第3話

トマスの馬車は快適だった。

揺れを軽減する魔道具が積まれているらしく、滑るように街道を進んでいく。

私は窓の外を眺めていた。

どこまでも続く青い空。

緑豊かな草原。

地下牢の小窓から見えていた、あの四角い空とは大違いだ。

「……広いな」

「はい?」

向かいの席に座っているトマスが、愛想笑いを浮かべて首を傾げた。

「世界って、広いんですね」

「ははは、アビゲイル様は詩的な表現がお好きですな。これでもまだ、大陸のほんの一部ですよ」

トマスは私が世間知らずだとは思っていないようだ。

まあ、普通の人間は十数年も地下に閉じ込められたりしない。

膝の上で丸くなっているフェンが、ピクリと耳を動かした。

『……来るぞ』

フェンの念話が届く。

「止めてください」

私は御台に向かって声をかけた。

「えっ? どうかされましたか?」

トマスが驚いて窓の外を見る。

次の瞬間。

ヒュンッ!!

風を切る音がして、巨大な岩石が空から降ってきた。

それは私たちが進もうとしていた、ほんの数メートル先の地面に激突した。

ズドォォォォン!!

大地が揺れ、土煙が舞い上がる。

もし馬車を止めていなければ、確実に直撃していただろう。

「ヒィッ!?」

トマスが悲鳴を上げる。

「な、な、ななんですとぉぉ!?」

土煙の向こうから、のっそりと姿を現したのは、一つ目の巨人、サイクロプスだった。

体長は五メートルほど。

手には、引き抜いたばかりの大木を持っている。

「オオオオオオッ!!」

サイクロプスの咆哮が空気を震わせる。

並の冒険者なら、遭遇しただけで死を覚悟するレベルの魔物だ。

「サ、サイクロプス!? こんな街道沿いに出るなんて……!」

トマスが顔面蒼白で震えている。

「ア、アビゲイル様! ここは一旦退却を……!」

「面倒くさいな」

私はため息をついた。

馬車のドアを開け、外に出る。

「ワフッ!」

フェンも元気よく飛び出した。

サイクロプスが私に気づき、ギョロリとした巨大な瞳を向けた。

「ニンゲン……チイサイ……ツブス」

知能は低いようだ。

サイクロプスが大木を振り上げる。

その影が私を覆い隠す。

「危ないっ!!」

トマスの叫び声。

私は一歩も動かなかった。

ただ、右手を軽く上げただけだ。

「『反転』」

小さく呟く。

振り下ろされた大木が、私の頭上でピタリと止まった。

サイクロプスが「?」という顔をする。

彼は全力で大木を押し込もうとしているようだが、それは見えない壁に阻まれたかのように、一ミリも動かない。

私の能力は、エネルギーを「呪い」に変えるだけではない。

そのベクトルを自在に操ることもできる。

サイクロプスの馬鹿力も、私にとってはただのエネルギーの塊に過ぎない。

「重いから、返します」

私は手首をくいっと返した。

瞬間。

ドォォン!!

サイクロプスが振り下ろした力の倍の衝撃が、そのまま彼自身へと跳ね返った。

彼が持っていた大木が砕け散り、その衝撃波がサイクロプスの巨体を吹き飛ばした。

「グギャァァァァッ!?」

サイクロプスはボールのように空高く舞い上がり、数百メートル後方の森の中へと消えていった。

ズシーン……。

遠くで地響きがして、土煙が上がる。

「……ふう」

私は服についた埃を払った。

「終わり」

振り返ると、トマスと御者が、顎が外れんばかりに口を開けていた。

「…………」

沈黙が流れる。

やがて、トマスが震える手で眼鏡の位置を直しながら、口を開いた。

「あ、あの……アビゲイル様?」

「はい」

「今、何をしたのですか? 指一本触れずに、サイクロプスを……?」

「彼が勝手に飛んでいっただけです」

私は適当な嘘をついた。

説明するのが面倒だったからだ。

「勝手に……? いやいや、そんな馬鹿な……」

トマスは冷や汗を拭いながら、私を見る目に明らかな畏怖の色を浮かべていた。

「恐れ入りました。貴方様は、私が想像していた以上の……いや、とんでもないお方だ。もしかして、伝説の宮廷魔導師様か何かで?」

「ただの無職です」

「無職!? この実力で!? いや、世の中は広い……」

トマスはぶつぶつと独り言を言いながら、何かを納得したように頷いた。

「分かりました。詮索はいたしますまい。ただ、これだけは言わせてください」

トマスは居住まいを正し、深々と頭を下げた。

「貴方様に出会えて、本当によかった。貴方様がいなければ、我々は今頃、あの世行きでした」

その言葉に、私は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。

「ありがとう」と言われるのは、悪くない気分だ。

王都では、どんなに国を守っても、誰からも感謝されなかった。

「不気味だ」「呪われている」と避けられるだけだった。

それがどうだ。

外の世界では、少し力を振るうだけで、こんなにも感謝される。

「……どういたしまして」

私は少しだけ口角を上げて言った。

「さあ、行きましょう。温泉が待っています」

「は、はい! お任せください! 最高速度で参りましょう!」

トマスが御者に合図を送る。

馬車は再び走り出した。

膝の上のフェンが、私を見上げて言った。

『貴様、なかなかいい顔をするようになったではないか』

「そう?」

『うむ。地下牢で初めて会った時は、死人のような目をしていたからな』

フェンはふんと鼻を鳴らし、また丸くなって目を閉じた。

『まあ、我の飼い主としては、それくらいでなくては困るがな』

「はいはい」

私はフェンの背中を撫でながら、窓の外を流れる景色を眺めた。

遠くの山並みの向こうに、夕日が沈んでいく。

空が茜色に染まっていく。

綺麗だ。

明日はどんな美味しいものが食べられるだろうか。

どんなふかふかのベッドで眠れるだろうか。

私の心は、これからの希望だけで満たされていた。

王都の方角には、真っ黒な雨雲のようなものが渦巻いているのが見えたが、私はすぐに視線を逸らし、明日の献立を考えることに集中した。

国が滅びようが、知ったことではない。

だって、私を追放したのはそっちなのだから。

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