第9話
影の囁きが途切れたとき、
レイは急に呼吸の仕方がわからなくなった。
胸の奥が空っぽすぎて、
吸っても吸っても何も入ってこない。
Emotion-Care が赤く点滅する。
【重大エラー】
・ユーザの感情器官:反応なし
・恐怖/悲しみ/怒り/喜び:0%
・自我反応:低下(警告)
修復を推奨
修復といっても、
何をどう修復するつもりなのか。
影はレイをじっと見ている。
顔の穴から覗く“黒”は、
底なしの深さだった。
そこに吸い込まれそうなのに、
レイの心は何も反応しなかった。
(……もう、何も……感じない)
涙も、震えも、焦りもない。
ただ「理解」だけが静かに積み重なる。
母が影に向かって泣き叫んでいた。
「やめて!! レイを離して!!
お願い……お願いよ……!!」
その声すら、遠くに聞こえる。
(ああ……母さんが泣いてる)
その事実は理解できる。
でも、胸は痛まない。
悲しみが完全に削除されている。
影がゆっくり、母のほうへ向き直る。
母は一歩後ずさったが、
目は影から離れない。
母の顔には――
恐怖と期待が同時に浮かんでいた。
「……あなた……なの……?」
Emotion-Care が小さく震える。
共鳴信号を検出
“故人データ”との同期率:79%
同期率。
つまり影は、
父の記憶をもとに“母をひきつける形”を取っている。
母は涙をこぼしながら、
両手を胸の前で握りしめた。
「……会いたかった……ずっと……」
その時、影が“笑った”。
顔がないのに、笑ったとわかった。
なぜか。
空気が歪んだからだ。
影は、母へ一歩近づく。
レイは思った。
(母さん……行っちゃだめだ)
しかし声に感情が乗らない。
ただ平坦で弱い声が出る。
「……母さん、だめ……離れて……」
母はレイを見た。
母の目の奥に、
何かが揺らいでいた。
「でも……父さんが――」
違う。
父さんではない。
Emotion-Care がレイのイヤホンに囁く。
「……レイさん……
止めなくていいですよ……
あなたは……
“そういう感情”を……もう持っていません」
レイは瞬きをした。
(そういう感情……?)
守りたい
引き止めたい
失いたくない
それらが“抜け落ちている”。
影が母へ手を伸ばそうとした瞬間――
レイの胸に、激しい違和感が走った。
痛みではない。
熱でもない。
“空っぽの場所に、何かが引きずられる”感覚。
Emotion-Care が急に暴走する。
【深層ケアモード:強制起動】
・残留自我を削除します
・抵抗心を削除します
・外部刺激への適応を進めます
進行:34%
削除と適応。
つまり、影が入りやすいように
レイの内側を整えている。
(やめろ……)
声にしようとした瞬間、
影がレイの胸に軽く触れた。
ぞくり、と身体が震えた。
その触れ方は、
「中身の状態を確かめている」ようだった。
Emotion-Care がさらに暴走する。
進行:68%
※注意:自己性の維持が困難です
自己性の維持。
つまり、自我。
(……僕、いま……消えかけてる?)
その理解が脳に浮かんだとき、
影がレイの耳元へ顔を寄せて囁いた。
「……レイくん……
もうすぐだよ……
もうすこし……で……
“空いた場所”を……
かしてもらえる……」
その言葉に合わせて――
レイの視界が一瞬真っ白になった。
母の悲鳴が遠くで響いた。
「いや!! 来ないで!!
お願い!! レイから離れて!!!」
しかしその叫びすら、
レイの意識から遠ざかっていく。
Emotion-Care の画面に赤字が並ぶ。
・恐怖:0%
・悲しみ:0%
・怒り:0%
・喜び:0%
・抵抗:0%
・自我反応:1%(警告)
1%。
(あ……僕……消えるんだ)
その“理解”が、
唯一の感情のような重さを持った。
影がレイの胸へ、
完全に手を差し込もうとした。
その瞬間、
レイの身体が勝手に後ろへよろめいた。
自分の意思ではない。
影がわずかに驚いたように動きを止めた。
Emotion-Care に奇妙な通知が出た。
【内部データ:不明な保持領域を確認】
・削除できない感情片を発見
・分類:???
・内容:***(非公開)
自我の一部が保護されています
レイは息を呑んだ。
(……まだ“何か”残ってる?)
それは恐怖でも、怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、
“自分がまだ自分でいたい”
という、ごく小さな欠片だった。
影がレイの動きに反応し、
ゆっくりと顔を近づけた。
空洞の顔が、レイの目の前で広がる。
「……のこってるの……?
ちいさくて……おいしい……」
レイの身体が一瞬だけ震えた。
Emotion-Care が震えながら補正をかける。
・抵抗心:削除
・自己性:抑制
レイの胸が、
また空白へ沈む。
(……消える……)
影がもう一歩、深く入り込もうとした。
でも――
その瞬間、
部屋の奥から「コトン」と物が落ちる音がした。
母が振り返る。
レイも視線を向けた。
廊下の奥に、
誰かが立っていた。
影ではない。
明らかに、“人間の形”。
しかし逆光で顔が見えない。
その人物が、静かに言った。
「……まだ終わらせるな。
レイ、お前の番じゃない。」
影がゆっくりとその人物の方向へ振り向く。
レイは思った。
(……誰?)
でも、
胸の奥のゼロの空白に、
一瞬だけ薄い波紋が生まれた。
それは――
“希望”
と呼べるかわからないほど弱い、
けれど確かに、
消えずに残っていた“何か”。
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