第2話

街道を歩いていると、向こうから一台の馬車が猛スピードで走ってくるのが見えた。

かなり立派な馬車だが、車体は泥だらけで、車輪もガタガタと音を立てている。

御者台に座っている男は、顔面蒼白で手綱を握りしめていた。

「ヒィィッ! は、速く! もっと速く走れぇぇ!!」

男が叫んでいる。

馬車の後ろからは、土煙を上げて何かが追いかけてきていた。

それは、巨大なオークの集団だった。

三メートル近い巨体に、丸太のような腕。

手には粗末な棍棒や、錆びた剣を持っている。

その数、およそ二十体。

「グガァァァァッ!!」

オークたちが咆哮を上げる。

その声だけで、空気がビリビリと震えるようだ。

普通なら、逃げ出したくなる光景だ。

しかし、私は立ち止まってその様子を眺めていた。

私の足元では、フェンが小さく欠伸をしている。

『雑魚だな』

「うん、そうだね」

私たちは意見が一致した。

馬車が私たちの横を通り過ぎようとした瞬間、車輪の一つが石に乗り上げ、大きく跳ねた。

「うわぁぁぁっ!!」

御者が悲鳴を上げ、馬車が横転しそうになる。

スピードが落ちた。

その隙を見逃すオークたちではない。

先頭を走っていたオークが、物凄い跳躍力で飛び掛かってきた。

振り上げられた棍棒が、馬車を粉砕しようと迫る。

馬車の中からは、女性の悲鳴が聞こえた。

「……あ」

私は無意識に手を振った。

助けようと思ったわけではない。

ただ、目の前でうるさい音がするのが嫌だっただけだ。

私の指先から、黒い波動が放たれる。

それは音もなく空を切り、飛び掛かってきたオークに直撃した。

ドスッ。

鈍い音がしたかと思うと、オークの身体が空中で停止した。

次の瞬間。

オークの巨体が、黒い砂となってサラサラと崩れ落ちた。

「え……?」

御者が目を見開いて固まっている。

後続のオークたちも、仲間が一瞬で消滅したことに驚き、足を止めた。

「グルルッ!?」

彼らは私を見た。

獲物を見つけた、という目ではない。

理解不能な捕食者に出会ってしまった、という恐怖の目だ。

「邪魔」

私は一言だけ呟いた。

そして、軽く足を踏み鳴らす。

それだけで十分だった。

私の足元から、影が広がっていく。

黒い影は蛇のように地面を走り、残りのオークたちに向かって殺到した。

逃げる暇などない。

影に触れられたオークたちは、悲鳴を上げる間もなく、次々と黒い砂の塊に変わっていく。

『呪いへの変換』の応用。

生物の生命力そのものを、強制的に「物言わぬ物質」に変換したのだ。

数秒後。

そこには、ただの静寂と、小山のように積み上がった黒い砂だけが残されていた。

「…………は?」

御者が口をあんぐりと開けて、私を見ている。

馬車の中から、身なりの良い中年の男性が顔を出した。

商人風の男だ。

彼もまた、目の前の光景が信じられないといった様子で、目を丸くしていた。

「い、今……何が起きたのだ?」

商人が震える声で尋ねる。

私は肩をすくめた。

「掃除をしただけです」

「そ、掃除……? あれはオーク・ジェネラル率いる精鋭部隊だぞ!? 騎士団でも苦戦するような相手を、魔法の詠唱もなく、一瞬で……!?」

商人は馬車から転げ落ちるようにして降りてくると、私の前で平伏した。

「あ、有難うございます! 貴方様は命の恩人です! 私は王都で大手の商会を営んでいる、トマスと申します。いやはや、まさかこんな場所で、これほどの高名な魔導師様にお会いできるとは!」

