scene:002
夜空をヴェイルのように覆う煙を、街明かりがぼやりと照り返す。
星のない晩。宵を迎えた石の街を歩く人足は弾み、その口先から放たれる息は熱に白く濁る。明るい太陽の下で見ることのない欲と放蕩が、殻を破って顔を出し始める。
浮ついた街路を、エヴァンはポケットに両手を入れて進んだ。屋根瓦の黒影から遠く漏れる光と音楽を背にして辿る、通い慣れた道。
その先に、彼の目的があった。
石畳を冷やす一面の暗闇へ投げかけられる、蜜色のあたたかな光。
花屋と一体になった、いくらも客席のないカフェだった。誰もが大股で時を刻む街の忙しさから置き去りにされたような店で、週に三日しか開いていない。
定年後の趣味として店を構えた店主の他に、一人だけ店員がいるのを、エヴァンは知っている。
木製の小さな扉を開ければ、ふわりと身を包む瑞々しい花とコーヒーの香り。からころと転がる振鈴の音と共に、それは彼の耳を穏やかな波のように揺らす――
「いらっしゃいませ」、と。
花籠の向こう、彼女が振り返る。
夜の湖面のように澄んだ瞳に映る、柔らかな微笑。纏められた亜麻色の髪は灯の色を掬い、編み込みの上に優しい艶を纏っている。
「こんばんは」と、エヴァンは答える。なんでもないはずの挨拶なのに、冷気に乾いた喉から上手く声が出ないような気がしてしまう。外した帽子を、思わず胸の前で握った。
「掛けていらしてね。いつものブレンドでよろしいですか?」
そんな慣れた問いに彼が頷くと、女性は作りかけの花束を脇に置いた。カウンター奥に並べられたコーヒー豆の瓶に手を伸ばすしなやかな仕草は、店の静謐に柔らかさを加えるようだった。
エヴァンはコートを脱いだ。いつものカウンター席に座ると、そこから店の奥をちらりと覗いた。
「……店長さんは?」
くすり、と小さな笑みが返ってくる。
「また豆の買い付けに出かけていますよ。しばらくはカフェもお花も、わたし一人です」
ここの店主はよくコーヒー農園のある遠い南国まで自ら豆を選びに飛んでいってしまう人らしく、そんな時はこの女性店員が代わりに一人で店を切り盛りしているそうだ。
「それは、お忙しいでしょう」
エヴァンが少し気を使って尋ねると、女性店員は豆を挽きながら首を軽く横に振った。
「週に三日だけのお店ですし、お花のほうはほとんど注文品を作るだけですから」
そうして、豆をドリッパーに移す。手際良いその手つき。
ポットの先から湯が細く垂れて、あたたかい湯気が立ち昇る。狭い天井を漂い始めた香りが、店のそこかしこに飾られた花々を優しく撫でてゆく。
胸がほどけてゆくようだった。エヴァンは浅く頬杖をついて、彼女の指先を見つめていた。
花束を纏める指。陶器のカップに絡めた指。
いつも丁寧で穏やかなその動きは、時間をも引き延ばす。街の喧騒を遠ざけて、世界が小さく密になってゆく。
――どうして、こんなに目を奪われるのだろう。
まだ名前さえ知らないのに。
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