジで限界を突破している。

まじで助けて、あのチャーハンセットについくるスープだけ飲みたい。


「さあ、あなた。まずは“儀式”の第一段階。これを完食なさい」


「え、あ、いや、俺はもう、腹が……」


「食べなさい」


「いや、あの」


「食べなさい」


「はい……」


俺は死刑宣告を受けた囚人のように、震える手でレンゲと箸を持った。

さようなら、胃腸。がんばって、胃腸。



隣でディアは「これですわ、このジャンクな喉越し!」とか言いながら、嬉しそうに麺をすすっている。

こいつの胃袋は本当にどうなっているんだ。



~~~



永遠とも思える苦行の末、俺はなんとか丼を空にした。

意識が遠のきそうだ。

目の前にチカチカと星が飛んでいる。


ディアも最後の一滴までスープを飲み干し、

「ごちそうさまでしたわ」と上品に手を合わせた。



そして、彼女は俺に向き直った。


カウンター席で、こっちに体を寄せる。

安物のクマのぬいぐるみを、ぎゅっと胸に抱きしめ直す。


油でぬるついた空気。厨房で低く唸る換気扇の音。深夜の蛍光灯が放つ白すぎる光。

全てが完璧に「あの夜」を再現している。



「……あなた」

ディアの声がやけに真剣だった。


「ムードは最高潮に達しましたわ」


「……ああ」


胃もたれも緊張も疲労も全部が最高潮だよ!



「さあ、あなた」


ディアがカウンター席で俺にさらににじり寄ってきた。

肩と肩が触れ合う。クマのぬいぐるみを抱きしめたまま。

日低屋の中華そばの香りと、彼女の上品な香水の匂いが混じり合って、俺の鼻をくすぐる。



「コウノトリを呼ぶ、“実践”をいたしますわよ!」



俺は胃もたれと緊張のダブルパンチで、息を止めることしかできなかった。



助けてくれ。マジで。

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