午前一時五十三分の訪問者

彼辞(ひじ)

午前一時五十三分の訪問者

 会社からの帰り道、エレベーターで別部署の先輩に会いました。


「お久しぶりです」


 そう声をかけられた瞬間、なぜか心臓が一度だけ強く跳ねました。数年ぶりに会っただけなのに、その言葉が、妙に重たく聞こえたのです。


 久しぶり、ということは、そのあいだ相手のことを思い出しもしなかった、ということだ。そんな考えが頭をよぎり、自分でも笑ってしまいました。


 その夜、「お久しぶりです」という言葉に、これほど縛られるとは思ってもみませんでした。


     *


 日付が変わる少し前、ベッドの上でスマホを眺めていたときです。


 ──ピンポーン。


 インターホンが鳴りました。


 時計は午前一時五十三分。こんな時間に訪ねてくる相手などいません。配達の不在通知にしては遅すぎます。


 私はベッドから降り、玄関までそろそろと歩きました。ドアスコープを覗く前に、まずはモニターのスイッチを押します。


 画面には、誰も映っていませんでした。蛍光灯に照らされた共用廊下だけが、静まり返っているのが見えるだけです。風が通る様子もありません。


 いたずらだろうか、と思ったとき、モニターから小さなノイズがしました。砂嵐のようなざらついた音。その奥に、かすかな人の声が混ざりました。


「……おひ……ぶり……」


 音量を上げると、今度ははっきりと聞こえました。


「お久しぶりです」


 女の声でした。年齢も感情も読み取れない、平坦な声でした。


「お久しぶりです」


 二度目のその言葉に、背中を冷たいものが走りました。私は慌ててモニターを切り、チェーンと鍵を確認し、スマホを握りしめたまま布団に潜り込みました。


 その夜、ドアが叩かれることも、鍵が回る気配もありませんでした。ただ浅い眠りの中で、何度もインターホンの音と「お久しぶりです」という声を聞き続けました。


 翌朝、管理会社に電話して防犯カメラを確認してもらいましたが、深夜一時以降、私の部屋の前を通った人影は映っていないと言われました。誤作動という説明を無理やり飲み込み、私は仕事に向かいました。


     *


 二度目の「お久しぶり」は、一週間後の夜でした。


 地方の支店から戻る終電で、最寄り駅に着いたのは日付が変わる直前でした。人影の少ないホームを歩き、階段を降りかけたとき、踊り場の下に立つ一人の男が目に入りました。


 どこかで見たことのある背中でした。少し猫背で、手すりにもたれる癖。私は思わず足を止めました。


 中学時代の親友、川村にそっくりでした。


 彼は十数年前、高校一年の冬、踏切事故で亡くなっています。葬儀の遺影をまだ覚えているくらいには、はっきりとした記憶です。ここにいるはずがありません。


 それでも目が離せませんでした。ゆっくりと階段を降りると、その男が振り返りました。


 そこにあったのは、記憶の中とまったく同じ川村の顔でした。眠たげな目元も、笑うと片方だけ深く入るえくぼも、そのままです。


「……川村?」


 名を呼ぶと、彼は目を細めて笑いました。


「おう。お久しぶり」


 あまりにも自然に言われ、私のほうが言葉をなくしました。


「お前……どうして……」


 一歩踏み出したところで、ホームに電車の接近を知らせるベルが鳴りました。反射的に視線を線路に向け、すぐにまた彼のほうに戻します。


 そこには、誰もいませんでした。


 私は階段を駆け下り、改札からホームの端まで探しましたが、彼らしき姿は見つかりませんでした。駅員に「さっきまでここに若い男の人、いませんでしたか」と聞いても、「見てませんね」と首を傾げられただけでした。


