第3話:資料解析・見守り隊の規約書
第2話で元住民の田村さんから聞いた話は、私の背筋を凍らせるのに十分だった。しかし、恐怖以上に私の好奇心を刺激したのは、彼女が語った「異常なほど厳格なルール」の存在だった。
家に戻った私は、すぐさま仕事机に向かい、古道具屋で手に入れたノートの束を広げた。
第5巻と第6巻の間に挟まれていた、茶色く変色した四つ折りの藁半紙。
『緑ヶ丘団地・夜間見守り隊 行動規約(改訂版)』
私はデスクライトの明かりの下、ピンセットを使って慎重にその紙を広げた。
昭和六十年三月付の日付。
ガリ版印刷特有の、インクの濃淡や滲みがある粗末なプリントだ。しかし、そこに記された内容は、極めて事務的かつ、狂気じみた具体性を帯びていた。
私はまず、その全文をテキストデータとして起こすことにした。
文字に起こすことで、この異様なルールの意図が見えてくるかもしれないと考えたからだ。
以下は、その転写である。
***
【緑ヶ丘団地・夜間見守り隊 行動規約(改訂版)】
本規約は、緑ヶ丘団地における夜間の平穏と秩序を維持し、住民を「外部および内部の脅威」から保護するために制定する。隊員は本規約を熟読し、これを遵守すること。違反者は直ちに除名処分とし、以後の安全は保証しない。
1.巡回体制について
夜間巡回は午後九時から午前四時までとする。必ず二人一組で行動し、互いの視界から姿を消さないこと。万が一、パートナーが曲がり角の先で姿を消し、五秒以内に戻らない場合は、名前を呼んではならない。その者は既に「入れ替わっている」可能性がある。速やかに管理事務所へ戻り、塩でうがいをすること。
2.装備品について
懐中電灯、警笛、チョーク、塩(一袋)、そして配布された「赤い紐」を常備すること。警棒の使用は、対人間の場合のみ許可する。「それ以外」に対して物理的な攻撃を行ってはならない。刺激を与えるだけである。
3.C棟エレベーターの特例措置
C棟のエレベーターは、夜間は一階と四階にしか停止しない設定となっている。しかし、稀に「地下」のランプが点灯する場合がある。
その際は、扉が開く前に、全員で大声で「満員です!」と叫び続けること。扉が閉まり、ランプが消えるまで決して叫ぶのをやめてはならない。
なお、団地に地下階は存在しない。
4.給水塔への視線禁止
D棟屋上にある給水塔を見上げてはならない。特に、給水塔の点検用ハシゴに「誰か」がぶら下がっているのが見えても、無視すること。
あれは点検作業員ではない。また、人間でもない。
目が合うと、彼らは落ちてくる。落ちてきた場合、その処理は非常に困難を極めるため、未然に防ぐこと。
5.「這うもの」への対処
芝生や植え込みの中を、四つん這いで高速移動する影(通称:這うもの)を目撃した場合、決して光を当ててはならない。
彼らは光に集まる習性がある。
もし足元まで接近された場合は、所持している「赤い紐」を投げて注意を逸らすこと。その隙にコンクリートの上へ退避する。彼らは土の上しか移動できない。
6.音に関する禁止事項
午後六時以降、団地敷地内での口笛は厳禁とする。
口笛の波長は、彼らを呼び寄せる合図となる。住民が口笛を吹いているのを発見した場合は、口を塞いででも直ちに止めさせること。
また、自分自身の足音が「二つ」聞こえるようになった場合は、その場で立ち止まり、後ろを向かずに「お先にどうぞ」と唱えること。
7.404号室の監視
D棟404号室は「空室」である。
しかし、ドアの隙間から手紙やメモのようなものが差し出されている場合がある。それらには絶対に触れてはならない。
内容は「助けて」「お腹が空いた」「寒い」等であるが、全て欺瞞である。
風で飛ばないよう、靴で踏んで押さえることも禁止する。靴底を通じて「憑いて」くる。
清掃業者が来るまで放置すること。
8.異臭への対応
甘い腐敗臭(熟した果物が腐ったような臭い)を感じた場合は、即座にその場から風上へ退避すること。
その臭いは、空間が歪んでいる兆候である。
(中略)
15.赤い服の女性について
雨天時、赤いレインコートを着た女性が目撃される事例が多発している。
