無能と蔑まれた『呪いの聖女』を追放したら、国を守っていた本物の『封印』まで解けてしまったらしい。もう遅いので、私は最強の魔獣と温泉宿でのんびりします。

☆ほしい

第1話

カツン、カツン、と硬質な靴音が響いてくる。

じめじめとした湿気と、カビの臭いが充満する地下牢。

ここが私の部屋だ。

私は石の床に敷かれた薄汚れた藁の上に座り込み、ぼんやりとその音を聞いていた。

鉄格子越しに現れたのは、煌びやかな衣装に身を包んだ金髪の青年だった。

この国の第一王子、フレデリック殿下だ。

彼の隣には、ピンク色のふわふわとした髪をした、小柄な少女が寄り添っている。

彼女は私のことを、蔑むような目で見下ろしていた。

「アビゲイル! 貴様との婚約は、この瞬間をもって破棄とする!」

王子が高らかに宣言した。

地下牢に響くその声は、無駄によく通る。

私はゆっくりと顔を上げた。

久しぶりに動かした首が、コキリと小さな音を立てる。

「……はい」

私は短く答えた。

それ以外の言葉が思いつかなかったのだ。

王子は私の反応が気に入らなかったらしい。

眉を吊り上げ、大げさな身振りで私を指差した。

「なんだその態度は! 悔しくないのか! 悲しくないのか! 貴様は聖女の地位を剥奪され、この国から追放されるのだぞ!」

王子の後ろに控えていた近衛兵たちが、ざわめいているのが分かる。

「おい、聞いたか? あの『呪いの聖女』が追放だと?」

「あいつがいなくなって、大丈夫なのか?」

「馬鹿、殿下がそう仰っているんだ。それに、あんな不気味な女、いない方がいいに決まっている」

兵士たちのヒソヒソ話は、私の耳にはっきりと届いていた。

私は内心で首を傾げる。

悔しい?

悲しい?

そんな感情は、どこを探しても見当たらない。

むしろ、私の胸の奥底から湧き上がってくるのは、まったく別の感情だった。

(……やっと、出られるの?)

