2章 もう一度

    六月二日(月)

 普段通りの時間にラウンジに入る。この時間帯は多くの学生が食堂で昼食を済ませているため、本校舎内のここはいくらか空いている。

 それでも女子の甲高い声や、通りすぎる金髪男子には萎縮させられる。

 奥の方まで歩き、隅の丸机に彼を見つけていくらか安堵する。

「席取ってくれてありがとう」

 彼がスマホから顔を上げる。

「おう、お疲れ」

 私は向かいの席に座る。ここは二人掛け席なのでちょうどいい。

「はあー。疲れた」

 大きくため息をつく。

「まだ月曜だぞ?」

 あきれた顔で見てくる。

「颯太はどうなの? もう大学慣れた?」

「ぼちぼちかな」

 そう言って一瞬目をそらす。嘘をついているとわかる。

 私は自分がにやにやしているのを自覚しながら言う。

「もう六月だけど、茶髪とコンタクトにした成果出てきた?」

「えっ」

 また目をそらした。マッシュヘアにしたことで目は多少隠れてはいるが、視線を追うのは簡単だ。

「服装も高校時代から一変させて迎えた大学生活。二カ月も経てば、男友達も女友達もたくさんいるんだろうね。ありがたいなー。いつも友達の誘いを断ってまで、私に会いに来てくれて」

 無論実際どうなのかは知らない。でもこの反応を見れば、それが的を得ていることが丸わかりだ。

「くっ…何人か友達がいるのは本当だからな」

「四月に言ってた人?」

「そう」

「新しい友達は?」

「イ、イツメンで仲良くやってるんだよ! ほら、友達は浅く広くよりも、深く狭くの方がいいって言うだろ?」

「ふーん」

 適当に相槌を打っておく。

「あ、馬鹿にしてるだろ! そう言うお前はどうなんだよ」

「え?」

「遥香は友達出来たのかよ」

「ん…」

 今度は私が目をそらす番だった。

「あれれ? 遥香さん?」

 颯太が前のめりになってくる。

「私は別に、そこまで友達増やしたいわけじゃないし」

 そっぽを向きながら言う。颯太が体を背もたれに戻したのがわかる。

「いいのかよ、それで」

 友達を作りたくないわけではない。ただ、私は人とコミュニケーションを取るのがあまり得意ではない。特に中高の、いわゆる陽キャが苦手だった。私はいつも自席で歴史の教科書を眺めたり、図書室で本を読んだりして過ごしていた。そのころ話していたのは颯太と、あとは数えるほどだった。

「いいんじゃない。颯太もいるし」

「俺がいなくなったらどうするんだよ」

 彼の顔が少し真剣になる。

「颯太はそんなすぐ陽キャたちに混ざったりできないって」

 笑顔で話すよう努める。

「それでも同じようなやつらと仲良くなるかも知れないだろ? …それに俺たちは、一応男女だし。お前も女子の友達、作っといた方がいいぞ?」

 男女、か。私は颯太のことをそういう目で見たことはない。というか、そういう目、がどんな目かすらわからない。ただ、もし颯太に彼女が出来たら、私とは疎遠になってしまうのだろうか。流石に一人は…少し寂しいかも知れない。

「遥香、サークルは?」

「何も」

朝、家の近くのコンビニで買ったパンを取り出しながら答える。

「高校まで帰宅部だったんだから、そろそろどっかに入ってみないか?」

「うーん、考えとく」

「それ絶対入らないやつじゃん」

本当は中二まで部活に入っていたが、詳細は彼にも話していない。

 颯太もおにぎりを取り出す。

「颯太は空手サークルで上手くやれてるの?」

 彼の手が止まる。

「あー。あれね」

「どうしたの」

「体験行っただけで結局入らなかった」

 私の口にパンを運ぶ手も止まる。

「なんで?」

「いや、やっぱりノリが合わなくて。高校の頃ほど真面目な感じじゃない」

「そう…」

 パンを一口かじる。颯太もおにぎりを一口。

「でも流石にビビりすぎじゃない? それじゃ友達できないよ?」

「お前にだけは言われたくないな」

 視線を落とす。パンを食べる。

 もぐもぐ。

 今のところ颯太以外と会話したのは、英語の自己紹介のときぐらいか。

 同じ授業にいる女子たちは、今は複数のグループに分かれて着席している。授業が終わったら一緒に喋ったり、お昼を食べたり、どこかに行ったりしているのだろう。私は授業が終わると真っ先に教室を出てしまうので、実際のところはよく知らない。

なんてことはない。中学の頃から変わらない。

「もう六月か…」

 なんとなくつぶやく。

「早いな…。俺たちの大学生活もあと少しか」

「うん…って、それは流石に早すぎるでしょ。まだ一年生だよ?」

 顔を上げてツッコむ。彼が小さく笑う。

「そうだな。…でも大学卒業したら、いよいよ青春が終わっちゃうな」

「青春って高校生までじゃないの?」

 颯太が一つ目のおにぎりを食べ終わり、次のおにぎりを手に取る。

「その人の解釈によるんだよ。俺は大学まで青春だと思ってる。…青春ぽいことまだしてないし」

 颯太が最後に小声でつぶやいた言葉を聞き逃さない。

「へー、そんなこと言って四年後、『就職してからが青春だ』とか言ってそう」

「…そうかもな」

 颯太が苦笑いしながら大きな一口でおにぎりを食べる。

 もぐもぐ。

 青春、か。

ふと彼女のことを思い出す。西日の差し込む教室で、『青春はあっという間だよ!』そう言われたのを思い出す。今、どこで何をしているのだろうか。

 もぐ。

 パンを食べ終わる。

「次の授業で、隣の席の人に話しかけてみようかな」

「え?」

 颯太が顔を上げる。

「急にどうしたし」

「いや、なんとなく」

 実際のところ、四年間話し相手が颯太だけなのは無理があるだろう。

「でも、いきなり授業で隣の人に話しかけるのはハードル高くないか?」

「んん…じゃあどうやったら人と話せるんだろ。サークルの新歓はとっくに終わってるし…」

 机を見つめる。

「ごめん。余計なこと言ったか。とりあえず、やる気があるなら頑張ってみな」

 颯太が熱のこもった目で見つめてくる。

「うん」

 私も顔を上げる。

 よし。じゃあ今日の目標は、授業で隣の人に話しかける、だ。



 私は大教室の隅の席で、一人ノートに先生が話したことをメモしている。

「…織田信長は尾張国に生まれ、天下を統一しようとした武将であることは、みなさんも知っているかと思いますが…」

 初めは失敗したと思った。二人掛けの席の隣に、誰も座ってこなかったからだ。最後尾なら誰かしら座ってくると思ったのに。それとも私が負のオーラを放ちすぎているのか?

