第2話:通勤電車のバックグラウンド処理

 東京の通勤ラッシュは、物理学への冒涜だ。定員100%という概念が、ここでは平然と200%まで拡張される。人体は個体ではなく流体として扱われ、おじさんの背中とOLの鞄の隙間に、パズルのピースのように自分の身体をねじ込む技術が要求される。



 私はつり革に掴まることも許されず、ドア付近のすし詰め地帯で、肋骨がきしむ音を聞いていた。唯一の自由は、顔の三十センチ手前に確保したスマートフォンの画面だけだ。



「……よし、ログ保存(コミット)。」



 私は小声で呟き、愛用のナレッジ管理ツール『Onyx』の画面をタップした。黒い背景に、色とりどりのノード(点)が銀河のように広がっている。私の脳内、そして私の魔法生活の全てがここに記録されている。



 フォルダ構成:  00_Inbox(未処理の魔法ログ)  10_DailyNote(日誌・体調管理)  20_Magic_Wiki(魔法定義・コスト表)  99_Archives(過去の失敗事例)



 私は先ほど入力した「朝の牛乳コップ事件」のログを、20_Magic_Wikiフォルダ内のClass A:局所時空操作のページにリンクさせた。画面上のグラフビューで、新たな線が結ばれる。美しい。この体系化された知識のネットワークこそが、混沌とした私の人生における唯一の秩序だ。



 魔法使いといっても、私はファンタジー小説に出てくるような「選ばれし者」ではない。どちらかと言えば、バグだらけのレガシーシステムを押し付けられた、不運な運用担当者に近い。仕様書(マニュアル)はなく、サポートデスク(祖父)は既に他界し、エラー(副作用)だけは容赦なく発生する。だからこそ、こうして自分でログを取り、傾向と対策を練らなければならないのだ。



(今の味覚消失レベルは……『Level 2』か。昼食のうどんの出汁くらいなら感じ取れるかもしれない)



 朝に摂取したラムネのおかげで、低血糖の手の震えは治まっていた。よし、このまま大人しく会社まで運ばれよう。今日はもう、絶対に魔法は使わない。MP(精神力)もHP(カロリー)も温存し、定時退社のためだけにリソースを割くのだ。



 そう決意した矢先だった。車両の中央付近で、不穏なノイズが私の耳(ノイズキャンセリングイヤホン越し)に飛び込んできた。



「おい、お前! 今触っただろ!」



 空気が凍りつく。満員電車の澱んだ空気が、一瞬で真空になったような緊張感。スマホの画面から目を逸らし、視線だけで様子を伺う。



 声の主は、五十代くらいの小太りの男だ。脂ぎった顔を紅潮させ、一人の男子高校生の腕を掴んでいる。高校生は蒼白だった。細身で、いかにも気弱そうな学生だ。両手には通学鞄を抱えており、痴漢ができるような体勢ではないことは、少し離れた私から見れば明らかだった。しかし、被害者とされる女性――派手なメイクの二十代女性――は、困惑したように男と高校生を交互に見ている。



「え、あ、私は……よくわからなくて……」 「俺は見たんだよ! こいつが今、お尻を触ったのを! 次の駅で駅員室に行くぞ!」



 男が吠える。高校生は「ち、違います、僕は両手で鞄を……」と声を震わせているが、周囲の冷ややかな視線に晒され、パニックに陥っている。



(……ああ、最悪のパターンだ)



 私の脳内検索エンジンが、過去の類似事例をヒットさせる。冤罪、あるいは、この男自身が本当の加害者で、バレそうになった瞬間に近くの学生に罪をなすりつける「スケープゴート型」の手口。男の目の動きが泳いでいる。十中八九、後者だ。



 周囲の乗客は、関わり合いになるのを恐れて沈黙を守っている。私も同じだ。目を逸らし、スマホの画面に戻る。今の私に、他人の人生に介入する余力はない。ただでさえ朝の魔法でカロリーが枯渇しているのだ。ここで動けば、私は会社に辿り着けないかもしれない。



(無視だ。これは私のタスクじゃない)



 そう自分に言い聞かせる。だが、高校生の絶望に染まった目と目が合ってしまった。恐怖で歪んだその顔が、ふと、新入社員の頃の自分と重なった。権田部長の理不尽な叱責に、何も言い返せず震えていた、あの頃の自分と。



『パパはね、ヒーローじゃないけど、エンジニアなんだよ』



 いつか、娘に語った言葉が脳裏をよぎる。そうだ。ヒーローは悪を倒すが、エンジニアはバグ(不具合)を修正する。目の前で起きている事象は、明らかにこの世界の「バグ」だ。そして私は、それを修正する権限(コマンド)を持っている。



「……はぁ」



 私は深くため息をついた。観念した。見て見ぬふりをして一日過ごすより、身体的な苦痛の方がまだマシだ。私の性格(OS)は、どうやらそういう仕様らしい。



 私はスマホをポケットにしまい、男の足元と、高校生の腕を掴んでいる手に意識を集中させた。直接的な攻撃魔法は使えない。そんなことをすれば傷害罪だし、コストが高すぎて私が死ぬ。必要なのは、ほんの少しの物理定数の書き換えだ。