それだけだ。

私は生まれた時から、この「呪いの聖女」という役割を押し付けられてきた。

私の体質は特殊だ。

周囲のあらゆるエネルギーを「呪い」という黒い泥のような魔素に変換し、固定してしまう。

王家はその力を利用した。

王都の地下深くに眠る「厄災」を、私の力で「呪いの泥」に変え、この地下牢に溜め込み続けてきたのだ。

私は国のための人柱だった。

太陽の光も知らず、美味しい食事も知らず、ただひたすらに国の汚物を吸い取り続けるフィルター。

それが私、アビゲイルという存在の全てだった。

「ふん、強がるのもそこまでだ」

王子は鼻を鳴らし、隣の少女の腰を抱き寄せた。

「紹介しよう。こちらが真の聖女、エミリアだ。彼女の聖なる力こそが、我が国を救うのだ」

「初めましてぇ、アビゲイル様ぁ。今までお疲れ様でしたぁ。これからは私が、王子様とこの国を支えますからぁ、安心して消えてくださいねぇ」

エミリアと呼ばれた少女が、甘ったるい声で笑う。

彼女の周囲には、微弱だが確かに「治癒」の魔力が漂っていた。

なるほど、彼女は普通の聖女らしい。

怪我を治したり、作物を育てたりする力があるのだろう。

素晴らしいことだ。

私のように、触れるもの全てをドロドロの呪いに変えるだけの女とは大違いである。

「それで、アビゲイル。貴様には即刻、この国から出て行ってもらう」

王子が顎で出口をしゃくった。

「二度と私の前に顔を見せるな。貴様のような不吉な女がいるだけで、空気が淀むのだ」

「承知いたしました」

私は立ち上がった。

鎖が外される。

重たい鉄の手錠が、床に落ちて鈍い音を立てた。

身体が軽い。

魔力が、身体の芯から溢れ出してくるのが分かる。

今までこの地下牢全体に張り巡らされていた、厄災を抑え込むための結界への魔力供給。

それを、もうしなくていいのだ。

「では、失礼いたします」

私はスカートの埃を払い、出口へと歩き出した。

王子とエミリアの横を通り過ぎる。

その瞬間、エミリアがわざとらしく悲鳴を上げた。

「きゃっ! な、なにか寒気が……!」

「大丈夫かエミリア! ……チッ、やはり貴様は疫病神だ。さっさと行け!」

王子が私を睨みつける。

私は一瞥もくれず、階段を登った。

一歩、また一歩。

石段を登るたびに、背中の重荷が消えていくようだ。

地下牢の出口、分厚い鉄の扉が開かれる。

眩しい光が差し込んできた。

私は思わず目を細める。

これが、太陽。

本でしか見たことのなかった、本物の光。

「……暖かい」

私は呟いた。

私の人生は、今日、この瞬間から始まるのだ。

城門を抜け、跳ね橋を渡る。

門番たちが私を見て、露骨に嫌な顔をして道を空けた。

「うわ、本当に出ていくのかよ」

「せいせいするぜ」

そんな陰口も、今の私には小鳥のさえずりのようにしか聞こえない。

私は王都のメインストリートを歩き、そのまま巨大な城壁の門をくぐり抜けた。

一歩。

王都の外へと、足を踏み出す。

その瞬間だった。

ズズズズズ……ッ!!

地鳴りがした。

最初は小さく、次第に大きく。

足元の地面が微かに振動している。

「……?」

私は振り返った。

王都の方角を見る。

巨大な王城が、小刻みに揺れていた。

「なんだ!? 地震か!?」

「きゃああああ!」

門の向こうから、悲鳴が聞こえてくる。

私は何が起きているのか、すぐに理解した。

私が地下牢を離れたことで、私が変換・固定していた「呪いの泥」の制御が外れたのだ。

私がこれまで十数年間、片時も休まずに抑え込んできた、国数個分に匹敵する膨大な「厄災」。

それが今、元の荒れ狂うエネルギーに戻ろうとしている。

ドォォォォォォォン!!