彼女は「私の子供を知りませんか」と尋ねてくるが、答えてはならない。「知りません」と答えても、「知っています」と答えても、結果は同じである。
唯一の対処法は、無言で会釈をし、彼女が通り過ぎるのを待つことである。
彼女のレインコートの下には、足がないという報告があるが、確認しようとしないこと。
16.緊急事態条項(サイレン)
団地内に設置された防災無線から、正午と午後五時以外にサイレンが鳴った場合。
それは「結界」が破られた合図である。
隊員は直ちに巡回を放棄し、管理事務所のシェルターへ避難すること。
住民の避難誘導は行ってはならない。間に合わないためである。
***
入力の手を止め、私はこめかみを押さえた。
画面に並ぶ文字列は、現代日本のものとは思えない。まるで、悪い冗談か、あるいはホラー小説の設定資料のようだ。
しかし、この藁半紙の質感、ガリ版のインクの匂い、そして所々に相田という人物が入れた赤ペンの書き込みが、これが「実用」されていたマニュアルであることを物語っていた。
特に気になったのは、相田による手書きのメモだ。
規約の余白に、走り書きでこう記されている。
『昭和六十一年五月追記:ルール5について。最近、這うものがコンクリートの上にも上がってくるようになった。塩が効かない。どうすればいい?』
『昭和六十一年八月追記:ルール16のサイレンは、もう信用できない。彼らが鳴らしている可能性がある。』
相田の筆跡は、追記が進むにつれて乱れ、恐怖に震えているのが伝わってくる。
当初は「住民を守る」という使命感に燃えていた彼が、次第に「何とかして生き延びる」ことへシフトしていった過程が見て取れた。
私は、この不可解なルールの意味を解読するため、知人のオカルト研究家・工藤(仮名)に連絡を取ることにした。
彼は民俗学の知識があり、こういった「奇妙な風習」や「地域限定のルール」に詳しい。
深夜であったが、彼は電話に出た。事情を話し、規約の写真をメールで送ると、数分後に折り返しの電話がかかってきた。
「……面白いね、これ。いや、面白いなんて言ったら不謹慎か」
工藤の声は、興奮と警戒が入り混じっていた。
「これ、どこで手に入れた?」
「古道具屋だよ。S県の緑ヶ丘団地のものだ」
「緑ヶ丘……ああ、あの『神隠し団地』か」
工藤は何かを知っているようだった。
「神隠し団地?」
「ネットの怪談板じゃ有名だよ。あそこは昔から行方不明者が多いって噂があった。でも、この規約は初めて見るな。非常に興味深い」
工藤は、紙をめくる音をさせながら続けた。
「この規約、構造がおかしいんだよ」
「どういうことだ?」
「普通の防犯マニュアルなら、『不審者を見たら警察に通報』が基本だろ? でも、ここには『警察』という単語が一度も出てこない。代わりに『管理事務所』や『シェルター』への避難を指示している」
言われてみればそうだ。まるで、警察などの公的機関が介入できない、あるいは介入させたくないような書き方だ。
「それに、このルールの作り方。これは『防犯』じゃない。『封印』の儀式に近い」
「封印?」
「ああ。例えば『息を止めろ』とか『名前を呼ぶな』『塩を持て』。これらは全部、民俗学的な『境界』を超える際の作法だ。つまり、この団地自体が、現世と異界の境界線上に建ってしまっている。それを無理やり『日常』として維持するために、この儀式めいたルールが必要だったんだ」
工藤の言葉に、田村さんの「入らずの間」という言葉が重なる。
「特に気になるのは、第16条のサイレンだ」工藤が声を低くした。
「結界が破られた合図、とある。これはつまり、この団地全体が巨大な檻(おり)であり、見守り隊の役割は、外敵から住民を守ることではなく、中の『何か』が出てこないように監視する看守だったんじゃないか?」
私はハッとした。第1話で私が感じた予感と同じだ。
「看守……。じゃあ、住民たちは?」
「囚人、とまでは言わないが、ある種の『人柱』あるいは『重し』として機能していたのかもしれない。人が多く住むことで、その土地の『陰の気』を中和しようとしていた、とかね」
そこまで話して、工藤は急に黙り込んだ。
「おい、どうした?」
