Ambrosia Dark Roast - 金曜夜の彼女
たろ@pofuinaa
scene:001
日避け越しに滲んでいた金光が、宵の帷に溶けていった。白衣に染みついた消毒液のにおいを嗅ぎ取りながら袖を抜いた途端、にわかに薄寒さを増す空気に肩先が震える。
蛍光灯の冷たい光の下、エヴァン・メリックは黙々と着替えを進めていた。
背後で金属の扉が音を立て、明るい声が昼と夜のあわいに沈む静寂を破る。
「エヴァン、お疲れ! 飲み行かん?」
振り返るまでもない。同僚のフェリクス・ハーパーにとって、溜まりきった週日の疲労さえ、夜の放埒を彩るネオンサインの一色くらいの認識であった。
ネクタイの結び目を整えながら、エヴァンは少し思索のふりをした。
「……やめとく」
「またかよ。金曜だぞ?」
短い革のジャケットに袖を通して軽口を叩いたフェリクスの肘が、エヴァンの腕をつつく。
「最近は夜カフェに凝ってるんだって?」
冗談めかしたその言葉に、エヴァンの瞼が一瞬だけ揺れた。
「……まぁ、静かだから。週終わりの気分転換にちょうど良くて」
詮索好きな友人の好奇心に火をつけるのを恐れて、エヴァンは短い言い訳に留めた。
嘘というわけではない。金曜の夕、一杯のコーヒーを飲むのが習慣になって、しばらくが経っていた。
合理と理性の戦場から解放された人々が踊るような足取りでキャバレーへ繰り出す頃合い、エヴァンはひとり、流行りもしないカフェを訪れる。
朝凪の水面のような彼の瞳がその静謐を失うのを、フェリクスは大学時代から見たことがなかった。にやりと口角を吊り上げて、エヴァンの耳へ顔を寄せる。
「……デート?」
耳元の温度に、エヴァンは一瞬だけ心臓が跳ねた。
「そんなんじゃない」
動揺を隠して、呆れ混じりに口を曲げて返す。否定の言葉は、本当は自分に対して言い聞かせているような、そんな感覚だった。
コーヒーが美味い――それは、間違いではない。
狭苦しい店内の隠れ家めいた雰囲気も、とても気に入っている。
けれど、――そればかりではない。そんな予感がする。
「ふーん? まぁ金曜じゃなくてもいいから、たまには飲み付き合えよ?」
肩をぽんと叩いて去ってゆくフェリクスを見送って、エヴァンは小さく溜め息をついた。
デートではない。確かに一人でコーヒーを飲みに行くだけなのだが。
言い訳じみたことを考えながら、エヴァンは厚いオーバーコートを羽織った。
ロッカーを閉じる。その表面が、蛍光灯の無機質な光を弾いた。
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