爆発音が響いた。

王城の地下から、真っ黒な奔流が噴き上がったのが見えた。

それはまるで、巨大な黒い竜が顎を開いて天を喰らうかのような光景だった。

王都の空が、一瞬にしてどす黒い瘴気に覆われていく。

「あーあ」

私は他人事のように呟いた。

「エミリア様がなんとかするって言ってたし、大丈夫だよね」

王子は言っていた。

真の聖女が国を救うと。

なら、私の出番はない。

私はもう、ただの追放された一般人なのだから。

「さて、行こうかな」

私は背を向けた。

背後で、かつてない規模のパニックが起きている気配がする。

警鐘が乱打され、兵士たちの怒号が飛び交っている。

「お、おい! なんだあれは!?」

「地下から魔物が溢れ出してくるぞ!!」

「聖女様は!? エミリア聖女様をお呼びしろ!!」

「だ、駄目です! エミリア様の治癒魔法じゃ、あんなの止められません!!」

「アビゲイルは!? あいつを呼び戻せ!!」

風に乗って、そんな絶望的な叫び声が聞こえてきた気がしたが、私は歩調を緩めなかった。

呼び戻せと言われても、もう遅い。

私はもう、自由なのだ。

街道を歩く。

土の感触が心地よい。

道端に咲いている小さな花が可愛い。

世界はこんなにも色鮮やかだったのか。

私は大きく伸びをした。

関節がパキパキと鳴る。

「お腹、空いたな」

そういえば、今日の食事はまだだった。

地下牢で出される食事は、いつも冷たくて固いパンと、具のないスープだけだった。

外の世界には、もっと美味しいものがあるはずだ。

例えば、本で読んだ「お肉」とか。

焼きたての「ふわふわのパン」とか。

想像するだけで、口の中に唾が溜まる。

私は足取り軽く、街道を進んでいく。

背後で王都を包み込む黒い瘴気の柱は、もはや雲を突き抜けるほどの高さに達していたが、私は一度も振り返らなかった。

これから私が向かうのは、自由気ままな一人旅。

そして、美味しいご飯と、暖かいお風呂のある場所だ。

王都から数キロほど歩いただろうか。

周囲には森が広がっている。

鳥の声が聞こえる。

風が木の葉を揺らす音が聞こえる。

なんて平和なのだろう。

王都の方からは、何やら爆発音や、ワイバーンの群れが飛び交う影が見えるが、ここまでは届かない。

「……ん?」

ふと、前方の茂みがガサガサと揺れた。

私は足を止めた。

茂みの奥から、低い唸り声が聞こえてくる。

それは、獣の唸り声のようでもあり、地獄の底から響く怨嗟の声のようでもあった。

普通の人間なら、その声を聞いただけで腰を抜かし、恐怖で動けなくなるだろう。

圧倒的な「格」の違いを感じさせる気配。

捕食者としての絶対的なオーラ。

だが、私は特に何も感じなかった。

地下牢で毎日感じていた、あのドロドロとした「厄災」の気配に比べれば、随分と可愛らしいものだ。

「誰?」

私が問いかけると、茂みが大きく割れた。

現れたのは、巨大な狼だった。

いや、狼と呼ぶにはあまりにも大きすぎる。

体高は、優に二メートルを超えているだろうか。

全身が夜の闇を凝縮したような漆黒の毛皮で覆われている。

その瞳は、血のように赤く輝いていた。

鋭い牙からは、ポタポタと涎が垂れ落ち、その雫が地面に落ちると、草花が一瞬で枯れていく。

『……人間か』

頭の中に、直接声が響いてきた。

念話だ。

高度な知性を持つ魔獣らしい。

『我は、かつてこの地に封じられし厄災の具現……フェンリルである』

狼が名乗った。

フェンリル。

神話に出てくる、神さえも喰らうと言われる最強の魔獣の名前だ。

どうやら、私が王都を離れたショックで、封印の裂け目から飛び出してきた「厄災」の一部が、実体化したものらしい。

本来なら、国を一つ滅ぼすほどの力を持った存在だ。

『貴様、我を前にして震えぬとは、なかなかの度胸だ。だが、それもここまでだ。我は今、猛烈に腹が減っている……』

フェンリルが、巨大な口を開けた。

喉の奥から、凄まじい魔力の塊が見える。

ブレスを吐くつもりらしい。

その魔力密度は凄まじく、直撃すれば山の一つくらいは吹き飛ぶだろう。

『貴様の魂、我の糧としてくれよう!!』

「うるさい」

私は無造作に手を伸ばした。

『なっ……!?』

フェンリルが驚愕の声を上げるよりも早く、私はその鼻先に触れた。

私の能力が発動する。

『呪いへの変換』。

フェンリルの体内で荒れ狂っていた、攻撃的な魔力。

殺意。

破壊衝動。

それら全てのエネルギーが、私の手に触れた瞬間、瞬時に変質した。

シュゥゥゥ……。

黒い霧のようなものが、フェンリルの身体から抜け出し、私の掌の上に集まってくる。

それは見る間に凝縮され、直径五センチほどの、艶やかな黒い真珠のような球体になった。

「はい、おしまい」

私が手を離すと、そこにはもう、巨大な漆黒の狼はいなかった。

代わりにちょこんと座っていたのは、子犬サイズの、真っ白な毛並みをした狼だった。

いや、狼というよりは、ただの可愛い犬だ。

『わふ!?』

フェンリル(仮)が、自分の身体を見下ろして情けない声を上げた。

『な、なんだこれは!? 我の力が……憎悪が、消えた!? 身体が……軽い!?』

「毒素を抜いてあげたの。君、エネルギーが暴走してて辛そうだったから」

私はしゃがみ込み、フェンリルの頭を撫でた。

毛並みは最高だ。

ふわふわで、もふもふで、まるで最高級のシルクのようだ。

地下牢の湿った藁とは大違いの感触に、私はうっとりと目を細めた。

「うん、気持ちいい」

『き、貴様……一体何をしたのだ……。我は厄災だぞ……? 人間が触れていい存在では……』

フェンリルは困惑しているようだったが、私が撫でるのを止めようとはしなかった。

むしろ、尻尾が勝手にパタパタと動いている。

「私はアビゲイル。君、名前は?」

『我はフェンリルだと言っただろう!』

「長い。……ポチでいい?」

『断る!! 我は誇り高き……ひゃんっ!』

私が耳の後ろを優しく掻いてやると、フェンリルは抗えない快感に身をよじった。

『そ、そこは……! 貴様、手慣れているな……!』

「地下牢にいた時、ネズミくらいしか友達がいなかったから」

ネズミを撫でて手懐けるのは、私の数少ない娯楽の一つだったのだ。

それに比べれば、この大きな(今は小さいが)犬を撫でるのは、遥かに楽しい。

「じゃあ、フェンにする」

『……まあ、ポチよりはマシか』

フェンリル……フェンは、不満げながらも承諾したようだ。

彼は私の足元に擦り寄ってきた。

どうやら、私のそばにいると、体内の魔力が安定して心地よいらしい。

私の能力は、周囲のエネルギーを安定化させる。

暴走しがちな厄災の化身にとって、私は歩くパワースポットのようなものなのだろう。

「さて、フェン。私はこれから温泉に行くけど、ついてくる?」

『温泉? ……ふん、仕方がない。貴様一人ではすぐに野垂れ死にするだろうからな。我が護衛としてついて行ってやろう』

フェンは尊大な口調で言いながら、私の足にぴたりとくっついてきた。

素直じゃないところが可愛い。

こうして、私は最強の魔獣を拾った。

旅の相棒もできたことだし、幸先が良い。

私は再び歩き出した。

目指すは、隣国の国境付近にあるという、有名な温泉街だ。

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