第4話:証言者B・かつての新聞配達員
「見守り隊」の規約書という不気味な資料を入手した私は、団地の「内側」の視点だけでなく、「外側」からあの場所を見ていた人物の証言が必要だと考えた。
住民たちは、ある種の集団催眠や、閉鎖的なコミュニティ特有の同調圧力の中にいた可能性がある。ならば、定期的に団地に出入りしつつも、住民ではない人間――郵便配達員や新聞配達員、あるいは御用聞きといった立場の人間の目には、あの異様な団地はどう映っていたのだろうか。
私は再び、例のインターネット掲示板の過去ログを洗った。
膨大な書き込みの中から、『配達員やってたけど、あそこだけはガチでヤバかった』という趣旨の投稿を見つけ出した。投稿時期は数年前だが、文体には強い恐怖と、それを吐き出したいという切迫感が滲んでいた。
私はその投稿者のハンドルネームを手掛かりに、SNSの特定班のような真似事をして、ついにコンタクトを取ることに成功した。
証言者Bこと、坂本健一さん(仮名・54歳)。
彼は現在、隣県で運送業を営んでいる。
取材を申し込むと、彼は最初渋ったものの、「あの団地が取り壊された後のことを知りたい」と言うと、重い口を開いてくれた。
私たちは、彼の会社の近くにある国道沿いのドライブインで会うことになった。
深夜の店内は閑散としており、蛍光灯の白い光が、坂本さんの日焼けした顔に深い影を落としていた。
彼はブラックコーヒーを注文すると、タバコに火を点け、紫煙の向こうから私を値踏みするように見た。
「それで、あんた、あの緑ヶ丘団地の何を知りたいんだ?」
「全てです。特に、夜明け前の団地の様子について」
私がそう答えると、坂本さんは自嘲気味に笑った。
「夜明け前か。一番嫌な時間帯だな。……いいだろう。俺が体験したことを話すよ。ただし、信じるか信じないかはあんた次第だ。俺だって、今でも夢だったんじゃないかと思うことがある」
坂本さんが緑ヶ丘団地の新聞配達を担当していたのは、昭和六十二年から平成元年にかけての約二年間。彼が大学生だった頃だ。
当時、緑ヶ丘団地の配達ルートは、販売所の中で「罰ゲーム」と呼ばれていたという。
――どうして罰ゲームだったんですか?
「キツいからだよ。団地は階段しかないし、世帯数も多い。でも、それだけじゃない。先輩たちはみんな『あそこは空気が悪い』って言うんだ。物理的な意味じゃなくて、なんていうか、こう……重いんだよ。団地の敷地に入った途端、湿度がいきなり上がるような感覚があった」
坂本さんは灰皿に灰を落とした。
「それに、給料が良かった。あのルートだけ特別手当がついたんだ。『危険手当』なんて冗談で呼んでたけど、今思えば、所長は何か知ってたんだろうな」
――配達の時間帯は?
「朝刊だから、午前三時半から四時半くらいの間だ。真冬なんか真っ暗闇だよ。街灯も少なくて、団地の建物が巨大な墓石みたいに並んでる。俺はカブ(バイク)のエンジン音を響かせながら、A棟から順に配っていくんだ」
――その時間帯、誰かに会うことは?
「普通なら会わない。でも、あそこは違った。いるんだよ、『見守り隊』が」
坂本さんの口からその単語が出た瞬間、私は思わず身を乗り出した。
「腕章をつけた男たちが、二人一組で懐中電灯を持って歩き回ってる。午前四時にだぞ? 泥棒除けにしては異常だ。しかも、俺がバイクで通り過ぎようとすると、じっとこっちを見るんだ。挨拶もしない。ただ、俺が『余計なこと』をしないか監視してるような目つきだった」
――彼らと話したことは?
「一度だけある。俺がD棟の入り口でバイクを止めて、新聞を束ねてたら、隊長格らしい男――相田って名札をつけてた――が近づいてきたんだ。『ご苦労さん』なんて労いの言葉はない。いきなり『今日の広告チラシに、人の顔が印刷されたものはあるか?』って聞いてきた」
――人の顔?
