35歳、係長の「実装」魔法生活
あじのたつたあげ
第1話:システム復元(ロールバック)の朝
高級食パン専門店『乃が美』のトーストからは、芳醇な小麦の香りが立ち上っていた。表面は狐色に焦げ、中は雪のように白い。バターが溶け出し、黄金色の泉を作っている。完璧な朝食だ。妻の雅子が昨日の仕事帰りに、わざわざ並んで買ってきたものだ。
しかし、私の口の中では、それは「古新聞」の味しかしなかった。
あるいは、濡れたダンボールと言ってもいいかもしれない。味覚という信号が脳に届く前に、どこかの回線でプツリと切断されている。舌の上にあるのは、ただボソボソとした無味乾燥な炭水化物の塊だけだ。私は必死に口角を持ち上げ、「うん、美味しいね」と笑顔を作った。頬の筋肉が痙攣しているのが自分でもわかる。
「でしょ? やっぱりスーパーのパンとは違うわよね」
向かいの席で、雅子は満足そうにコーヒーを啜っている。彼女の機嫌が良いのが救いだ。もし今の私が、このトーストを水で無理やり流し込んでいることに気づかれたら、彼女の眉間には深い皺が刻まれるだろう。テーブルの下で、私の左手は小刻みに震えていた。極度の低血糖だ。視界の端がチカチカと点滅し、身体の芯から熱が奪われていく感覚。まるで真冬のプールに突き落とされた直後のような、内側からの寒気。
原因は明白だ。つい五分前、私がこのダイニングキッチンで、【局所時間逆行(ロールバック)】という名の、極めて燃費の悪い魔法を行使したからである。
時計の針を、五分前に戻そう。 いや、実際に時間を戻すのはもう勘弁願いたい。あくまで回想としてだ。
午前七時十五分。 我が家の朝は、戦場ではないが、分刻みのスケジュールで統制された平和維持活動のようなものだ。妻の雅子は人材派遣会社の人事で働いており、朝の支度は早い。四歳になる娘の結衣は、保育園に行く前のEテレタイムに夢中だ。私はといえば、出社前にゴミ出しの分別を確認しつつ、今日の天気予報と自分の体調(HP残量)を照らし合わせていた。
事件は、その一瞬の隙に起きた。
「パパ、牛乳おかわり!」
結衣が、自分の背丈には大きすぎるガラスのコップを掴んだ時だった。指先が滑ったのか、それともアニメのキャラクターに気を取られたのか。なみなみと注がれた白い液体が入ったコップが、スローモーションのように傾いた。
あ、と思った時には遅い。コップはテーブルの端を離れ、重力に従って落下を開始していた。下にあるのは、昨日張り替えたばかりのラグマットではない。雅子が「絶対に汚さないでよ」と念押ししていた、毛足の長いフカフカのカーペットだ。しかも色はベージュ。牛乳が染み込めば、拭き取るのは不可能に近い。匂いは残り、カビの原因になり、そして何より――雅子の雷が落ちる。
――娘が泣く。――妻が怒る。――朝の空気が凍りつく。――私の出社が遅れ、満員電車のピークに巻き込まれる。
私の脳内CPUが、コンマ一秒で未来予測(シミュレーション)を完了させた。結論。この事象は回避しなければならない。
私は右手を伸ばした。物理的には絶対に間に合わない距離だ。だから、私は物理法則の方をショートカットすることにした。
(対象座標、半径30センチ。事象確定前。……よし、リソース承認)
詠唱などという風情のあるものは必要ない。必要なのは、結果のイメージと、代償を支払う覚悟だ。脳の奥にあるスイッチを、強引にねじ込む。 内臓がギチリと音を立てて締め上げられる感覚。
システム権限行使:【局所時間逆行(ロールバック)】 指定時間:マイナス三秒
カッ、と視界が白く弾けた。次の瞬間、床に激突して破片と白い飛沫を撒き散らすはずだったコップは、ビデオテープを巻き戻したような不自然な軌道を描いて、空中に「吸い上げ」られた。こぼれ出た牛乳の雫が、空中で球体に戻り、コップの中へと収束していく。そして、トン、という軽い音と共に、コップはテーブルの上――結衣の手が触れる前の位置――に鎮座していた。
「……え?」
雅子が素っ頓狂な声を上げた。彼女は見ていたはずだ。コップが落ちかけた瞬間を。しかし、今の彼女の視界には、何事もなくテーブルに置かれたコップと、何食わぬ顔で新聞を見ている(フリをしている)私しか映っていない。
「あれ? 今、落ちなかった? 落ちそうになったような……」 「ん? ああ、結衣が手を滑らせかけたけど、ギリギリセーフだったね」
私は平静を装って言った。声が裏返らないように腹に力を入れるが、その腹の中には空っぽの空洞ができたような虚無感がある。
「そう……? 私の見間違いか。疲れてるのかな」 「落ちなくてよかったよ。これ、洗うの大変だからね」
雅子は狐につままれたような顔で首を傾げたが、すぐに「ほら結衣、気をつけて飲みなさい」と日常に戻っていった。人間、物理的にありえない現象を目撃しても、脳が勝手に「見間違い」として処理してくれる。この認知バイアスこそが、私が魔法使いとして社会生活を送れている最大の理由だ。