 だが授業が始まって気づく。みんな隣の人とコソコソ話をしている。きっと友達と隣同士で座っているのだろう。中には前後でチラチラと顔を合わせている人もいる。そういえば、自分が普段前の方で授業を受けているのは、元々こういう人たちを目に入れるのが嫌だったからだと思い出す。

「はあ」

 思わずため息が出た。なら一人で座っている人に、『隣、座ってもいいですか』とでも言って話すきっかけにすればいいのか。そんなことを私ができるはずもない。知らない人と目を合わせるだけで緊張してしまうのだ。

 今一度視線を上げる。少し前に座っている人たちを見渡す。金髪女子やセンター分け男子が目につく。そう、そんなことができるのは、陽キャしかいないのだ。

「すみません。隣いいですか?」

 はっと我に返る。横を向くと男子と目が合った。

「あ、ど、どうぞ」

「ありがとう」

 と、隣来たー‼

 突然の出来事すぎて驚いたが、一旦深呼吸をしてみる。

 すぅー。はぁー。

 少し落ち着きを取り戻してから、隣をチラ見する。

 リュックから筆箱を出して机の上に置いている。

 男子か…話しかけづらい…どうしよう…。

「今来た人―。前にレジュメあるから取りに来て」

「はい」

 先生に呼ばれて男子が席を立つ。

 こちらに戻ってくるのに合わせて、また顔をチラっと見る。

 比較的短髪の黒髪で、前髪は上げている。ああいうのをアップバングというのだろうか。ワンポイントの入った白Tを着ている。多少陽キャ味を感じる。いや、私の隣に座ってきた時点で十分に陽キャだ。

 再び隣に男子が戻り、私はわずかに腰を浮かせ、気持ち壁寄りに座り直す。何やってる、こんなんじゃダメだ。

 だがどうやって話しかけよう? 授業終わりに『今日の授業おもしろかったですね』とでも話しかける? いや、意味わかんないでしょ。

 私は机を睨みながら考える。やはり颯太が言ったように、授業で隣になった見知らぬ人に話しかけるなんて無茶だった。そもそも私はなんでこんなことをしているんだ? 別に一人でも授業は受けられるじゃないか。

「すみません。あの、」

「えっ」

 唐突に話しかけられ思考が止まる。

「今日、ここまでの内容でメモしたことがあったら見せてもらえませんか?」

「え、え、」

 彼の視線が私のノートに向いている。

「あ、ど、どうぞ」

 私はノートを彼に差し出す。すかさずスマホで写真を撮って返してきた。

「ありがとうございます」

 無言でノートを受け取る。ここ二、三分の分は白紙のままだ。

 心臓がドクドクと鳴っている。

 そ、そっちから話しかけてきた! し、しかも急に何⁉ ノート見せてくださいとか、友達同士でやることじゃない? え? 私たち初対面だよね? 陽キャは初対面の人にもそんなこと頼めるの?

 頭の中がいっぱいになりそうになる。まずい。もう一度、深呼吸。

 すぅー。はぁー。

 少し冷静になって考える。

 でもそんなに気さくなら、私が変なこと言っても気にしないんじゃない? 逆に話しかけやすいのでは? 一瞬そう思う。

 だがすぐに、悪い記憶が頭をよぎる。放課後の、音楽室。不愛想な顔がいくつも通りすぎる…。

 慌てて小さく頭を振り、顔を上げる。ここには色々な人がいる。でも、あいつらはいない。もう一度呼吸を整える。

 授業に意識を戻す。腕時計を見ると、もう終わりが近い。いつの間にかこんなに時間が経っていた。授業終わりに話しかけるか、話しかけないか、決めなければならない。

 躊躇はある。でも男子だし。女子に話しかけるのとは違うかも知しれない。大丈夫。さっきも颯太と話していた。颯太だと思えばどうってことない。頑張れ私!

「…じゃあ今日の授業はここまで。出席はウェブ上で出しておいてください」

 どっと教室内が騒がしくなる。

 彼はレジュメを二つ折りにしている。

「あ、あの!」

「ん?」

 思わず目をそらしてしまう。早く次の言葉を繋がなければ!

「えっ、と…学部どこですか?」

 なんとかそれっぽい言葉を絞り出す。

「え? 文学部ですけど…てかこの授業、文学部の人しか取れないんじゃないかな?」

「え、あ、そうでしたね…」

 おかしなことを訊いてしまった! 顔が紅潮してきたのがバレないよう、無意識に髪で頬を隠す。

「日本史学専攻ですか?」

 今度は彼の方から質問してきた。

「そ、そうです」

 どうやら、まだ変には思われていないようだ。

「うーんと、じゃあ突然だけど、神社やお寺に興味あったりしないかな?」

「え…?」

 突然の話題転換に思考が追い付かない。神社? お寺? ああ、歴史の教科書や資料集にたくさん写真が載ってるあれか。

「…んと、歴史の教科書とかで見て綺麗だなとか、行ってみたいなとは思ってました」

「おお! じゃあ、うちのサークルに入ってみない? いろんな神社仏閣に行けるよ」

「ええっ」

 さ、サークルの勧誘? 確かにどこかしらに入ってもいいとは思っていたが。

でもこんな見ず知らずの人のサークルに行くのも怖い。サークルの中には『飲みサー』と呼ばれる危険なサークルなども存在すると、前に颯太が教えてくれた。

「活動内容って、新歓の時のパンフレットとかに書いてあったりしますか?」

「あー、うち公認サークルじゃないから、まだ表立った勧誘はできないんだよね」

「えっ」

 思わず顔を上げる。非公認サークルはやばいって颯太が言っていた。彼からは怪しい雰囲気は感じないが、勧誘担当ゆえそうなのかもしれない。

「あれ、」

「い、いえ、そういうのはいいので!」

 慌てて荷物をまとめ立ち上がる。とんでもない人に声をかけてしまった!

「あ、あのさ!」

 後ろから男の呼び止める声がする。

「なんか勘違いしてない⁉」

 思わず足が止まる。

 目の前の金髪男子が振り返ってこちらを見ている。その横のセンター分けもそうだ。周りを見ると、教室を後にしようとする多くの人の視線が自分に注がれていた。ドキンと心臓が跳ね上がる。視線を浴びないのには慣れたが、視線を浴びすぎるのも…。

「ごめん」

 横を見ると男と目があった。慌てて顔をそらす。周りの人はもう何事もなかったように歩き始めている。

「ごめんね。突然サークルに入らないか、って言われたら驚くよね。申し訳ない」

「あ…」

 頭の回転が遅い。深呼吸する。

 すぅー。はぁー。

 と、はっとして男の顔を見る。だが、怪訝そうな顔は浮かんでいなかった。

「落ち着いた?」

「あ、はい。すみません…」

 気まずさにまたすぐ目をそらす。

「俺たち神社仏閣サークルは、いろんなとこの神社とお寺を巡って日本の伝統を味わってるんだ」

 勝手に喋り始めた。

ちらりと彼の目を見る。

人を陥れようとしている人間の目ではない。なんとなくだが、そう感じる。

「でもこのサークル、実は今年作ったばっかで、まだ全然会員いないんだよね。だからもしよかったら、見学だけでも来てくれないかな」

 出来立てのサークルなのか。となると、結局新歓のときのパンフレットには勧誘を載せられない。というか、あれ?

「…一年生ですか?」

「そうだよ」

「え」

 驚く。この授業は一年生の必修科目なので、彼は去年落単した二年生かと思ったが、まさか同学年とは。その行動力に唖然とする。

「陽キャだ…」

「え?」

 彼は今度こそ怪訝そうな顔になる。まずい。心の中の言葉が口に出てしまった。

「あ、いや、なんでもないです。い、行きます。活動」

「え」

 話を逸らそうとして余計なことを言ってしまった。慌てて顔を上げる。

「ほんと⁉ めっちゃ嬉しい! それなら今日の五限の時間の活動に来てよ! 別棟の五〇五でやってるからさっ!」

 ぱあっと明るくなった目に見つめられる。『今のは冗談です』とはとても言えない…。

「わ、わかりました…」

 言いながら俯く。

「あ、そういえばまだ名前言ってなかったね。俺は立花蓮。あなたは?」

「な、夏樹遥香です…」

 個人情報を教えてしまった…もう後には退けない。

「夏樹さんか。じゃあ今日待ってるね。長く引き止めちゃってごめん」

 そういうと立花さんリュックにレジュメをしまい、肩に掛ける。

「じゃあ」

 棒立ちする私を横目に、彼はさっさと教室を出ていった。

 私ははっとしてポケットからスマホを取り出す。とんでもないことになっていしまった。颯太に電話をかけようとスマホを開いて驚く。四限開始まであと二分しかない。慌ててレジュメとノートをしまい、駆け出す。



