第2話:証言者A・元住民の主婦

古道具屋で入手した「見守り隊日誌」に記された内容は、単なる管理人の妄想なのか、それとも事実の記録なのか。

その真偽を確かめるため、私はネットの掲示板やSNSを駆使して、かつての「緑ヶ丘団地」の住民を探し始めた。


団地が取り壊されてから数年が経過しており、住民たちは散り散りになっている。しかし、幸運なことに、「緑ヶ丘団地同窓会」という小規模なFacebookグループを発見することができた。

私は身分を明かした上で、取材協力の依頼メッセージを管理人に送った。怪しまれることを覚悟していたが、意外にも数名の元住民から反応があった。


その中の一人、田村悦子さん(仮名・58歳)は、昭和五十五年から平成二年にかけて、家族と共に緑ヶ丘団地のD棟に住んでいたという。

日誌に頻出する「D棟」の住人であり、かつ私が持っている日誌の期間と居住時期が完全に重なっている。

私は彼女に連絡を取り、都内のファミリーレストランで話を聞くことになった。


待ち合わせ場所に現れた田村さんは、パート帰りだという小柄で品の良い女性だった。しかし、その表情にはどこか疲れの色が滲んでおり、私の顔を見るなり、少し戸惑うような視線を向けた。


「あの、本当に、あそこのことを記事にするんですか?」

席に着くなり、彼女は開口一番そう言った。

「はい。まだ調査段階ですが、興味深い資料が手に入りまして」

私は鞄から、例のノートの束を取り出した。

田村さんの視線が、ノートの表紙に釘付けになる。彼女の手が、無意識にテーブルの上の紙ナプキンを握りしめたのが分かった。


「これ……懐かしい。いえ、懐かしいというより……やっぱり、残っていたんですね」

「ご存じですか?」

「ええ。見守り隊のノートでしょう? その文字、相田さんですよね」

彼女は震える指先で表紙を撫でた。

「相田さん、あそこの隊長でしたから。私たち子供にとっては、学校の先生よりも怖い存在でした」


田村さんの証言により、ノートの筆者である「相田」が実在の人物であることが確定した。

私はICレコーダーのスイッチを入れ、インタビューを開始した。


――まずは、当時の団地の様子について教えてください。


「緑ヶ丘団地は、当時としては最先端のニュータウンでした。緑も多くて、公園もあって、同世代の子供もたくさんいて。最初はすごく楽しかったんです。でも、住み始めて半年くらい経った頃からかな。何かが違う、って子供心に感じ始めました」


――何が違ったんでしょうか?


「ルール、ですね。とにかく決まり事が多かった。ゴミ出しの時間はもちろん、ベランダに布団を干す向きとか、廊下を走ってはいけないとか。それはまあ、どこの団地でもあることかもしれません。でも、あそこは『夜のルール』が異常だったんです」


田村さんはドリンクバーのアイスコーヒーを一口飲み、声を潜めた。


「夕方の五時になると、『夕焼け小焼け』のチャイムが鳴るでしょう? 普通の町なら『家に帰りましょう』の合図です。でも、緑ヶ丘では『窓を閉めて、カーテンを隙間なく閉めなさい』っていう合図だったんです。親からは厳しく言われていました。『五時を過ぎたら、絶対に外を見るな』って」


――外を見てはいけない?


「ええ。特に、団地の中央にあった大きな広場の方角は絶対ダメ。一度、弟が隠れてカーテンの隙間から外を覗いたことがあるんです。そうしたら、母親が血相を変えて飛んできて、弟の頬を張り飛ばしました。普段は優しい母だったのに、あんなに怒った顔は見たことがありません」


――弟さんは、何を見たと言っていましたか?


「『白い服の人たちが、行進してた』って。お祭りみたいに、何十人も、無言で歩いていたって。でも、そんなイベント、自治会の回覧板には載っていないんですよ」


私は手元のメモに「白い服の行進」と書き留めた。日誌には「赤い服の女性」の記述があったが、それとは別なのだろうか。それとも、相田が記録しなかった、あるいは記録できなかった事象なのだろうか。


――見守り隊について、詳しく聞かせてください。


「彼らは、ボランティアの自警団ということになっていました。腕章をつけて、夜になると懐中電灯を持って見回るんです。でも、泥棒を捕まえたなんて話は聞いたことがありません。彼らが捕まえていたのは、いつも『団地の子供』か『団地の住人』でした」


――どういうことですか?