だが、システムへの介入にはコストがかかる。「質量保存の法則」や「エントロピー増大の法則」といった宇宙の理(ルール)をねじ曲げたのだ。そのツケは、私の肉体(ハードウェア)から即座に徴収される。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。指先から血の気が引き、強烈な飢餓感が胃袋を襲う。たった三秒。コップ一杯の質量を三秒前に戻すだけで、私の血糖値は危険水域まで持っていかれた。推定消費カロリー、約450kcal。カツ丼半分が一瞬で消し飛んだ計算だ。そして副作用として、感覚機能の一部がセーフモードに移行する。今回は「味覚」と「嗅覚」がシャットダウンされたらしい。
――現在時刻、七時二十分。私は味のしない高級トーストを咀嚼し続けている。砂を噛むような朝食。これが私の「英雄的行為」への報酬だ。
「パパ、顔が白いよ? #ffffff(ホワイト)だよ?」
結衣が心配そうに私を見上げてくる。最近、私が仕事でカラーコードの話をしたのを覚えたらしく、白さをWebカラーで表現してくるのが生意気で可愛い。私は震える手でコーヒーカップを持ち上げ、娘に向かってウィンクしてみせた。
「大丈夫だよ。パパはね、美白を目指してるんだ」 「ふーん。ママみたいだね」
結衣は興味を失い、残りのトーストにかぶりついた。私はそっと息を吐く。冷や汗がワイシャツの背中に張り付いて気持ちが悪い。魔法を使うと体温調節機能もバグるため、夏場でもカイロを貼りたくなるほどの悪寒が走ることがある。
「健一君、本当に大丈夫?」
雅子が食器を片付けながら、私の顔を覗き込んできた。その目は、獲物を値踏みする猛禽類のように鋭い。彼女は勘がいい。私が何かを隠していることに、薄々気づいている。浮気か、借金か、それとも重い病気か。まさか夫が、娘の牛乳をこぼさないために寿命を削って時空を歪めているとは、夢にも思わないだろう。
「大丈夫だって。ちょっと昨日の特許調査が長引いて、目が疲れてるだけさ」 「ふうん。……無理しないでよ。あなた、最近痩せすぎなんだから」 「ダイエット成功って言ってよ」 「不健康な痩せ方よ。頬がこけてるし、目の下にクマができてる」
雅子はため息をつき、冷蔵庫からあるものを取り出した。スポーツ用のエネルギーゼリーだ。
「はい、これ持っていって。会社で飲みなさい」 「……ありがとう」
彼女のこういう優しさが、今は痛い。私はよろめくように立ち上がり、スーツの上着を羽織った。内ポケットには、常に常備している『森永ラムネ(大粒)』と『スポーツようかん(カカオ味)』が入っている。これが私の燃料であり、命綱だ。
「行ってきます」 「行ってらっしゃい。……夜、何か美味しいものでも作るから、ちゃんと帰ってきてね」
味覚が戻っていればいいな、と私は心の中で苦笑した。魔法の副作用による感覚遮断は、長ければ半日は続く。今日の夕飯が何であれ、私にとってはゴムの味しかしない可能性が高い。
玄関を出て、エレベーターホールへ向かう。まだ誰もいない共用廊下で、私はようやく脱力した。膝から崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて堪える。
「……運用コストが高すぎるんだよ、まったく」
私はポケットからスマートフォンを取り出した。愛用しているメモアプリ『Onyx』を起動する。黒背景に白文字のシンプルなUI。そこには、私がこれまでに発動した魔法のログが、日記代わりに記録されている。
【Log: 2025-11-21 07:15】 System: 局所時間逆行(Rollback) Target: 牛乳入りガラスコップ(質量約300g) Cost: 著しい低血糖、味覚・嗅覚消失(継続中) Status: 成功(Wife:未検知 / Daughter:回避) Note: 朝食時の使用は極力控えること。トーストが不味い。
入力しながら、私はラムネを三粒、一気に口に放り込んだ。ブドウ糖が唾液に溶け、脳に直接染み渡っていく感覚がある。チカチカしていた視界が少しずつクリアになっていく。私は、佐藤健一、三十五歳。メーカーの中間管理職にして、冴えない魔法使い。世界を救う予定はないが、今日の定時退社と家族の平穏を守るためには、全リソースを投入する覚悟だ。
エレベーターが到着した。鏡に映った自分の顔は、結衣の言った通り、見事な #ffffff(ホワイト)だった。私は頬をパンパンと叩き、少しでも血色を良く見せようと悪あがきをしてから、通勤ラッシュという名の次のダンジョンへと足を踏み出した。
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