第3話:レガシー環境の無茶振り(ハード・リクエスト)
IT業界には「レガシーシステム」という言葉がある。古すぎて仕様書も残っていない、誰も中身を理解していない、しかし停止すると業務が止まるため、騙し騙し使い続けるしかない巨大な負の遺産のことだ。
我がコクヨウ文具・知的財産部にも、そんなレガシーシステムが鎮座している。部長の権田剛(ごんだ つよし)、五十八歳だ。
「おーい、佐藤君! ちょっといいかね!」
フロアに響き渡る大声と共に、権田部長が私のデスクにやってきた。その手には、物理的な質量を感じさせる分厚いファイルと、USBメモリが握られている。私の脳内アラートが『Critical Error』の警告音を鳴らした。
「はい、何でしょう、部長」
私は引きつった笑顔で応対する。朝の低血糖はラムネのおかげで多少マシになったが、まだ手足の先が冷たい。
「いやあ、参ったよ。営業の連中がまた急ぎの案件を持ってきやがってな」
権田はそう言いながら、私のデスクにファイルを「ドスン」と落とした。その衝撃で、飲みかけのコーヒーが波打つ。
「ライバル社の『エナジー・ボールペン』って知ってるか? 握ると微弱電流が流れて眠気覚ましになるっていう、あのふざけた新商品だ」 「はあ、なんとなくは」 「あれがバカ売れしてるらしい。で、ウチも対抗馬を出すことになった。『覚醒(ウェイクアップ)・シャープペン』だ」
ネーミングセンスの是非は置いておこう。問題はその開発スケジュールだ。
「営業部長が『来月の見本市に出す』って息巻いててな。設計図はもう上がってきてるんだが……」 「……まさか、特許侵害(クリアランス)調査がまだ、とかですか?」 「その『まさか』だ!」
権田はガハハと豪快に笑った。笑い事ではない。新製品を出す前には、他社の特許を侵害していないか徹底的に調査する必要がある。もし見落として販売後に訴えられれば、数億円の損害賠償もあり得る。知財部としては最も神経を使う業務だ。
「で、これ」と権田はUSBを指差す。「関連しそうな特許公報、キーワード検索で引っかかったやつ全部入れといたから。ざっと三千件くらいかな?」
三千件。私はめまいを覚えた。熟練の知財部員でも、一件の内容を精査して「侵害の恐れなし」と判定するのに、最低でも三分はかかる。三千件×三分=九千分。つまり百五十時間。一人の人間が不眠不休でやっても一週間はかかる分量だ。
「期限は?」 「明日のお昼まで。明日の午後一で役員会議があるから、そこでゴーサイン出したいんだよ」
――バグだ。この世界には、物理法則を無視したバグが存在する。
「部長、それは物理的に不可能です」
横から冷ややかな声が飛んできた。部下の星野拓海だ。彼は最新のMacBookから顔も上げずに、淡々と言い放つ。
「三千件を二十四時間で処理する場合、一件あたり二十八秒で読む必要があります。トイレ休憩もなしで。これは労働基準法以前に、物理法則への挑戦ですよ。AIに読ませるにしても、今のウチの契約プランじゃトークン数が足りません」
正論だ。あまりに正しい令和の正論だ。しかし、昭和のレガシーシステムにTCP/IPプロトコルは通じない。
「星野君なぁ、君はすぐ計算するけど、仕事ってのは『気合』と『勘』なんだよ。佐藤君を見習いたまえ。彼は昔、五千件を三日で捌いたことがあるんだぞ」 「それは……」
私は言葉を詰まらせた。確かにやった。やったが、それは私が三日間で体重を五キロ落とし、白髪を十本増やし、魔法【並列思考処理】を乱用した結果だ。決して気合ではない。命の前借りだ。
「とにかく頼んだぞ、佐藤君! 君ならできる! 何かあったら責任は私が取るから!(※取らない)」
権田は私の肩をバンバンと叩き(HPが2減る)、嵐のように去っていった。残されたのは、絶望的なデータが入ったUSBと、呆れ顔の星野。そして、死んだ魚のような目の私。
