第二部、第七章:勘違いのファーストキス

「コウノトリを呼ぶ、“実践”をいたしますわよ!」




ディアはカウンター席で、俺の方に完全に向き直った。

彼女の虹彩がきらめく瞳がまっすぐに俺を射抜いている。


彼女の甘い香水の匂いと、さっき食ったばかりの中華そばの匂い、クマのぬいぐるみの埃っぽい匂いが俺の鼻腔でカオスな“ムード”(胃酸がせり上がるアレ)を醸し出していた。


「……」


「……」


「………」


「…………」



沈黙が痛い。胃も痛い。

ディアは何かを決意したように、一度、ぎゅっと目をつむった。


長いまつげが震えている。

あれだけ色々言っていたのに、緊張で強張っていた。

プラチナブロンドの縦ロールがわずかに揺れる。


彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。



「……行きますわ」


「お、おう」



終わった、多分ろくでもないやつが来る。

俺は胃もたれで瀕死の身体に必死で力を込め、来るべき衝撃に備えた。



次の瞬間、ディアはクマのぬいぐるみをとカウンターの上に置き、俺の肩を両手で掴んだ。


(うわ、これ、まさか、キス……!?)


そう認識するのと、衝撃が走ったのはほぼ同時だった。



ゴツン!


「いっ……!?」


唇よりも先に、勢い余った彼女の額と歯が俺の鼻の頭を強打した。

彼女の歯が俺の唇のあたりに、ガツン!とぶつかってきた。

ファーストキスが歯と鼻(+中華そばのスープ味)ってどういうことだよ!

……まあゲロの味よりかはマシかもしれないが。



「ん……むぐ……!」



ディアは何かに構うことなく、さらに顔を押し付けてくる。


痛い。普通に痛い。これはキスじゃない。事故だ。

交通整理が必要なレベルの正面衝突だ。


ただひたすらに、硬い骨と歯の感触だけが俺の唇と鼻に押し付けられている。


彼女は自分が何を間違えているかにも気づかず、必死に何かを「実践」しようと、顔に力を込めているのが分かった。


(痛い!痛いって!これ捕食シーンだろ!!)



あれだけ「跡継ぎ」だの「プロジェクト」だの「予行練習」だのと大騒ぎして

その「実践」の第一歩がこの、歯をぶつけるだけの超絶下手くそなキス(と呼べない何か)だというのか!?




数十秒、いや、体感時間にして数分。

その長い長い衝突の後、ディアはゆっくりと顔を離した。



「……ふぅ、完璧な口づけでしたわね」


(もう何も言わねえよ……)


彼女はぜえぜえと肩で息をしながら、顔を真っ赤にしていた。

俺はジンジンと痛む鼻と唇を押さえながら、呆然と彼女を見つめる。



ディアは俺の視線に気づくと、ハッと我に返ったように咳払いをした。

そして、カウンターに置いたクマのぬいぐるみを再び抱きしめ、精一杯の威厳を取り繕うように、胸を張った。


「……こ、これで、“契約”は完了ですわね」


「けいやく……?」


「ええ」

彼女は真っ赤な顔のまま、しかし、やり遂げたという自信に満ちた目で、俺に告げた。


「わたくしの……その、唾液は確かにあなたに渡しましたわ。わたくしたちの“ムード”も最高潮でした」



……ああ、そういうことか。こいつ、さっきの正面衝突で、唾液の交換()が完了したと思ってるのか。



「あとは……コウノトリが“価値”を認め、その“原石”を運んでくるのを、待つだけですわ」


そう言って、ディアはふん、と満足げに鼻を鳴らした。

その顔はまだ真っ赤なままだったけれど。



俺は痛む鼻を押さえながら、心の底から、天を仰いだ。


(助かったーーーーーーーー!!)


胃もたれも鼻の痛みも全部吹っ飛ぶほどの安堵感が全身を駆け巡った。



よかった。本当に、よかった。

こいつの知識がファベルジェの卵(笑)レベルで、本当によかった!



「……そうだな。待つしかねえな」



俺はできるだけ平静を装って、そう答えた。


このとんでもない勘違いは……まあ、いいか。



大学を卒業するまでの、あと数年間。

ゆっくりと時間をかけて、この天才(ただし一点を除く)のお嬢様に、本当の「保健体育」を教えていけば。

今はまだ、このままでいい。



俺は胃もたれと安堵のため息を同時に吐き出しながら、真っ赤な顔でクマを抱きしめるお嬢様を、ただ見つめていた。


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