 諦めて改札を出かけたとき、ふと電光掲示板が目に入りました。普段は次の電車の発車時刻が表示される場所に、見慣れない赤い文字が点滅していました。


 ──オヒサシブリデス ツギハ アナタノバン


 瞬きをした次の瞬間には、表示は通常の時刻表に戻っていました。駅員に尋ねても、「故障表示は出ていませんでしたよ」と言われただけでした。


     *


 三度目は、その数日後の夜です。


 残業を終えて帰宅し、コンビニ弁当を食べながらスマホを開くと、メッセージアプリに未読が一件ついていました。送り主の名前を見て、手が止まりました。


 大学時代の後輩、水野。


 五年前に失踪し、捜索願が出されたまま見つかっていない人物です。失踪から一年ほどして、彼女のSNSアカウントは家族の手で削除されたと聞いていました。


 それなのに、画面には彼女の名前と、懐かしい笑顔のアイコンが表示されていました。


 恐る恐るメッセージを開くと、短い一文だけが表示されました。


『お久しぶりです。また会いに行きます。』


 悪質なイタズラかと思いましたが、そんなことをする人物に心当たりはありません。私は迷った末、返信しました。


『本当に水野? どういう意味だ』


 送信するとすぐに既読が付き、「入力中…」の表示が現れました。


『今、家の前です。』


 その文字を見た瞬間、背筋が冷えました。私は部屋の照明を消し、窓際にそっと近寄りました。カーテンの隙間から外を覗くと、街灯の下に誰かが立っているのが見えました。長い髪の女性のようでしたが、暗くて顔は分かりません。


 スマホが震きました。


『見えてますよ』


 私は反射的にカーテンを閉めました。メッセージアプリを開き直し、彼女をブロックしようとしました。


 しかし、さっきまであったはずのトーク画面が消えていました。連絡先一覧に水野の名前はなく、検索しても「該当するユーザーはいません」と表示されるだけでした。


 そのときです。


 ──ピンポーン。


 インターホンが鳴りました。


 私は足をすくませながら玄関に行き、モニターをつけました。映ったのは、やはり誰もいない共用廊下だけでした。非常灯の薄い光の下、壁の避難経路図だけがぼんやりと見えています。


 耳を澄ますと、ざらついたノイズの向こうから、あの声がしました。


「……お久しぶりです」


 最初の夜に聞いたのと同じ、輪郭の曖昧な女の声。けれど、今度はそこに聞き覚えがありました。ゼミ室のドア越しに何度も聞いた、あの声に。


「水野……なのか」


 思わず呟くと、声は少しだけ明るくなりました。


「先輩。開けてくださいよ。……お久しぶりです」


 私はモニターを切り、その場に座り込んでしまいました。インターホンはそれ以上鳴らず、やがて廊下からの気配も消えました。


     *


 それから、私は「お久しぶりです」という言葉が怖くなりました。


 社内チャットで取引先から届いた冒頭の挨拶。駅のポスターに書かれた「お久しぶりのご利用に」。エレベーターで会った同僚の「お久しぶりです」。


 その一つ一つが、川村や水野の顔と結びついてしまうのです。


 ふと、彼らとの最後のやりとりを思い出しました。


 川村とは、事故の数日前にくだらないことで喧嘩をしました。「もう知らない」と言い合ったまま、その後一度も話さないまま、彼は死にました。謝る機会は二度と来ませんでした。