「いえ、ただの通りすがりです」

私は面倒くさくなって、適当に流そうとした。

しかし、トマスは興奮冷めやらぬ様子だ。

「ただの通りすがり!? いやいや、ご謙遜を! あの魔法、見たこともない術式でした。闇魔法の極致とお見受けしましたが……」

彼は私の足元にいるフェンに気づき、さらに目を見開いた。

「そ、それに、その連れているワンちゃん……! ただの犬ではありませんね? 放たれている気配が、高位の魔獣そのものです。それをペットのように従えているとは……貴方様、一体何者なのですか!?」

トマスは商人の勘で、フェンの正体をなんとなく察知したらしい。

さすがは大商人だ。

しかし、正体を明かすわけにはいかない。

「……アビゲイルです。それより、お腹が空きました」

私は率直な要求を伝えた。

トマスは一瞬きょとんとしたが、すぐに商人の顔に戻り、満面の笑みを浮かべた。

「おお、それは失礼いたしました! 命の恩人にお礼もしないなんて、商人の名折れです。積荷の中には食料もございます。最高級の干し肉と、焼きたてではありませんが、柔らかい白パンもございますよ!」

「白パン……!」

その単語を聞いた瞬間、私の瞳が輝いた。

地下牢の黒パンとは違う。

あの、雲のように白くて柔らかいパン。

「いただきます」

私は即答した。

トマスはすぐに従者に指示を出し、道端に即席のテーブルを用意してくれた。

出されたのは、厚切りの干し肉と、チーズ、そしてドライフルーツの入った白いパン。

さらに、瓶詰めの葡萄ジュースまである。

「どうぞ、召し上がってください」

「ん」

私はパンを手に取り、大きく口を開けてかぶりついた。

ふわっ。

柔らかい。

噛み締めると、小麦の甘い香りが口いっぱいに広がる。

ドライフルーツの甘酸っぱさがアクセントになって、いくらでも食べられそうだ。

「……おいしい」

私は思わず呟いた。

目尻が下がってしまうのが分かる。

『我にも寄越せ』

足元でフェンが催促してくる。

私は干し肉をちぎって投げてやった。

フェンはそれを空中でパクりと受け止め、満足そうに咀嚼する。

『ふむ、悪くない味だ。人間にしては上出来である』

「そうでしょう、そうでしょう!」

トマスはフェンが喋ったことにも驚きつつ、嬉しそうに揉み手をしていた。

「いやあ、それにしても王都は大変なことになっていますからな。私も逃げ出してきたところなんですよ」

トマスがパンをかじりながら、世間話のように言った。

「なんでも、城の地下から巨大な化け物が現れたとか。空が真っ暗になって、建物が次々と崩れて……。まるで世の終わりだと、皆パニックになっていますよ」

「へえ」

私はパンを咀嚼しながら、興味なさげに相槌を打った。

「王子様や新しい聖女様が戦っているそうですが、どうにも劣勢らしいですな。……不思議なことに、以前はあんなことなかったのに。『呪いの聖女』がいなくなってから、急におかしくなったと言う者もいますよ」

トマスはチラリと私を見た。

「貴方様のような凄いお方がいれば、王都も救えるかもしれませんが……」

「私は忙しいので」

私はジュースを飲み干し、きっぱりと言った。

「これから温泉に行くんです」

「お、温泉ですか。それはまた……優雅ですな」

トマスは苦笑いした。

「しかし、この先の街道は魔物も多くて危険ですよ。もしよろしければ、私の馬車で隣町までお送りしましょうか? 護衛のお礼も兼ねて」

「本当?」

「もちろんですとも! 貴方様のような強力な護衛がいてくだされば、私も安心ですからな!」

渡りに船だ。

歩くのは疲れるし、馬車に乗れるならそれに越したことはない。

「お願いします」

こうして、私は快適な馬車の旅を手に入れた。

ふかふかのクッションに座り、膝の上にはもふもふのフェン。

手には美味しいおやつ。

窓の外を流れる景色を眺めながら、私は思った。

追放されて、本当によかった。

王都の方角では、時折遠雷のような爆音が響いているが、今の私には関係のないことだ。

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