 先生の雑談により授業が長引いてしまった。内容はまあまあ面白いのだが、それで授業時間が伸びてしまうのはやめてほしい。

 そんなことを考えながら早々に教室を出て、颯太にライン電話をかける。数コール後に聞きなれた声が出た。

「ん。どうした?」

「このあと時間ある?」

「え、今日授業早めに終わって、今家着いたとこなんだけど」

颯太の声が濁る。

「ほんと? うーん」

 困った。一人でサークル見学に行くのは怖いので、颯太にもついて来てもらおうと思っていたのだ。

「なんかあった?」

 心配そうな声が聞こえる。

「三限で隣の人に話しかけてみたんだけどさ、」

「おお! やるじゃん!」

 颯太の大きな声に思わず耳からスマホを離す。

「いや、それはいいんだけどさ…」

「うん?」

「その人にサークル勧誘されてさ…。今日見学しに行くって言っちゃったんだよね」

「え、マジか…」

 互いに沈黙する。

「どうしよう…」

「どんなサークルかわかんないなら、行かなくていいんじゃない?」

「そうだよね…」

 胸にチクリと痛みが走る。立花さんを裏切ってしまっていいのだろうか。彼自身が悪い人だとは思わない。

「ありがとう。考えてみる」

 颯太にお礼を言う。

「うん。あんまり力になれなくてごめん」

「うん。じゃあ」

 私は電話を切ってスマホをしまい、そばの壁にもたれかかる。ぼんやりと天井を仰ぎ見る。

『今やらなきゃ! チャンスは二度とやってこないよ?』

まただ。頭の中に彼女の言葉が反響する。でもこれは、私への警鐘でもある。

踵を返して歩き始める。帰ろう。

 だが、すぐに立花さんの屈託のない笑顔を思い出し立ち止まる。興味がないのなら、それを伝えに行くぐらいはすべきだろう。

 もう一度振り返って歩き始める。どうしてこんなことを思ってしまったのだろう。もしかしたら、謝りに行くという口実でサークルを見に行きたいのかもしれない。彼女のまぶしかった笑顔が頭をよぎる。もう一度、そう思ってしまう私は、愚かなのだろうか。



 教室のドアの前で、私は立ち往生していた。壁についているプレートには『五〇五』と書いてある。

 本当に来ちゃった…。だ、大丈夫だよね。ドアを開けたら金髪の男たちがたむろしてたりしないよね…。

 ドアノブに手をかけ回してドアを開ける。そんな簡単なことが、教室の前に来て五分ほど経った今になってもできない。ああ、誰か助けて…。

「…ちょっと飲み物買ってくるねー」

 教室の中から高めの声が聞こえた。と、突然ドアが開く!