 水野からは、社会人一年目のときにメッセージが来ていました。


『お久しぶりです。また飲みに行きたいです』


 私は「今忙しいから、また今度な」とだけ返し、そのまま放置しました。「また今度」は来ませんでした。彼女は突然姿を消し、ニュースの中の人になりました。


 思い出せば思い出すほど、「お久しぶりです」という言葉には、自分の怠慢や後悔がまとわりついているように思えました。


     *


 決定的な出来事が起きたのは、雨の金曜日でした。


 その日は珍しく定時で帰宅し、テレビをつけたまま晩酌をしていると、スマホが鳴りました。画面に表示された発信者名を見て、手が固まりました。


 ──川村。


 登録した覚えのない名前でした。私は迷いながらも、通話ボタンを押してしまいました。


「……もしもし」


 恐る恐る声を出すと、懐かしい声が返ってきました。


『おう。……お久しぶり』


 中学時代の、あの声でした。


「どこからかけてる」


『駅』


 短い返事でした。


『この前、見ただろ。ホームの階段のとこ』


 誰にも話していない出来事を知られていることに、背筋が冷たくなりました。


「……お前、死んだだろ」


『ああ。踏切でな』


 彼は淡々と言いました。


『あのとき喧嘩したまんまだからさ。ちゃんと「お久しぶりです」って言っとこうと思って』


「そんな挨拶、要らない」


 絞り出すと、受話口の向こうでくぐもった笑い声がしました。雑踏のようなざわめきがかすかに混ざっています。


『こっちはさ、いつも賑やかなんだよ。踏切もホームも。みんな、忘れたころにまた誰かが来る』


 川村は続けました。


『お前らはさ、ニュースを見て、しばらくしたら忘れるだろ。でも、ここで待ってるほうは、ずっと同じ場所にいるんだよ。そんでたまに、覚えてるやつが近くを通るとさ、「お久しぶりです」って言うしかない』


 私は黙っていました。言い訳を探そうとしても、うまく言葉になりませんでした。


『最近、お前、よく思い出してんだろ。俺のことも、水野さんのことも』


「……水野を知ってるのか」


『同じホームだよ。あっちは“行方不明”ってことになってるけど、こっち側じゃ、まとめて一緒だ』


 受話口越しに、電車のブレーキ音のようなものが聞こえました。


『久しぶりにお前の顔見たってさ。だからまた行くって』


「来るな」


 思わず声を荒げていました。


「頼むから、もう来ないでくれ。俺は……何もできなかったけど、それでも……」


『お前、勘違いしてるな』


 川村の声が、少しだけ低くなりました。


『俺たちが、お前んちに“来る”と思ってるだろ』


 その瞬間、部屋の照明が一瞬だけふっと暗くなり、すぐに戻りました。テレビの音も一拍遅れて復帰しました。


『違うよ。次は、お前が“来る”番なんだよ』


 頭の中で、駅の電光掲示板の赤い文字が蘇りました。


 ──ツギハ アナタノバン。


「冗談だろ」


『冗談だったら良かったな』


 乾いた笑い声がして、そのまま通話はぷつりと切れました。スマホの画面には、着信履歴が残っていませんでした。連絡先一覧にも、「川村」という名前はどこにもありませんでした。


     *


 そして今、私はこうして、この出来事を書き残しています。


 これを書き終えたら、誰かに送るつもりです。誰でもいい。「お久しぶりです」と言える相手なら、なおいい。


 なぜかと言えば──


 さっきから、スマホにメッセージの通知が増え続けているからです。


『お久しぶりです。中学のとき同じクラスだった──』

『お久しぶりです。前の職場でお世話になった──』

『お久しぶりです。覚えてますか──』


 送り主の名前は、懐かしいものばかりでした。卒業以来忘れていた同級生。いつの間にか連絡が途絶えた同僚。飲み会で一度だけ連絡先を交換した誰か。


 どのメッセージも、途中で途切れています。最後まで読む勇気が出ません。


 ──ピンポーン。


 インターホンが鳴きました。


 時計を見ると、やはり午前一時五十三分でした。


玄関のほうから、くぐもった声が聞こえます。



「……お久しぶりです」


 川村の声にも、水野の声にも、先輩の声にも聞こえました。あるいは、まだ思い出していない誰かの声にも。


 私は立ち上がり、玄関へ向かいました。モニターには、おそらく何も映らないでしょう。チェーンを外し、鍵を回すだけで、その向こう側にいる「お久しぶりです」の相手と再会できます。


 それが誰なのか、確かめなければならない気がしました。


 もし、あなたのスマホにも、突然「お久しぶりです」というメッセージが届いたなら。


 もし、深夜一時五十三分に、誰もいないはずの玄関のインターホンが鳴いたなら。


 それは、きっと私からの挨拶です。


「お久しぶりです。……開けて、もらえますか」

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