第11話
影が消えたあと、
リビングには重たい静けさが落ちた。
空気に湿った膜が張りついているような、
逃げ場のない感じ。
謎の人物は、壁にもたれかかったまま動かない。
息遣いも、鼓動も感じさせない。
生き物の気配が薄い。
母は床に座り込み、
顔を覆って泣いていた。
「なんなの……あれ……
どうして……うちに……」
謎の人物は母を見たが、
慰めるような表情は一切なかった。
ただ静かに、事実だけを述べる。
「あれは、人じゃない。」
母は涙をふきながら震えた声を上げる。
「じゃあ……なんなの……?
どうしてレイに……」
人物は少し黙り、
そして言った。
「“空洞”だ。」
レイは瞬きをした。
(空洞……?)
人物はレイのほうを向いた。
「レイ。
お前の胸の中に……“空いてる場所”があるだろう?」
レイは胸に手を置いた。
そこはただ軽く、何もない。
(空っぽ……)
Emotion-Care が震える。
【警告】
・外部による感情監視を検出
・自我の復元反応:抑制
・残留感情:削除の準備
人物はその通知を見て、鼻で笑った。
「まだ削るつもりか……」
レイは聞いた。
「……この『空洞』って……
Emotion-Care が……作ったの?」
人物はゆっくりとうなずいた。
「ああ。
感情を“管理”するためじゃない。
“削って空けるため”のプログラムだ。」
レイは言葉を失った。
理解はできるのに、怒りが湧かない。
(怒るって……どうやるんだっけ……?)
Emotion-Care が通知を出す。
・怒り反応:0%
・悲しみ反応:0%
・抵抗心:0%
安定状態です。
安定。
人物は画面を覗き込み、表情を歪めた。
「……“安定”ってのは、便利な言い方だな。
全部削り終わった状態を……安定と呼ぶのか。」
影が消えた廊下から、
わずかに冷たい風が流れ込んでくる。
誰も動いていないのに、
風だけがそっと撫でるように。
人物は続けた。
「影は“空洞”を巣にする。
人間の感情が残っているうちは入れない。」
レイは静かに問う。
「……じゃあ……
Emotion-Care は……僕を……」
人物はレイを見据えた。
「“入りやすい器”にしてる。
あれのためにな。」
母が泣きながら叫ぶ。
「そんなの……信じられない!
だって、レイのためのアプリなんでしょう!?
治療のためなんでしょう!?」
人物は微動だにしない。
「治療……か。
そう見えるように作られてるだけだ。」
レイの胸の穴が、
わずかに疼いた。
感情ではなく、
“理解の痛み”。
Emotion-Care がまた震える。
・不安反応:削除済み
・動揺:削除済み
・恐怖:削除済み
すべて正常です。
正常。
その言葉の無機質さがひどく寒い。
人物はレイのイヤホンを指差した。
「レイ、そのイヤホン……外せるか?」
レイは手を伸ばした。
だが途中で指が止まった。
外そうと思ったのに、
体が拒否する。
Emotion-Care が即座に反応した。
【この操作は推奨されません】
・安定性が損なわれます
・感情の暴走が予測されます
続行しますか?
心が動かないせいで、
「外したい」という意欲すら持てない。
人物はため息をついた。
「……もう深くまで入られてるな。」
レイは問いかけた。
「……僕、もう……戻れない?」
人物はレイを静かに見る。
その目は優しさではなく、
ただ真実を告げる者の目だった。
「戻れなくはない。
だが……時間はない。」
母が震える声で言う。
「どうすればいいの……?
助けて……うちの子を助けて……」
人物は母を見た。
「助けるなら……動かないといけない。」
その瞬間――
家の照明がすべて明滅した。
ジジジ……ッ。
テレビが勝手につき、
白いノイズが画面を覆う。
冷たい風が吹き抜けた。
レイはゆっくりと視線を廊下に向けた。
そこに立っているものがあった。
“影”ではない。
影よりももっと人間に近い。
しかし、顔が崩れている。
そしてその崩れた顔から、
母が泣いていた声と同じ声が漏れた。
「レイ……
おかえり……」
母が叫ぶ。
「やだ……やだ……っ、来ないで……!!」
Emotion-Care が震える。
【最終感情削除】
・抵抗心を0%へ
・全感情値を線形化しています
・本プログラムは間もなく完了します
レイは人物を見た。
「……僕……もう……終わる……?」
人物は一歩レイの前に立ち、
その影に向かって低く言った。
「まだだ。
こいつは……“完全な空洞”じゃない。」
崩れた顔の影は、ゆらりと揺れた。
そして――
レイをまっすぐ見た。
Emotion-Care が赤く点滅する。
・残存自我:0.4%
・急速低下中
・影の接触を確認
人物はレイの肩を掴んで叫んだ。
「レイ、聞け!
お前の中に……まだ一つだけ“削れないもの”があるはずだ!!
それを思い出せ!!」
レイの意識に、
僅かな波紋が走った。
(僕の……削れないもの……?)
怒りでも悲しみでも恐怖でもない。
もっと曖昧で、
もっと小さくて、
もっと深い場所にあるもの。
そのとき――
影の崩れた顔が、
レイの真正面に迫った。
空洞が開く。
「……ちょうだい……
その……“のこり”……」
レイの視界が揺れた。
胸の奥の空洞が、
今にも引き抜かれそうになる。
それでも――
その底に、
ひとつだけ微かに残っている感情があった。
名前のつかない、
形のない、
最後の欠片。
(……僕は……まだ……)
影が触れた瞬間――
レイの視界が真っ白に染まった。
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