「……いや、今、写真の拡大処理をしていて気づいたんだが」
「何が?」
「この規約の裏面。文字が透けて見えるだろ? これ、ただの裏写りじゃないぞ」
私は慌てて、手元の現物を裏返した。
藁半紙の裏側は無地だと思っていたが、経年劣化で茶色くなった紙面をよく見ると、薄い鉛筆書きで、地図のようなものが描かれているのが分かった。
目を凝らす。
それは、緑ヶ丘団地の配置図だった。
A棟からE棟までが箱型に並び、中央に公園がある。
しかし、その地図には、通常の地図にはない「赤い×印」がいくつも書き込まれていた。
公園の砂場。
給水塔。
C棟のエレベーター。
そして、D棟404号室。
さらに、地図の余白には、びっしりと名前が書かれている。
『佐藤、鈴木、田中、高橋……』
ありふれた苗字の羅列。しかし、その一部は二重線で消され、その横に小さな文字で『処理済』『転出(偽装)』『消失』と書き込まれていた。
「工藤、これ……」
「ああ、見えてるか。多分、それは『犠牲者リスト』だ。あるいは、これから犠牲になる予定の『候補者リスト』か」
背筋が寒くなる。
田村さんの名前を探した。あった。D棟の欄に『田村』の名前がある。しかし、そこには何も書かれていない。彼女は幸運にも、何もされずに転出できた数少ない例なのだろうか。
いや、田村さんの名前の横に、薄く、本当に薄く『保留』と書かれているのが見えた時、私はスマホを取り落としそうになった。
「……とりあえず、その資料は厳重に保管しておけ。原本は絶対に手放すなよ」
工藤はそう忠告して電話を切った。
部屋に静寂が戻る。
私は改めて、その「行動規約」と向き合った。
ただの紙切れだ。しかし、そこには数えきれないほどの怪異と、それに対抗しようとした人間たちの必死の足掻きが刻まれている。
ふと、規約の下の方、紙の端が少し破れていることに気づいた。
何か文字が書かれていたようだが、千切れてしまっている。
私は千切れた断面を合わせた。
そこには、タイプ打ちではなく、相田の手書きで、こう書かれていた形跡があった。
『ルール0:この規約を部外者に見せてはならない。読んだ者は、見守られる対象となる』
私は呆然と、その一文を見つめた。
読んだ者は、対象となる。
私は今、この規約を全文読み、テキストに起こし、さらに工藤にも読ませてしまった。
そして、これを読んでいる「あなた」も。
その時だった。
部屋の隅、クローゼットの奥から、カタッ、と小さな音がした。
普段なら、乾燥による家鳴りだと無視するだろう。
しかし、規約を読んだ直後の私には、その音が全く別のものに聞こえた。
『404号室の前を通る際は、息を止めること』
『赤い紐を投げて注意を逸らすこと』
『靴底を通じて憑いてくる』
私はゆっくりと、クローゼットの方を向いた。
そこには、私が先日実家に帰った際に履いていた、古い革靴がしまってあるはずだ。
その靴のつま先は、今、どちらを向いているだろうか。
外側か、それとも部屋の内側か。
確かめる勇気はなかった。
私は逃げるように視線を外し、ノートを閉じた。
だが、閉じたノートの表紙に、自分の指紋とは違う、小さな、子供のような手形が脂で白く浮き上がっているのを見て、私は短い悲鳴を上げた。
脂の手形は、ノートを開こうとするかのように、表紙の端に付着していた。
いつ付いた? 古道具屋か?
いや、さっきまでは無かったはずだ。
私は震える手で、アルコールティッシュを取り出し、その手形を拭き取ろうとした。
しかし、拭いても拭いても、脂はまたじわりと浮き出てくる。
まるで、ノートの内側から、何かが滲み出しているかのように。
「……本日、異常なし」
私は震える声で、相田の口癖を真似てみた。
それは自分を鼓舞するためというより、部屋の中にいるかもしれない「何か」に対して、「私は何も気づいていませんよ」とアピールするための、哀れな芝居だった。
しかし、私の耳には、窓の外から、遠く微かに口笛の音が聞こえていた。
時刻は、とっくに午後六時を回っていた。
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