「あっ」

 女子が出てきた。目が合う。

「ん? どちら様?」

「あ…えと」

 目をそらす。言葉が出てこない。

「あ、夏樹さん!」

 奥から男性の声がした。目を向けると、立花さんが椅子から立ち上がるのが見えた。

「あー、見学の子か!」

「は、はい」

 恐る恐る女子の顔を見ると、嬉しそうに笑顔を浮かべていた。自然と緊張がほぐれる気がする。

「どうぞ入って!」

「お、お邪魔します…」

 女子に促されるまま教室に入る。

立花さんが近づいてくる。その奥には乱雑に本や紙が置いてある机があった。

「ようこそ! 神社仏閣サークルへ」

 立花さんも楽しそうに話し始める。全然帰りますと言える雰囲気ではない。

「ついに来たか。迷える少女よ」

 突然低い声がし、驚いて教室の奥に目をやる。今まで気づかなかったが、教室の隅にもう一人男子がいた。

「よくわかんないこと言って驚かせるなよ。俺が無理言って来てくれたんだからな」

 立花さんが奥で本を読んでいる男子に注意し、こちらへ向き直る。

「まあ今のは気にしないで。あいつは山上聖司、でこっちは、」

「花園結衣! 結衣って呼んでね! よろしく!」

「あっ、はい…」

 結衣さんは声が大きく、少し俯いても目が合ってしまうので落ち着かない。私よりも少し小柄なのか。

「な、夏樹遥香です。よろしくお願いします…」

 知らない人ばかりで緊張してしまう。

「まだ入部するって決まったわけじゃないし、そんな堅苦しくしなくていいよ」

「はい…」

 言葉はともかく、体が固くなってしまうのはどうにもならない。

「ん…」

 立花さんが机へ戻り、何かを手に戻ってくる。

「とりあえず、これ見てみて」

 顔を上げると、目の前に一枚の写真があった。

 大きな建物が写っている。一目でそれが何かわかる。

「お寺…ですか?」

 写真を見つめたまま答える。よく撮れた一枚だ。

「そう。前回三人で行った増龍寺の写真だよ」

「立派な建物ですね」

「これは金堂の写真だね」

「なるほど」

 受験勉強のときに目にした覚えがある。薬師寺金堂などだ。

「今日はその振り返りをしているんだ」

「とか言って、来てから英語の課題をやってただけじゃ、」

「余計なことは言わなくていい」

 結衣さんの声を聞いてはっとする。今一瞬、緊張がほぐれていたような気がする。

 立花さんの方を見る。結衣さんの方を見て口を尖らせている。対する結衣さんはいたずらっぽく笑う。

 目を戻すと立花さんが向き直っていた。

「こっちに神社とかお寺の本がたくさんあるから、気になるもの見てみて」

 そう言って他にも様々な本や史料らしきものが広がった机を指さす。

「あ、荷物は好きな所に置いちゃっていいよ」

 私はとりあえず、近くの机にリュックを下ろす。

「花園、本の解説頼めるか?」

「えー? 何で私? 蓮がやりなよ」

 立花さんが結衣さんに近づく。

「女子の方が落ち着くだろ?」

「んー、いいけど、私あんま内容わかんないよ?」

「なんとか頼むわ」

「しょうがないなあ」

「ありがとう。助かる」

 結衣さんが私の方へ向き直る。

 どうしよう。私的にも結衣さんよりは立花さんの方が話しやすいと思う…。

「どうしたの?」

 結衣さんが私の顔を覗き込んでくる。

「あ、いや…」

 慌てて目をそらす。

「じゃあ本の紹介をしていくね」

 小さく深呼吸をし、机の上に目をやる。

結衣さんが一冊を手に取る。表紙には『神道』と書いてある。

「この本には神道のこととか神社のこととかの基本的な内容が載ってた…はず。入門編って感じだね」

 結衣さんが中をパラパラめくって見ている。長い黒髪のためか、黙っていると物静かで落ち着いた女性に思える。

 と、目だけこちらに向けてきた。。

「遥香も読む?」

「あ、はい」

 本を受け取り数ページ眺める。神社内の建物の名称が書かれているページだった。

 それにしても、出会ってすぐ名前呼びとは…陽キャ感がにじみ出ている…。

「…んと」

 顔を上げると、結衣さんが別の本を持って立っていた。

「あ、ごめんなさい」

 慌てて本を閉じる。他の本のことを考えず、物思いに耽ってしまっていた。

「いや、読みたいなら読んでてもらっていいんだけど」

 結衣さんの本と自分の本を見比べる。気まずい空気が肌をチクリと刺す。

「えっ…と、説明を続けて頂いて大丈夫です」

「わかった。えーと、この本は仏教の基本情報集で…」

 それから少しの間、結衣さんの説明が続いた。私は都度小さな相槌を打って反応するので精一杯だった。

「蓮。私飲み物買って来たいからちょっと代わってくんない?」

 五冊目の説明が終わったタイミングで結衣さんが言った。座って作業をしている立花さんのパソコンを覗く。

「…ガッツリ課題の続きやってるじゃん」

「え、ごめんごめん。明日までなんだよ。…代わるよ」

 立花さんが今気づいた、という様子で慌てて立ち上がる。

「ずっとそのまま教えといて」

 結衣さんがドアへ向かっていく。

「戻ってこいよ?」

「はーい」

 笑みのこもった声が返ってくる。そのまま教室を出て行った。

 私はふーっと一息つく。

「たく…。どこまで終わった?」

 立花さんが前にくる。結衣さんが紹介し終わった本の山に目をやる。

「ん? ああ、これだけやったのか」

 思わず立花さんの方を見る。彼も私に目を戻した。

「ちょっと疲れない? 別の話でもしよ」

 そう言って椅子に座った。私も近くに座る。

「夏樹さんは、ここ以外にどこかサークル入ってるの?」

「いえ…もともと入ろうとしてなかったので…」

 目の前の本の山を見ながら答える。

「そう…」

 一瞬の沈黙が訪れる。こういう間は気まずいから嫌だ。

「じゃあ、今日は俺が無理やり連れてきたことになっちゃうのか」

「え、いや、そういうわけじゃないです…私は来ないという選択もできたので…」

 一度は帰ろうとした自分がチラつく。余計なことを思い出すな。

「確かにね。…じゃあ夏樹さんは俺のめちゃくちゃな説明で興味を持ってくれたわけか。嬉しいな」

「はい…」

 本当は勢いで行く、と言ってしまっただけなのだが。

「あとは…六月になって、授業だけじゃ大学つまんなくなってきたとか?」

「ああ、確かに」

 それは…あるかもしれない。私は当然バイトもできていないので、授業以外の時間はずっと家で無意味に過ごしている。

「…サークル入んないと、あんま交友関係も広がらないもんな」

「ん…そうですよね…」

 図星を突かれて口ごもる。また沈黙が訪れる。私から話題を振るべきなのかも知れないが…。

「俺もここしか入ってない」

「え、そうなんですか?」

 思わず立花さんの方を見る。軽めの運動サークルあたりに入っているかと思っていた。

「大人数のサークルは落ち着かなくてさ」

 窓の方を見つめながら言う。

「わかります」

 自然と本音が出ていた。

「実は俺、高校時代帰宅部だったのよ」

 うっすら笑みを浮かべながら。

「…私もです」

「でも、ついに大学生、何かしたいと思ってこのサークルを立ち上げたんだよね」

 彼の横顔が一瞬輝いて見えた。

「すごい行動力ですね」

 私にはとてもできない。

「いやいや、俺一人じゃできなかったよ。これは花園の後押しが大きかった」

「というと?」

 陽キャパワーだろうか。

「あいつとは高校から一緒でさ。俺の数少ない友達の一人だよ。一緒にここに合格した時『サークル作りたい』って言ったら、すぐに乗ってくれて色々手続きとかやってくれたんだ。ほんとにいいやつだよ」

「そうなんですか」

 先ほどの結衣さんのことを思い出す。押しは強そうだが、丁寧に本の説明をしてくれた。私が思っているほど怖がる必要はないのかも知れない。

「ちなみに聖司はたまたま授業で隣同士になって、神社の話をしたら意気投合したんだよね」

 山上さんのことを思い出して部屋の隅に目をやる。一瞬立花さんの方を見たようだが、すぐまた本に目を落とした。

「てか、夏樹さんも同じか」

「そうですね」

 失礼ながら静かすぎて存在を忘れかけていたが、そんな山上さんにもシンパシーを覚える。

と、突然ドアの開く音がした。

「ただいまー」

「あ、お帰り」

 振り向くと、結衣さんがコーラのペットボトルを片手に戻ってきていた。

「あれ? 本の紹介してなくない?」

 立花さんの手に何もないのを見て尋ねる。

「このサークルの歴史を話してたんだよ」

「歴史って…まだできたばっかじゃん」

「まあね」

 立花さんが苦笑する。

結衣さんがコーラを一飲みする。

「ぷはぁ…。ね、この後次行く神社決めない?」

「いいよ」

 どうやら私への案内以外にも、活動することがあるようだ。

「夏樹さんはまだ本の紹介とか聞きたい?」

 立花さんがこちらに目を向ける。

…正直、かなり疲れた。

「えっと…今日はそろそろ帰ります。立花さん、結衣さん、ありがとうございました」

 立って頭を下げる。

「わかった」

「遥香なんか硬くない? 私たち同じ一年だし、タメ口でいいよ」

「はい…」

 俯いたまま返答する。

「俺も立花さんだと逆に緊張するし、蓮とか、立花とかでいいよ」

「言いづらいなら立花くんとかでいいんじゃない? あ、私は女子だし呼び捨てでいいよー」

 結衣さんが隣に立つと、途端に立花くんも輝きが増す気がする。いや、私の暗さが引き立っているのだろうか。

「わかりました…」

立花さんとは仲良くなれるかも知れない。でも、一人では居づらい。

「あの、次回、私の友達を連れて来てもいいですか…?」

「え」

 二人が少し驚いた反応をする。

「おお、いいよ。歓迎する」

 立花くんが笑顔で言う。

「ありがとうございます」

 もう一度礼をする。

「次回は木曜だからね」

「はい。じゃあ…失礼します」

 二人に背を向ける。

「またね」

「じゃあね!」

 少し振り向く。奥で山上くんも小さく手を振っていた。

 教室を出て、扉を閉める。

「ふぅ…」

 私は肩を落とす。全身に変に力が入ってしまっていたようだ。

 少し休んでから歩き始める。

 断りを入れるために来たはずだったが、しっかり見学してしまった。二人の勢いに押されたのもあるが、やはり私自身にも聞く意思があったようだ。

 結衣さんは少し関わりづらいが、どちらもいい人ではあると思う。山上さんのような物静かな人でもいれるようだし、次回颯太も連れて、もう一度来てみよう。



    六月三日(火)

「そういうわけなんだけど、神社仏閣サークル、一緒に行ってみない?」

 いつものようにラウンジの隅の席で、颯太と向き合う。

「うーん。神社とかにはそんな興味ないんだけどなあ」

 颯太が唸る。

「えー? 受験の時は日本史選択だったでしょ? 大丈夫だって」

「怖そうな人いなかった?」

 心配そうに訊いてくる。

「だからいなかったって。みんな真面目そうな人ではあった。てか怖い人いたら、私が逃げ出してるよ」

「逃げ出すのにも勇気はいるけどな」

 颯太にぼやかれて苦笑する。。

「もう…そんなネガティブ思考だと、せっかくのチャンスを無駄にしちゃうよ? …青春、したいんでしょ?」

 最後は少し笑みを含ませながら言う。

「それはそうだけど…」

「それに、部長の立花くんも高校時代はあんまり充実してなかったって言ってたよ」

「立花…?」

 颯太が顔を上げる。

「そう。大学生活充実させるためにサークル立ち上げたんだって。颯太も一歩踏み出さないと」

 彼の表情は相変わらず晴れない。

「そうか…。遥香にそんなこと言われるのも、変な感じだな」

「え? あ、確かに」

 口元がほころぶ。

「遥香は昨日、頑張ったんだもんな」

 颯太もつられて笑顔になる。

「うん」

「じゃあ俺も頑張るか」

「お」

 颯太が一息つく。

「木曜の五限の時間ね?」

「そう」



    六月五日(木)