(対象座標ロック。パラメータ指定……摩擦係数(μ)。ターゲットは男の靴底、および指先の皮膚)



 イメージする。男の靴底が、まるで氷の上のバナナの皮に乗ったかのように、グリップ力を失う様を。男の指先が、油を塗ったように滑りやすくなる様を。



 システム権限行使:【摩擦係数操作(スリップ・モード)】  指定値:μ = 0.01



 実行(Enter)。



 その瞬間、電車が大きくカーブに差し掛かり、車体がガクンと揺れた。普段なら何でもない揺れだ。しかし、今の男にとって、床は摩擦ゼロの氷上リンクと化している。



「うおっ!?」



 男の足が、漫画のようにツルンと滑った。踏ん張ろうとした指先も、高校生の腕からヌルリと外れる。支えを失った男の質量は、慣性の法則に従って一直線にスライドし――



 ズドーン!



 という鈍い音と共に、反対側のドア付近にいた屈強な外国人観光客の背中にタックルする形で激突した。車内に微妙な空気が流れる。あまりに無様な転び方に、数人がプッと吹き出した。



「……あ、あれ?」  高校生は呆然として、自由になった自分の腕を見ている。男は顔を真っ赤にして起き上がろうとするが、まだ魔法の効果が残っており、生まれたての子鹿のように足が滑って立ち上がれない。その滑稽な姿を見て、先程までの「正義の告発者」という空気は完全に霧散した。



(デバッグ完了)



 私は心の中で完了通知を受け取る。高校生は助かった。男は恥をかいて次の駅で降りるだろう。完璧な処理だ。誰にも魔法だとは気づかれていない。



 だが、その代償は即座に、そして容赦なく訪れた。



 ギュルルルル……。下腹部のあたりで、不穏な音が鳴り響く。摩擦係数を操作する魔法は、物理的なエネルギー消費は少ないものの、神経系へのバックラッシュ(反動)が大きい。特に、自律神経の制御が一瞬緩むのだ。



 具体的に言えば、猛烈な尿意である。



(嘘だろ……!? ここで!?)



 さっきまで「ゼロ」だった尿意のゲージが、一瞬で「98%」まで跳ね上がった。膀胱のセンサーが誤作動を起こしているのか、それとも括約筋の制御権限を一時的に剥奪されたのか。どちらにせよ、これは社会的な死に直結する緊急事態(クリティカル・アラート)だ。



 さらに悪いことに、魔法使用による体温低下で、悪寒が全身を駆け巡る。



 寒い。漏れそう。寒い。漏れそう。私の脳内リソースは、先程までの「正義感」から一転、「尊厳の死守」へと全振りされた。



 額から脂汗が噴き出す。隣に立っていた女性が、私の異様な顔色(青白く、滝のような汗をかき、小刻みに震えている)を見て、そっと距離を取ったのが分かった。痴漢と間違われないように両手を上げてつり革を掴んでいるが、その腕はプルプルと震えている。



(次の駅まで……あと三分……)



 永遠にも感じる三分間。私は目を閉じ、円周率を唱え、必死に括約筋(ファイアウォール)の強度を維持した。高校生を救った名もなき英雄の姿がこれだ。誰にも賞賛されず、ただただ尿意と戦う三十五歳。



 午前八時四十五分。コクヨウ文具株式会社、本社ビル。私は、残りのHP(体力)が「1」の状態で、知的財産部のフロアに辿り着いた。駅のトイレには間に合った。尊厳は守られた。しかし、その戦いで全ての精根を使い果たしていた。



「おはようございます、係長」



 部下の星野が、爽やかに声をかけてくる。彼は最新のMacBookを開き、すでにバリバリと仕事を始めている。若さが眩しい。



「……おはよう、星野君」 「うわ、顔色悪いですね。ゾンビ映画のエキストラ行けますよ」 「褒め言葉として受け取っておくよ」



 私はよろよろと自分のデスクに座り込み、引き出しを開けた。そこには私の聖域がある。買いだめしておいた『大粒ラムネ』の袋だ。私はそれを貪るように口に運んだ。ブドウ糖。甘い救済。



「係長、朝からお菓子ですか?」 「これは……脳の燃料だ。起動プロセスに必要なんだよ」



 星野は不思議そうな顔で私を見ている。彼には見えないだろう。私の背後に、今朝処理した二つのバックグラウンド・タスク(コップの復元と、冤罪回避)のログが浮かんでいるのが。



 パソコンの電源を入れる。Windowsの起動音と共に、私もようやく「会社員・佐藤健一」としてのOSを立ち上げた。だが、私は知らなかった。今日のタスクリストには、とんでもない「特大のバグ(無茶振り)」が既に登録されていることを。



 部長の権田が、分厚いファイルを持って、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。その足取りは軽く、手には嫌な予感しかしない紙束が握られている。



(……予知魔法を使わなくてもわかる。あれは、絶対に残業フラグだ)



 私はラムネを噛み砕き、覚悟を決めた。今日も長い一日になりそうだ。

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