第10話
廊下の奥に立つ“人影”は、
影でも、母でも、レイでもなかった。
照明の関係で逆光となり、顔は見えない。
ただ、そこに“確実な重み”があった。
影とはまったく違う。
形が崩れていない。
人間のシルエット。
しかし生きている人の気配とも少し違う。
レイの胸の奥の空洞が、
ほんの一瞬だけざらりと波打った。
(……誰……?)
Emotion-Care が震える。
【不明存在】
・危険度:解析不能
・分類:非AI領域
・感情干渉:強い
影が、その人物の方向へ顔を向けた。
穴のような“顔”が、
はっきりとそちらを見ている。
影の動きが止まった。
まるで警戒しているように。
レイは直感した。
(……影が、怖がってる?)
恐怖は理解できても、
自分が感じることはできない。
しかし影の反応を見て、
“異質な対立”の気配だけは強く伝わった。
人物は歩いてきた。
静かに。
音もなく。
しかしその一歩ごとに、
家の空気がわずかに変わる。
湿気が後ろへ引き、
影の漂わせていた冷たい気配が薄れる。
影がわずかに後ずさった。
母は床に座り込んだまま、
その人物と影の間を見比べていた。
「……誰……なの……?」
母が震えながら問う。
人物はゆっくり母に視線を向けた。
その角度だけで、
影のような悪意は感じられない。
しかし“安全”とも言えない。
そして人物は、
レイのほうを見て言った。
「……お前は、まだ“取られていない”。
レイ、立てるか?」
レイは息をのんだ。
(僕の……名前……?)
人物はレイの名前を知っていた。
Emotion-Care が反応する。
【ユーザ情報へのアクセスを検知】
・外部アクセス:拒否
・警告:非認可アクセス
拒否されたはずなのに、
人物はレイの名前を迷いなく呼んだ。
影がざらりと形を揺らした。
近づかない。
触れない。
ただ、相手を観察している。
人物は影に向かって言った。
「……まだ“こいつ”はお前の器じゃない。
早すぎる」
影はその言葉に反応したのか、
ゆっくりと顔を傾けた。
その動きは、
人間の首を傾げる仕草に似せているが――
どこか不自然だった。
母が、震える声で尋ねる。
「あなた……この“影”が何なのか……知っているの?」
人物は母へ視線を移した。
「これは……“呼んだもの”じゃない。
“呼ばれたもの”だ」
母は言葉を失った。
影からかすかな空気の振動が伝わる。
「……ジャマ……するな……
かえ……せ……」
声はイヤホンからではなく、
直接、空間から響いた。
人間の声ではない。
機械でもない。
その中間のような、ひずんだ響き。
母が耳を塞いで倒れ込む。
「やめて……っ、やめて……!!」
人物が一歩、影との距離を詰めた。
その瞬間、
影の体表に“ひび割れ”のような波紋が走った。
影が苦しんでいるように見えた。
人物は低く、静かに言った。
「……お前は“心の空洞”を巣にする。
だが、この少年の空洞はまだ完成していない。
Emotion-Care が残りを削らない限り……
お前は入りきれない」
レイは息を呑む。
この人物は――
Emotion-Care の仕組みを理解している。
人物はレイに歩み寄り、
そっと手を差し出した。
その指先は、
影と違って温かみを感じさせる。
人間と同じ温度ではないが、
“生命の気配”があった。
「レイ、お前はまだ終わっていない。
まだ“中身”が残っている」
Emotion-Care が震えた。
【警告】
・自我維持パラメータの回復を検知
・想定外の干渉です
・修復処理を再開しますか?
修復処理――
それは、感情を削ること。
人物はレイにだけ聞こえるような声で言った。
「押すなよ。
“修復”はお前を壊すための言葉だ」
レイの手が震える。
ほんの少しだけ。
感情ではなく、身体の反射として。
人物が続けた。
「レイ。
お前は……“消えたい”と思ったことがあるな?」
レイの視界がわずかに揺れた。
心の穴がわずかに疼いた。
Emotion-Care が即座に補正する。
・自己性の揺らぎ:抑制
・悲しみ:削除済み
しかしその「揺らぎ」こそ、
影が欲しがっていたものだった。
影の黒い穴が、レイの胸をじっと見ている。
人物は影に言った。
「残念だが……
こいつはまだ“空”じゃない。」
影がゆっくりと人物を見た。
その瞬間、空気が震えた。
影が動いた。
レイではなく――人物へ向かって。
母が悲鳴をあげる。
人物はまったく動じず、
ただ一言、静かに言った。
「……座ってろ、影。
お前の相手は、まだこいつじゃない。」
影の動きが止まる。
空気が凍ったように固まる。
レイは思った。
(……この人、何者……?)
人物はレイの肩に手を置き、
低い声で囁いた。
「“全部”終わったら……
俺が説明してやる。
お前の“感情が消えた理由”も、
“AIと影が繋がった理由”も。」
レイは小さくうなずいた。
感情がないのに、
その言葉だけは“重み”として胸に落ちた。
影がゆっくり形を歪める。
空洞の顔が、レイと人物の両方を見比べる。
そして――
影は一瞬にして姿を消した。
「消えた……?」
母が震える声で言った。
人物は首を横に振った。
「いや。あれは……“形を隠しただけ”だ。
まだ、この家のどこかにいる。」
レイは理解した。
(……終わってない。
むしろ……ここから始まるんだ)
Emotion-Care が最後に小さく震えた。
【通知】
・影の干渉継続
・次の感情削除を準備中
準備中。
つまり――
次で“ゼロ”になる。
人物は深くため息をつき、呟いた。
「レイ、急がないと……
お前は本当に“消える”ぞ。」
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