 扉の前にやってきた。今度は勇気を出して、自分でドアノブを回す。

「こ、こんにちは」

「あ、遥香! また来てくれたんだ!」

 結衣さんが笑顔で近づいてくる。

「どうも…」

「お、友達くんも連れて来てくれたのか」

 立花くんもやってくる。

「こんにちはー」

 結衣さんが颯太に声をかける。颯太は緊張からか黙ったままだ。

「名前!」

 囁きながら小突く。

「あ…えと、西川颯太…です」

 軽くお辞儀する。

「私、花園結衣です! 呼び捨てでいいよ!」

「山上聖司です」

 前回とは異なり、今日は山上くんも横に立っていた。

「えっと、西川くんのためにもう一度言っておくと、俺がサークル長の立花蓮です。よろしく」

 立花くんがお辞儀する。私も反射的にお辞儀し返す。

「えっと、じゃあ…」

 立花さんの目が一瞬泳ぐ。

「ここ『神社仏閣サークル』では、神社やお寺の由来やご利益について調べたり、実際にその場に行ったりしてます」

 代わって結衣さんが話し始めた。

「今日は二人、特に西川くんに活動内容の紹介をするよー」

 颯太も黙って話に耳を傾けている。

    ~

 それからは、颯太は山上くんや結衣さんから本の紹介を受け、私は気になる本に目を通していた。

今は神社のフォトブックを見ている。

「その本いいよね」

「あ、はい」

 横目で見ると立花くんがいた。

「俺は将賀大社が好きだな」

「え、私もです」

 思わず彼を見る。

将賀大社のページを開く。荘厳な社が構えている。鮮やかな朱色が眩しい。

「昔親に連れて行ってもらったんだ。本物はこれよりもずっと綺麗で、圧倒されてさ。神社やお寺の景観に興味を持ち始めたのも、この時からなんだ」

「そうなんですか」

 確かに綺麗な神社だ…。

「いつかこのサークルで行ってみたいと思ってる。合宿みたいな?」

「合宿…」

 家族以外と旅行に行ったのは中高の修学旅行ぐらいだ。その時のグループ行動でも、他のメンバーがまとまっている中、一人か、颯太と一緒かで行動していた…。

「あんまり興味ないか」

 私の浮かない顔を見て取ったのか、立花くんが言ってきた。

「あ、いや、あまり旅行とか行かないので…」

「そっか。ま、やるってなったらそのとき考えてくれればいいよ」

「はい」

写真に目を戻す。数ページめくる。

「…じゃあ次は、次回行く神社を決めるぞ」

山上くんの声が聞こえる。

「はい! 私、明正八幡宮に行きたい!」

結衣さんの元気な声も聞こえる。

「聞いたことあるな」

立花くんが離れていく。

「ここ!」

「おお、近いな」

「でしょー?」

 本から少し視線を上げる。結衣さんが地図を指さしている。

「明正八幡宮は安産祈願や子育てへの信仰が篤く、縁結びの神社としてもしられているんだ」

「なるほど」

 山上くんが補足している。颯太に目を向けると、山上くんと結衣さんに挟まれ、居心地悪そうにしていた。

「いいんじゃない?」

「やった!」

 立花くんの賛同を得て、結衣さんが嬉しそうに声を上げる。

 と、立花くんがこっちに目を向ける。慌てて本に目を落とす。

「夏樹さんも来て。次回の活動の話をするよ」

 何事もなかったかのように本を置き、四人のもとへ向かう。

「次回はこの明正八幡宮に行きます」

 今度は立花くんが地図を指さす。

「ということで、今から明正八幡宮の事前調査を始めます」

「うむ」

 山上くんが頷く。

「今日は俺と花園がここに残って、聖司に図書館行ってきてもらおうかな」

「わかった」

「ここは私たちに任せて!」

 どうやら神社仏閣サークルらしい活動が始まるようだ。

 早速山上くんが部屋を出て行く。立花くんと結衣さんは机の上の本を見ている。

 と、颯太が近づいてくる。

「二人にめちゃめちゃ話されて頭パンクしそうなんだが」

「ほんと?」

 立花くんの背中を見ながら答える。

「特に山上がやばい。知識の津波って感じ。神社とか寺の歴史をずっと話してきた」

「そうなんだ…やっぱここはキツい?」

 颯太の方を見る。立花くんと結衣さんの会話だけが聞こえる。

「…遥香は、どうしたい?」

 自分に返ってくるとは思わず言葉に詰まる。

「えっ…と」

 下を向いて考える。神社やお寺に多少興味は湧いてきた。立花くんとも気が合いそうだ…。

「しばらくいようかな…」

 そうつぶやく。

「…じゃあ、俺も」

 颯太の方を向く。颯太もこちらを見てほほ笑んだ。

    ~

「ということで、今日の活動はこれくらいかな」

 あれから立花くんや結衣さんが見せてくれた史料、山上くんが探してきてくれた本を読んで、明正八幡宮の由緒などを知りながら時間を過ごした。

「二人ともどうだった?」

 立花くんが私たちに目を向けた。

「えと、八幡宮の歴史について知れてよかったです。私も明正八幡宮に行ってみたいです」

 立花くんが頷いて、視線を少し横にずらす。

「俺も…行こうと思います」

 颯太も頷いたようだ。

「二人ともまだ緊張してる? もう神社仏閣サークルの一員なんだから、リラックスしていいんだよ?」

 結衣さんが私たちの顔を見て言う。

「まあまあ、ゆっくり打ち解けていけばいいでしょ」

 立花くんが優しく言い添える。

「じゃあ終わりにしようか」

「待って! 遥香、ライン交換しよ?」

 結衣さんがスマホのQRコード画面を見せてくる。

「あ…い、いいですよ…」

 少し抵抗はあるものの、同じサークルメンバーなので交換しないわけにもいかないだろう。

「俺とも交換してくれ。で、サークルのグループラインにも入れるよ」

立花くんが颯太と交換してから私のもとへもくる。

 昔は仲良くなりたい人とラインを交換するだけでも一苦労だったのに、今では機械的に交換するようになったのか。

「じゃあ帰るか」

「はーい」

 荷物をまとめる。

 ふと山上くんが本を片付けているのに気づいた。量が多く大変そうだ。

 一瞬手助けしようかと思ったが、一足先に立花くんが近づいた。

「なんだか大所帯になってきたな」

「五人だろ? 問題ないよ」

 話しながら二人で片付けている。

「遥香って帰りどっち?」

 突然結衣さんが話しかけてきた。

「あ、ぬ、布平の方です」

「あー、逆だ」

 残念そうな顔をする。

「行こう」

 颯太に声をかけられ、一緒に教室を出る。



    六月九日(月)