「ああ。行方不明者の捜索願いとか、指名手配犯とか、そういうのかと思った。でも、相田は『人の顔が印刷されているチラシは、全て抜いてから投函しろ』って言うんだ。『目が合うと、住民が不安定になる』って。訳が分からないだろ? でも、彼の目が本気すぎて、逆らえなかった。その日はスーパーのチラシを全部抜き取って配ったよ。後で販売所で怒られたけどな」
坂本さんはコーヒーを啜り、一息ついた。
ここからが本題だと言わんばかりに、声を潜める。
「でも、見守り隊なんて可愛いもんだったよ。本当に怖かったのは、ポストだ」
――ポスト、ですか。
「当時の団地のドアには、金属製の新聞受けがついてただろ? ドアノブの横に、パカパカする蓋がついたやつだ。俺たちはそこに新聞を突っ込む。その『音』が嫌だった」
坂本さんは手で新聞を入れるジェスチャーをした。
「普通の家なら、スッと入って、カタンと落ちる。でも、緑ヶ丘団地の一部の部屋……特にD棟の四階あたりは、感触が違った。新聞を差し込むと、中で誰かが『掴む』んだ」
私は息を飲んだ。
「掴む?」
「ああ。まだ新聞が全部入りきっていないのに、向こう側から強い力でグイッと引っ張られる。最初は、早起きのおじいさんが待ってたのかな、と思った。でも、毎朝だぞ? しかも、午前三時四十分きっかりに。ある時、気になってドアに耳を当ててみたんだ」
坂本さんは自分の耳を指差した。
「生活音がしない。テレビの音も、足音も、寝息さえもしない。シーンとしてる。なのに、新聞を差し込んだ瞬間だけ、ものすごい力で引っ張られる。まるで、ドアのすぐ裏に、一晩中張り付いて待っていたみたいに」
――それは、どこの部屋でしたか?
「401、402、403……四階は全部だ。でも、404号室だけは違った」
やはり404号室だ。私はノートの記述を思い出す。『404号室は空室である』。
「404のポストは、ガムテープで目張りされていた。だから新聞を入れる必要はない。販売所の台帳でも『空室』になってた。でも、ある霧の濃い朝、俺はどうしても気になってしまったんだ。他の部屋が『引っ張る』なら、この目張りされた部屋の中はどうなってるんだろう、って」
若気の至りというやつだろうか、それとも団地の空気に当てられたのか。坂本さんは禁忌を犯した。
「俺は、404のドアの前に立った。ガムテープは古くなって、端の方が剥がれかけていた。俺はその剥がれた隙間から、ポストの蓋を指で押し上げて、中を覗いたんだ」
店内の空調の音が、やけに大きく聞こえた。
「暗くて最初は何も見えなかった。懐中電灯の光を少し当ててみた。ポストの穴から差し込んだ細い光の筋が、埃っぽい玄関を照らした。……靴が、山のようにあった」
前回の田村さんの証言と一致する。
「やっぱり、靴が?」
「ああ。でも、俺が見たのはそれだけじゃない。靴の山の頂上に、誰かが座ってたんだ」
――座っていた?
「体育座りをした、子供のような影。顔を膝に埋めて、じっとしていた。俺が『うわっ』と声を漏らした瞬間、その影が顔を上げた」
坂本さんの手が微かに震えている。
「顔がないんだ。のっぺらぼうとか、そういう意味じゃない。顔があるべき部分が、黒い空洞になってた。まるで、顔だけくり抜かれたみたいに。そして、その空洞の奥から、無数の『目』がこっちを見てた」
――無数の目……。
「人間じゃない。虫の複眼みたいな、小さくて光る目が、空洞の中にびっしりと詰まってた。それが一斉に瞬きをして、ギョロギョロと動き回った。俺は腰を抜かして、後ずさりした。その時だ。ポストの蓋が、内側からバチン! と弾かれたみたいに閉じた」
坂本さんは恐怖を振り払うように、タバコを灰皿に押し付けた。
「そして、ドアの向こうから声がしたんだ。くぐもった、複数の人間が同時に喋っているような声で」
『朝が来た。朝が来た。入れ替わりの時間だ』
「俺は悲鳴を上げて逃げ出した。バイクに飛び乗って、階段を駆け下りるみたいにして団地を出た。震えが止まらなかった。販売所に戻って、所長に『もう辞めます』って言ったよ」
――所長は何か言っていましたか?