「……係長、断ってくださいよ。あんなのパワハラです」 「断って済むならそうしてるさ。でも、やらなきゃウチの部署の予算が削られる。そうなれば、君の昇給もなくなるぞ」 「うっ……それは困りますけど。でも、どうするんですか? 手分けしても絶対終わりませんよ」
星野の言う通りだ。二人で徹夜しても終わらない。通常なら、「無理です」と突っぱねて納期を延ばしてもらう場面だ。だが、今の私には、どうしても今日中に帰らなければならない理由があった。
ポケットの中で、スマホが短く震える。雅子からのLINEだ。
『ごめん、トラブルで長引きそう。今日のお迎え、お願いできる?(土下座スタンプ)』
この瞬間、私のミッション・クリティカル(絶対防衛ライン)が確定した。保育園のお迎えは十八時まで。延長保育を使っても十九時がリミットだ。現在時刻は十四時。残り五時間で、三千件の特許調査を終わらせ、定時退社する。
常人なら諦めて、妻に「無理だ」と返信するか、実家の母を召喚するところだろう。しかし、実家は遠方。妻も限界まで働いている。私がやるしかない。ここ数日の魔法乱用で、私の身体はボロボロだ。これ以上使えば、今度こそ倒れるかもしれない。だが、娘が保育園で最後の一人になり、寂しそうに玄関を見つめる姿を想像した瞬間――私のリソース管理画面で、「安全性」よりも「優先度」のパラメーターが上書きされた。
「……星野君」 「はい?」 「君は、今日の分の仕事を片付けたら、定時で上がってくれ」
星野が目を見開く
「は? 何言ってるんですか。係長一人でやる気ですか? 死にますよ?」 「大丈夫だ。ちょっと……集中したいから、一人のほうが捗るんだ」 「いや、でも……」 「これは業務命令だ。それに、君には明日、この調査結果をまとめて報告資料を作る大仕事が待ってる。今日は英気を養ってくれ」
私は努めて明るく、上司らしく振る舞った。星野は納得いかない表情だったが、私の目が笑っていないことに気づいたのか、渋々頷いた。 「……わかりました。でも、倒れても知りませんよ。僕、労基署への通報準備しておきますからね」 「ありがとう。その時は頼むよ」
星野が自分の仕事に戻るのを確認し、私はUSBメモリをPCに差し込んだ。画面に表示される、三千個のPDFファイル。文字の羅列。図面の山。これらを普通に読んでいては、数年かかる。
私はデスクの一番下の引き出しを開けた。そこには、私の「魔導書」ならぬ、秘密の備蓄がある。『森永ラムネ(大粒タイプ)』の袋。そして、ドラッグストアで買った『ブドウ糖100%粉末』。私は迷わず、粉末の袋を開け、コーヒーにスプーン三杯分を投入した。飽和水溶液に近い、ドロドロの激甘コーヒーが出来上がる。
(……不味そう)
だが、これは燃料だ。これから発動するのは、朝の「コップ復元」や、通勤時の「摩擦操作」とは次元が違う。脳のクロック周波数を強制的に引き上げ、視覚情報と言語処理を直結させるClass A級魔法:【思考加速・概念検索(アクセラレーション・クエリ)】。脳細胞が焼き切れるほどの熱量を消費する、私の手持ちの中で最も危険な魔法だ。
私は周囲を見回した。星野はイヤホンをして作業に没頭している。他の課の人間も忙しそうだ。誰も私を見ていない。
私は激甘コーヒーを一気に流し込んだ。強烈な甘さが喉を焼き、胃に落ちると同時に、血管を通じて脳へと駆け上がっていく。血糖値が急上昇するスパイク現象。身体が熱くなる。心臓の鼓動が早鐘を打つ。
「……OS、ブーストモード待機」
小声で呟く。PC画面のスクロールバーに指を添える。準備は整った。さあ、実装(パーティー)の時間だ。定時まであと四時間。このクソみたいなレガシー案件を片付けて、私は笑顔で娘を迎えに行く。例えその代償で、鼻血を出して倒れようとも。
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