 私たちは予定通り明正八幡宮を訪れていた。

手水舎で手を洗い、参拝を済ませる。

「よし。やることはやったな」

 本殿の石段を下り切ったところで立花くんが言った。

「蓮! 行きたいとこあるからきて!」

 結衣さんに先導されついて行くと、大きめの建物があった。

「明正八幡宮の博物館か」

 山上くんが言う。

「そう」

「広い神社だとは思ったけど、博物館までついてるのか」

 立花くんが外観を見ながら驚く。

「中入ろ!」

 内部はそれほど広くはなかった。一神社の施設なのでそんなものなのだろう。

 結衣さんは自慢げに、展示してある資料や物品の紹介をしていた。一応私や颯太に向けたものでもあるようだが、結衣さんは立花くんの方を見て話すばかりだった。

 私はいつしか少し離れて、展示品の横にある解説文を読んでいた。

「殊勝だな」

 驚いて横を見ると、山上くんがいた。

「あ、ごめんなさい。あまり話聞いてなくて」

「いや、構わないよ。花園さんは満足しているようだし」

「え?」

 山上くん越しに結衣さんを見る。立花くんと颯太に楽しそうに説明している。

「神物の由緒をしっかり知ることも重要だ。そのものの一端だけを知って向き合うことは、逆に不敬になる」

 ショーケースに入った古い資料を見ながら言う。

「そうなんですか…」

「とはいえ、すべての事柄が完全な状態で伝わっているわけではない。だから、それを知ろうとすることが肝心なんだ」

「ん…」

 彼の言った意味を理解するのに、少し時間がかかる。

「…つまり、それが考古学や歴史学にも繋がっているってことなんですね」

 なんとか考えをひねり出す。

「…そうだな」

 言い終えると、山上くんはみんなのいる方へ去って行った。

 変わった雰囲気の人だが、悪い人だとは感じない。

    ~

 解説文を読んだ後、少し結衣さんの話を聴いて博物館巡りは終わった。

 その後竹林へ行き、神聖な空気をたっぷりと味わった。結衣さんが全員の集合写真を撮ってくれた。

 竹林を抜けると、木々がまばらに生える広場に出た。

「ふー。竹林どうだった?」

「幻想的な雰囲気でよかったよ」

 立花くんと結衣さんが話している。

「じゃあ最後、授与所に行こう!」

「よし行こう」

 立花くんより先に山上くんが反応した。さっさと歩き始める。

「ほんと好きだな」

「オタ活がんば」

 立花くんと結衣さんが後ろから茶化す。

「聞こえてるぞ」

 山上くんが前を向いたまま答える。二人がクスクスと笑う。

 授与所に着くと、山上くんはさっそく売っているものを見だした。

 私も何となく売り物を見る。

 と、立花くんが近づいてきた。

「どう? 楽しんでる?」

「あ、はい」

「そう…」

 沈黙が訪れる。彼に訊いてみたいことがある。自分から話しかけても…いいかもしれない。

 立花くんの方を向く。目が合った。

「あ、あの」

「あのさ」

 声が重なる。

「あっ、ごめん。いいよ」

「い、いや、なんでもないのでどうぞ…」

 また静かになる。先に口を開いたのは彼だった。

「今日も活動に来てくれてありがとう。神社巡り、どうだったかな?」

「えっと、神社にお参りに行ったことは何度もあるけど、こんなにしっかり由緒を知りながら行ったことはなかったので、新鮮でした」

 目の前に並んでいるお守りを見ながら答える。

「よかった。さっきの花園の説明のときにつまんなそうにしてたから不安になったけど、楽しんでくれてたなら安心した」

「あ、あの時はごめんなさい」

 気づかれていたのか。彼の方へ体を向け、腰を折る。

「い、いやいや! 別に俺も花園も気にしてないから大丈夫だよ!」

 顔を上げる。慌てた顔が目に入る。

「ありがとう、ございます…」

 また売り物の方へ体を向ける。

「まあ、ほんとに気軽なサークルだから、バイト忙しいとか兼サーとかでも大歓迎だよ」

 立花くんが言葉に詰まったのがわかる。

「あ…なんかごめん…」

 私の浮かない顔に気づいたのか謝ってきた。私は慌てて首を振る。

「い、いや、サークルもやりたいし、いつかバイトもしてみたいと思ってるので大丈夫です。…そ、そっちの方が大学生生活楽しめるって聞いたし」

 立花くんの表情が和らぐ。

「うん。やっぱ大学生活、充実させたいよな」

「は、はい」

 彼もお守りに目をやる。

 私はなんとなくお守りの一つを手に取る。

 と、立花くんが話し始めた。

「…俺、中学高校と目立たないで過ごしてきたんだけど、やっぱそれは違うなって思ってさ。大学ではもっと明るく楽しもうって思ってるんだよね」

 彼が見つめているのはお守りではない、そう感じる。

「だからサークル以外にもいろんなことに挑戦して、最後の青春を満喫したいと思ってる」

「そうなんですか…」

 颯太と同じようなことを言っている。自然と自分自身のことも考えてしまう…。

「まあ、今のは花園からの受け売りなんだけどね」

「え」

「『蓮も私も、こういう風に大学生活を過ごそっ!』って言われたんだよ」

「ん…」

 結衣さんが元気に言う姿が目に浮かぶ。あんなに明るい子が側にいてくれたから、自然と前を向けたのだろう。

 結衣さんと、記憶の中の彼女が重なる…。

「いい…ですね」

 木々のざわめきが耳の中で響く。

 俯きながら、表情が強張るのを感じる。

「だよな。夏樹さんもよかったら…」

 記憶が、呼び覚まされる。


 夕暮れの音楽室で、私は彼女と向き合っていた。

『遥香、えっと…』

 いつもはあんなに気さくだった彼女が、その時はとても小さく見えたのを憶えている。

『ねえ』

 後ろから長い黒髪をなびかせて、あいつがきた。

『早く帰ろ?』

『で、でも、まだ遥香が…』

『は? 誰だって?』

 彼女の体がビクッと震えたのがわかる。あいつの後ろから、小さな複数の笑い声が漏れ聞こえる。

『…う、うん。すぐ行く…』

 そう言うと荷物を持って、あいつらの方へ向かっていく。

 途中振り返って何かをつぶやいた。多分、『ごめんね』とでも言っていたのだろう。

その時初めて、私は彼女の瞳が黒く濁っているのに気がついた。私が彼女に出会った頃に感じたはずの、あの輝きはどこへ行ってしまったのか。その濁りに、もっと早く気づくべきだった。

 あいつらと彼女が出て行った後、私は一人音楽室に残された。

黙ったまま乱雑に並べられた机と椅子を整列させ、楽器が置いてある部屋に鍵を掛ける。部屋の隅に転がっているリュックを持ち上げる。誰かが適当に移動させたのだろう、被ったほこりを手で払う。リュックを背負って音楽室から出て鍵を掛ける。

 ふと前を見る。扉の窓に自分の無表情な顔がうっすらと映っている。隣には、誰もいない。

 すうっと右頬に水滴が流れた。すぐに左目からも涙が伝う。私はたまらずその場にうずくまった。

 嗚咽が漏れる。みんなが私を無視するのは今に始まったことではない。でも今日、私は本当に一人になってしまった。彼女がいなくなった。それだけでこんなに胸が痛むとは思わなかった。

 もうここに、私の居場所は、ない。


「大丈夫?」

はっとする。

立花くんが屈んで私の顔を心配そうに覗き込んでいた。

「あ、ご、ごめんなさい」

 私は慌てて顔をそらす。なぜ今、こんなことを思い出していたんだ。

 ふと右手に何かが触れていることに気づく。手を開いてみると、さっき取ったばかりのお守りが汚く握り潰されていた。

「あ、あ、」

 必勝祈願、の文字が弱々しく曲がっている。

「ど、どうしよう…」

 焦りが声になる。

「かして」

 顔を上げると立花くんがいた。手を出している。

「え…」

「俺が買うよ」

「いや、だめだよ…。こんなんじゃご利益ももうないだろうし…」

 うなだれたまま首を振る。

「夏樹さんが何を考えていたのかはわからないけど、強い感情が伴ったんだと思う。それなら御守りにそれだけの思いが入ったってことだから、逆にご利益が上がるんだよ」

 立花くんの優しい声に、少しだけ落ち着きを取り戻す。

「ほんとに…?」

「ほんと」

 自分の開いた手を前へ出す。彼がお守りを取った。

 足音が遠ざかる。

 私は一度、深呼吸をする。

 すぅー。はぁー。

「すみません、これお願いします」

 しばらくして立花くんの声が聞こえた。私はぼんやりと砂利を眺めていた…。

 足音が近づいてくる。

「はい」

 私の前にお守りが差し出される。少し文字が歪んでいるものの、先ほどよりは綺麗になっている。

「巫女さんに整えてもらったんだ」

 顔を上げる。立花くんの屈託のない笑顔が目に染みる。

「で、でも、新しいのに替えてもらえば良かったんじゃ…」

「この御守りが夏樹さんの悩みを吸収して、肩代わりしてくれるからね」

 そう言って私に差し出す。

黙って受け取り、ポケットに入れる。

「…私、昔親友に裏切られたことがあるんです。いや、彼女の方は私を親友とは思ってくれてなかったのかも…」

「…うん」

「彼女が陰キャな私を吹奏楽部に誘ってくれたんですけど、私周りと合わせるのがあまり得意じゃなくて…他の人とあまり上手くやれてなかったんです」

 自分がとんでもない事を話してしまっているのに気づく。でも一度口を開いたら、もう止まらなかった。

「それでもしばらく彼女は私の味方でした。でもある日、突然私を見捨てたんです」

「うん」

「確かにあいつらの圧力が強くなっていたことは知っていました。でも、本当の親友だったら最後まで私を守ってくれるんじゃないですか? 私が一緒に部活を辞めようって言ったとき、彼女はそれを断りました。もう少し頑張ってみようって。私はもう限界だって言ったのに! そういえば彼女があいつらと話す時間がだんだん増えていった気がする…つまり結局、彼女もあいつら側だった!」