「俺の顔を見て、何も聞かずに『……見たのか』とだけ言った。そして、『お祓いに行ってこい』って、給料とは別に一万円くれた。それで俺の新聞配達人生は終わりだ」
坂本さんの話は、これまでの情報を補完し、さらに深めるものだった。
404号室に巣食う「何か」は、単一の幽霊などではなく、集合体のような存在なのかもしれない。そして「入れ替わり」という言葉。規約書にも『パートナーが入れ替わっている可能性がある』という記述があった。
「でもな、話はこれで終わりじゃないんだ」
坂本さんは、カバンのポケットから一枚の写真を取り出した。
古びたカラー写真だ。日付は昭和六十三年と入っている。
「辞める数日前、気晴らしに団地の公園で撮った写真だ。当時はカメラが趣味でな。早朝の朝焼けが綺麗だったから、バイクを止めて一枚撮った」
写真を渡される。
朝焼けに染まる緑ヶ丘団地の全景。美しい風景写真に見える。
しかし、坂本さんはD棟の屋上付近を指差した。
「ここ、見てくれ。給水塔の上」
私は目を凝らした。
給水塔の点検用ハシゴ。そこに、何かがしがみついている。
最初はシミかと思った。だが、よく見ると、それは人間のような形をしていた。
赤い服を着ている。
そして、その「人間」の首は、ありえない方向に――百八十度真後ろにねじ曲がり、カメラの方を、つまり撮影している坂本さんの方を向いていた。
「これ、現像してから気づいたんだ。撮影した時は誰もいなかったはずだ。でも、もっと怖いのはここだ」
坂本さんの指が、給水塔の下、D棟の四階のベランダを指した。
404号室のベランダだ。
そこには、白いシーツのようなものが干されている。
いや、違う。
シーツに、文字が書かれている。
拡大鏡がないので正確には読めないが、黒い塗料で殴り書きされた文字の羅列が見える。
『サカモト サカモト サカモト サカモト サカモト』
全身の血が凍りつく感覚。
「俺の名前だ。表札も出してないし、誰にも名乗ってない。ただのバイトの俺の名前が、どうして404号室のベランダに書かれてるんだ?」
坂本さんは写真をひったくるように回収し、カバンにしまった。
「俺はこの写真を焼いたつもりだったんだが、どうしても捨てられなくてな。戒めとして持ってる。『興味本位で深入りするな』っていう警告だ」
彼は席を立った。
「あんたも気をつけな。あの団地はもうないかもしれないが、あそこにいた『連中』が全滅したなんて保証はどこにもない。土地に染み付いてるんだよ。あるいは、あの日記を持ってるあんたに、もう移ってるかもしれない」
会計を済ませ、店を出る。
夜風が生温かい。
坂本さんはトラックに乗り込む前、最後にこう言い残した。
「そういえば、相田って隊長。あいつ、最後はおかしくなったって聞いたけど、俺はそうは思わないな」
「どういう意味ですか?」
「あいつは、人間側じゃなかったんだよ。最初から。あいつの書く日誌、読んだことあるか?」
「ええ、持っています」
「あいつの字、綺麗すぎるだろ? 機械みたいに。俺、一度チラッと見たけど、あれは人間が書く字じゃない。定規で測ったみたいに均等で、筆圧が一定すぎる。……相田自身が、団地が生み出した『システム』の一部だったんじゃないか?」
坂本さんのトラックが走り去っていく。
私は一人、国道沿いに残された。
相田が人間ではない?
そんな馬鹿な。あの日誌には、彼の苦悩や恐怖が――いや、待てよ。
私は帰宅後、すぐに日誌を見返した。
一巻から七巻まで。
文字の形。大きさ。筆圧。
坂本さんの言う通りだ。
震えや乱れはあるものの、文字そのものの「骨格」が、第一巻の一文字目から、第七巻の最後の一文字まで、完全に一致している。
筆跡鑑定の専門家が見れば、「同一人物」と判定するだろう。しかし、あまりにも「同一すぎる」のだ。
人間なら、数年の間に多少は癖が変わる。疲れていれば崩れる。
だが、相田の文字は、恐怖で乱れてはいても、フォントを変形させたかのように、根本的な構造が崩れていない。
私は、第七巻の最後のページ、黒く塗りつぶされた部分を再び見た。
『ゆるして』『あけるな』
その文字の羅列の中に、私はある法則性を見つけた。
縦読み、あるいは斜め読みではない。
文字の配置だ。
黒く塗りつぶされたページを遠目で見ると、その濃淡が、一つの巨大な「目」の形を浮かび上がらせていたのだ。
それも、坂本さんが言っていた「複眼」のように。
無数の「ごめんなさい」が集まって、一つの巨大な目が、ページの中から私を見つめている。
「……ッ!」
私はノートを放り投げた。
ノートは床に落ち、バサリと開いた。
開いたページは、第4巻。
そこには、今日の取材内容を予見していたかのように、こう書かれていた。
『昭和六十二年十一月四日
新聞配達員が404号室を覗いたようだ。
目が合ったと報告を受けた。
彼に「印」をつけた。もう逃げられない。
名前はサカモト。
彼が団地を去っても、記録は残る。彼が語れば、その言葉を聞いた者にも「印」は伝染する』
私は部屋の壁に背中を押し付けた。
坂本さんの話を聞いた私。
そして、これを読んでいるあなた。
「印」は、確実に拡散している。
窓の外で、バイクの音がした。
新聞配達にはまだ早い時間だ。
いや、そもそも私の住むマンションはオートロックで、玄関までバイクが入ってくることはない。
けれど、その音は明らかに、私の部屋のドアの真ん前で止まった。
カシャン、というスタンドを立てる音。
そして、郵便受けの蓋が、ゆっくりと持ち上げられる音。
カタリ……。
私は息を殺し、玄関の方を凝視した。
郵便受けの隙間から、赤い光が漏れているのが見えた。
そして、その隙間から、ズルリと長いものが差し込まれようとしていた。
新聞ではない。
それは、赤い、湿った、何か。
私は動けなかった。
第4話にして、私は初めて理解した。
私は「過去の事件」を調べているのではない。
「現在進行形の儀式」に参加させられているのだと。
(続く)
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