scene:003
――"カフェ・クロリス"。
初めてエヴァンがこの店を見つけたのも、金曜日の仕事帰りだった。
書店で注文していた書籍を受け取った帰り道にたまたま出会った、軒先の花の香り。窓越しに見る蜜色の店内は静けさの棲家のようで、コーヒーを飲みながら本を読むのにいいと思ったのだ。
その時、給仕してくれたのが彼女だった。空気を甘く揺らすそっとした声、コーヒーを差し出す優雅な所作。品のある、美しい女性だ。
他に客もおらず、カウンター席に座れば自然と彼女と話すことができる。けれど、軽妙な会話ができるわけではないエヴァンには、話題も仕事のことくらいしかなかった。
「お仕事はいかがでしたか?」
カウンターの向こうから差し出されたカップに指先を触れた。そこにまだ彼女の指のぬくもりが残っているかのようで、掌に少しだけ汗が滲む。
「少し行き詰まっているところもありますけど、概ね順調です。……新薬のための基礎研究をしていて」
果たしてこれが彼女にとって面白い話なのかわからないままに、促されて口を開いた。痛みを和らげる薬を開発していると彼が言うと、彼女は湯気の向こうで微笑んだ。
「あなたのお仕事は、人々の苦しみを癒すためにあるんですね。素晴らしいです」
――その時感じた気恥ずかしさを、胸に反芻する。彼女の淹れてくれるコーヒーのほうがよほど癒されるのに。
わかっている。彼女が話を尋ねてくるのは、個人的な興味からではない。接客であって、笑顔も承認の言葉も常連に対する心遣いである。
そう思うと、名前を訊く勇気は胸の奥から遠ざかる。
エヴァンはカップを唇へ運んだ。芳醇な苦味と共に、言葉を飲み込んで。
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