 自分が肩で息をしているのに気づく。視界もなんだかぼやけている。

「はい」

 見ると、彼がハンカチを差し出していた。

「あ、ごめん。ありがとう」

 受け取って涙を拭う。

 もう一度、深呼吸する。

 すぅー。はぁー。

「…俺はわからないよ」

「え?」

 何かと思って立花くんを見る。

「夏樹さんの気持ちをわかってやれない。…だって、俺は俺だから」

「ん…」

「…でも、わからなきゃいけないって、思う」

 遠くを見つめながら言う。深みのある言い方だ。

「一つ言えるのは、」

 立花くんが私を真っすぐに見据える。

「これからは、夏樹さんがそんな思いをすることはないってこと」

 彼の目からは一抹の偽りも感じない。

「な、なんでそんなこと、言い切れるの?」

「俺がいるから」

 即答だった。

思わず目をそらす。

「えっ…んっ…」

意識とは無関係に鼓動が早くなっていく。次第に顔も熱く火照ってくる。

「…って、まあ、神社仏閣サークルで大学生活エンジョイしようって話なんだけどね」

「え…」

 立花くんの方を見る。青い空を見上げたまま続ける。

「だ、だから夏樹も、俺たちと一緒に大学生活、充実させて行こ!」

「う、うん!」

 強く頷く。心の中がこの空のように晴れ渡っていくのを感じる。

「遥香?」

 と、砂利を踏む音を立てながら颯太が駆け寄ってきた。

「ど、どうしたんだよ」

 心配そうな顔で私と立花くんを交互に見る。

 山上くんと結衣さんも近づいてくる。

 そこでまた、頬を一筋涙が伝っていることに気づく。

「蓮、遥香になんかしたのか⁉」

 颯太が食ってかかる。立花くんがアワアワと胸の前で手を振っている。

「颯太、違うの。立花くんは私を慰めてくれた」

 颯太が振り向く。

「慰めるって、何を慰めたんだよ」

「まあいいから。とりあえず立花くんは悪くない」

 颯太が立花くんから離れる。目は相変わらず威嚇したままだが。

 そういえば、颯太にもしたことがなかったこの話を、なぜ会ってまだ日の浅い立花くんにできたのだろう。

 彼を見る。ほっと一息ついている。私の視線に気づくとうっすら笑みを浮かべた。彼がまとう優しい雰囲気が、自然とそうさせたのかもしれない。

 …とは言え、颯太もかれこれ四年以上も私を見捨てずにいてくれた大切な親友であることに変わりはない。

「颯太、心配してくれてありがとう」

「お、おう。大丈夫ならいいんだ」

 だから、颯太にも優しい言葉をかけておくことにする。

「聖司、またそんなに買ったのか」

「神々のためだ。しょうがないだろ」

 見ると、山上くんはバッグに溢れんばかりの御札やらお守りやらを詰め込んでいた。

「たく…。よし、じゃあ帰るか」

 立花くんが門の方へ歩き始める。

「はーい」

 結衣さんが真っ先に続く。

「西川君、ちゃんとその御守りを首から下げとけよ?」

「やだよ。恥ずかしい」

 前を歩く颯太と山上くんが楽しそうに話している。いつのまにか颯太もここに馴染んだようだ。

「これからもみんなでいろんな神社とお寺を回って行こう!」

 立花くんが後ろを向いて呼びかけた。

「おう」

「はーい」

「はい」

 みんなに続いて私も返事する。

立花くんは満足そうに笑って前に向き直った。

 彼の側にいれば、私も変われるかもしれない。そんな期待感が湧いてくる。

 きっと楽しい日々が始まる。そう思った。



    六月十六日(月)

 普段通りの時間にラウンジに入る。この時間帯は多くの学生が食堂で昼食を済ませているため、本校舎内のここはいくらか空いている。

 これまでの私なら通り過ぎる陽キャたちにビクついていたが、今は授業後のサークル活動で立花くんに会うことを考えているため、周りのことを気にせずにいられている。

 いつもの席に座り、颯太と向き合う。

「お疲れー」

「おう」

 今日は颯太に言わなければならないことがある。

「大学の授業って意外と課題多くない?」

「うん」

 でも、まだ言わないでおく。

「英語と二外の課題はギリギリ終わるんだけどなあ。ちょっとしたレポート課題とかがたまってきてるんだよね」

「うん」

「良くないよねー、たまっていくの。でもやる時間ないんだよねー」

「うん…」

 私はリュックから今日のお昼のパンを取り出しながら言う。

「そっちはどう? 商学部ってレポート多いの?」

「うん…」

 颯太を見つめる。俯いたまま、ご飯も出さないでいる。

「…何個ぐらいあるの?」

「うん…」

「颯太、私の話聞いてる?」

「え、何?」

 私が語気を強めると、ビクッと颯太が顔を上げた。

「やっぱ聞いてないじゃん」

「ごめん…」

 言ってからまた俯く。

「どうしたの?」

「…」

 颯太がこんなに暗いのも珍しい。

「ねえ、何かあった?」

 颯太がふーっと、息を吐く。

 空気が張り詰めていく気がする。

「…さっきの授業で、山上から聞いたんだけどさ」

「何を?」

 なぜだか肌寒さを感じる。

「立花が、さ、」

「立花くんがどうしたの?」

先を知りたい衝動に駆られる。

「…」

「どうしたの⁉」

「死んだ」

「え」

 唐突に周囲の音が聞こえなくなった。誰かの笑い声が、話し声が、足音が、消えた。私たちを残して世界の時の流れが止まった、そんな感情が心を満たした。

「なに、言ってんの?」

「立花が、死んだ」

 今度はにわかに周囲の音が騒がしくなった。うるささに思わず耳をふさぎたくなる。

「…冗談…でしょ…」

 なんとか言葉を絞り出す。

「だったら…いいだろうな」

「い、意味わかんないんだけど。ふ、ふざけないでくれる? 流石にやりすぎだよ?」

 震える声を聞いた。いや、声だけではない。腕も、、脚も、全身が意志とは関係なく震え始めている。

「だからマジなんだよ‼」

 突然颯太が大声を出して立ち上がる。周囲のどよめきが聞こえた。でも今はそんなこと、どうでもいい。

「は⁉ なんで⁉ なんで立花くんが死ぬの⁉ 意味わかんない‼」

 私も叫んでいた。

 一瞬の睨み合いの後、颯太が再びふーっと息を吐いて座り直す。

「…殺されたんだよ。あいつは」

 颯太がつぶやく。

「え?」

「今朝、家の近くの道で死んでるのが見つかった。警察によると昨日の夜、駅からの帰り道に、刃物で刺されたらしい」

 視界が安定しない。世界がぐらぐらと揺れている。

「なんで?」

「は?」

「なんで立花くんが死ななきゃいけないの」

 自分の心臓の音が、ドクン、ドクンとやけにはっきり聞こえる。

「知らねぇよ…」

「なんで⁉ なんであんなに優しい立花くんが殺されなきゃいけないの⁉ おかしいよ‼」

「理由なんて俺が知るわけねぇだろ‼」

 互いに机を叩く。

 周囲のどよめきが一層大きくなる。多くの視線を背に感じる。

 ドスッと椅子に体を預ける。

 頭の中がぐちゃぐちゃで思考できない。立花くんが死んだ? なぜ? どういうこと?

「ちょっと」

 そう言うと颯太は立ち上がり、どこかへ行ってしまった。

 立花くんが殺された? なぜ? どうして?

 疑問と疑念が頭の中をグルグル回っている。それ以外何も考えられない。

    ~

 ズキッとした痛みを感じた。

 頭が痛い。

 額に手を当てる。嫌に汗ばんでいる。吐く息がやけに熱い。熱があるのかもしれない。体中がじっとりと湿っているのもそのせいか。

 周囲を見渡すと、いつの間にかラウンジ内の人手はまばらになっていた。

 腕時計を見ると、もう三限が終わる時間だった。そんなに長い間ここにいたのか。いつの間にか颯太の荷物もなくなっている。

 立ち上がると視界がゆがんだ。思わず机に手をつき身体を支える。なんとか椅子に座り直す。

 立つ気が起きない。四限の授業など、もうどうでもいい。

    ~

 さらに時間が経った。だが時の流れは不思議と感じない。時計の針が進んでいただけだ。もう四限が終わる。

 さっき出しておいたパンをカバンに戻す。食欲など湧くわけがない。

 椅子の背もたれを助けになんとか立ち上がり、ふらふらと歩き始める。



 教室の扉を開ける。

 結衣の泣き腫らした目が私を捉える。

「あ…」

 また俯く。嗚咽が聞こえる。

 私は少し入ったところで立ち止まった。教室を見渡す。

 奥で山上くんが立ったまま外を見ている。

 ガタっと結衣が立ち上がる。近づいて、私の腕にしがみついてきた。

「はるかぁ…わだじ…これからどうずればいいの…」

 うなだれた結衣の後頭部をぼおっと見つめる。長い髪の毛が逆立っている。

「れんが、れんがいないせがいなんて…わだじもう…だえられない」

 嗚咽が交じる。腕をきつく握ってくる。

押し殺し切れない泣き声が部屋に響く。私の中にも、反響する。

「結衣…」

 私の頬にもすうっと涙が伝った。全身から力が抜け、思わず座り込む。

「あっ…」

 結衣も一緒に膝をつく。

「わだじ…こうかいじてる」

 泣きながら声を絞り出す。

「また、ひとりになっぢゃった」

 胸がズキンと痛む。

また一筋、涙が頬を伝う。

「立花…くん」

 私もつぶやいていた。

 彼が真っすぐに見つめながら言ってくれたことを思い出す。まぶしい笑顔も。

「ああっ…」

 思わず床に片手をつく。

 あんなに優しい彼が、あんなに前向きだった彼が、いなくなった。

 涙がぽたぽたと床に跡を残す。

「どう…して…」

 口に出す。

「なん…で…」

 息が苦しい。

「れんにもっど…そばにいでほじがった…」

 結衣の声が、私の胸もきつく締め上げる。

 目をつむる。

「…私も」

 だから、祈らずには、いられなかった。

「神様…仏様…どうか、どうか! 立花蓮くんを生き返らせてください‼ 立花くんを死の運命から救ってください‼ どうか! どうか…」

 そう叫んで両手をギュッと組む。

 私はただの人間でしかない。神には程遠い。でも、もし許されるなら、もう一度。



 突然、まぶたを閉じていてもわかるほど目の前が明るくなった。思わず意識が遠のく。

 気づいたときには、まぶたの中に入る光は弱まっていた。

ゆっくりと目を開ける。

 そこはただひたすらに真っ白だった。それ以外に言葉が思いつかない。中学の頃美術の授業で使った画用紙が思い出される。あれは紙面の凹凸によりわずかにムラがあったが、ここでは一切のムラなく白い世界が続いている。

 目につくところに影はないので、壁や天井はないのだろう。自分が二次元空間にいるような錯覚を覚える。

 自分の手を見て驚いた。手だけが空中に浮いて見えたからだ。

 しかしすぐにそれは勘違いだと気づく。私は、これまた地面の白と同化するくらいの、白一色の服を着ていた。ワンピースのようにも思えるが、少し違うようだ。撫でてみると布面の抵抗をまったく感じなかった。私の知る生地の中では、これほどサラサラなものはない。

「この願い、我が叶えよう」

 唐突に遠くから声が聞こえた。やけにはっきりと耳に届く。瞬間、私が直前まで願っていたことを思い出す。

「ほ、本当ですか?」

 思わず顔を上げ、白い世界を見やる。

「本当に蓮くんを救ってくれるんですか?」

 ここはどこなのか。そんな疑問が浮かんでくるよりも先に、その言葉にすがりつく。

「ああ。真だ」

「ありがとうございます!」

 深く落ち着いた声を聞き、自然と胸に安堵が広がる。声の主の顔を見たわけでもないのに、信頼が置ける、なぜだかそう感じる。

「ただ、私が蓮を生き返らせるわけではない」

「え?」

「君が時を越え、立花蓮を死の運命から救うのだ」

 心に満ちていた喜びの波が引いていく。

「私が、立花くんを…」

 …私が立花くんを救う? 時を…越える?

「成功すれば、願いは叶えられる」

 今度は期待と不安が同時に押し寄せてくる。

「そ、そんなこと、私じゃ…」

「嫌ならやめておこう」

 周囲の光が少し弱まった気がした。

「い、いや、やります! やらせてください!」

 立花くんを救えるのなら。そう思うと、咄嗟に叫んでいた。

「そうか。では頼んだ。もし不幸にも死の運命を退けられなければ、もう一度祈れ。再び時は戻る」

「…はい」

「言っておかなければならないことがある」

 白い世界を見つめる。聞き逃さぬよう耳を澄ませる。

「決して自分が時を越える存在であると、周囲の人間に明かしてはならない。友人にも、家族にも、蓮にもだ」

「…わかりました」

「時を越えることは掟を何十も破ることになる。君が他言すれば、君の存在は世界から跡形もなく消える」

ゴクッと喉が鳴る。

「は、はい! 絶対に誰にも言いません!」

 掟とは何か、そんなことを訊いて話の腰を折るのも怖い。

「そして当然ながら君自身が死ぬと、死人が二人に増えることになる」

「はい」

 左手で右手首を握る。震えが少し収まった。

「ではゆくがいい」

「ま、待って! あなたは?」

 真っ白な世界に問いかける。

「我は…傍観者とでも言っておこう。常に君たちのことを見ている」

「そう…ですか」

「ではさらばだ」

 声が遠ざかる。

「あ、ありがとうございます!」

 小さく返事が返ってくる。

「武運を祈る」

 白色が強くなってきた。あまりのまぶしさに、私は再び目をつぶる。



 突然光が弱くなった。

「…か」

 声が聞こえる。

「は…か」

 なんだか懐かしい。

「はるか」

 はっとして目を開ける。

「どうした?」

 颯太が心配そうな顔でこちらを見つめている。

「ん…っと」

 頭の中にモヤがかかったようではっきりしない。

「大丈夫?」

 だんだんと思考が鮮明になっていく。

「えっと…きょ、」

 颯太の方を見る。彼の目にわずかに安堵の色が浮かぶ。

「今日って、いつだっけ?」

「え?」

 一転、怪訝そうに見つめてくる。

「今日って何日だっけ?」

「六月二日だけど?」

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