「例えば、私が塾の帰りに遅くなって、夜の八時くらいに団地の敷地に入った時のことです。自転車置き場で、相田さんたちに見つかったんです。別に悪いことをしていたわけじゃありません。ただ家に帰ろうとしていただけです。でも、相田さんは鬼のような形相で私の腕を掴んで、『息を止めろ!』って怒鳴ったんです」


――息を止めろ、ですか?


「はい。訳が分からなくて、怖くて泣きそうになっている私に、彼は『C棟の入り口まで、絶対に息をするな。吸い込むぞ』って言うんです。周りを見ても誰もいないのに、相田さんたち見守り隊の三人は、何かを目で追うようにしながら、私を囲んで必死に歩きました。私も必死で息を止めました。数十メートルが、永遠のように感じました」


田村さんはそこで言葉を切り、自分の二の腕をさすった。まるで、かつて掴まれた感触を思い出しているかのように。


「ようやくC棟の入り口に入った時、相田さんが『よし、もういい』って言いました。その時、背後の暗闇から、ヒュウウウッていう、空気が抜けるような音が聞こえたんです。風の音だったのかもしれません。でも、相田さんは『危なかった、連れて行かれるところだった』って呟いていました」


私は日誌の一節を思い出した。『404号室の前を通る際は、息を止めること』。

息を止めるという行為は、あそこでは一種の防御策として機能していたのだろうか。民俗学的に言えば、死穢(しえ)を避けるためや、異界のものに気づかれないようにするために息を止めるという伝承は各地にある。


――404号室について、何かご存じですか?


その質問をした瞬間、田村さんの顔色が明らかに変わった。

先ほどまでの困惑混じりの表情が、明確な「恐怖」へと変化したのが分かった。

彼女は周囲の客席を気にするように視線を巡らせてから、テーブルの上に身を乗り出した。


「やっぱり、日誌に書いてありましたか? 404のこと」


――はい。頻繁に出てきます。住人がいないはずなのに、何かがいるような記述が。


「私は……D棟の304号室に住んでいました。404の真下です」


私は思わず息を飲んだ。


「あそこは、私が住んでいた十年間、ずっと空室でした。表札も出ていないし、郵便受けもガムテープで塞がれていました。でも、音は聞こえるんです。毎晩のように」


――どんな音ですか?


「最初は、子供が走り回るような足音でした。タタタタッて。上の階に誰か越してきたのかな、って家族で話していたんです。でも、管理事務所に聞いても『空室です』の一点張り。そのうち、音が変わってきました。何ていうか……重いものを引きずるような、ズズズ、ズズズっていう音と、硬いものが床に当たる音」


田村さんは、テーブルをコツ、コツ、と指で叩いた。


「ある夜、天井から話し声が聞こえてきたんです。コンクリートの団地だから、上下の音はよく響くんですけど、それにしてもクリアに聞こえました。男の人と、女の人の声。喧嘩をしているようでした。でも、言葉が変なんです」


――変とは?


「日本語なんですけど、意味が通じないんです。『昨日の影が乾いてない』とか、『犬の背中を裏返しにしろ』とか。単語は聞き取れるのに、会話として成立していない。それが何時間も続くんです。父が我慢できずに、苦情を言いに行こうとしました。でも、母が泣き叫んで止めたんです。『行ったら帰ってこられない』って」


――お母様は、何かを知っていたんでしょうか?


「母は霊感が強いとか、そういう人ではありませんでした。でも、団地の噂話には敏感でしたから。主婦たちの間では、404号室は『開かずの間』ではなくて、『入らずの間』って呼ばれていたそうです。入ってはいけない場所」


「でも」と田村さんは続けた。「私、一度だけ見たことがあるんです。404のドアが開いているのを」


店内のBGMが、一瞬遠のいた気がした。


「小学校五年生の時でした。学校から帰ってきて、階段を上がっていたんです。三階の自分の家に行こうとしたんですが、考え事をしていて、間違えて四階まで上がってしまったんです。ランドセルを背負ったまま、いつものように一番奥の部屋に向かいました。自分の家だと思い込んで」


彼女の話によると、D棟の構造は一フロアに四部屋。階段を上がって右手の奥が4号室にあたる。


「ドアの前に立って、鍵を出そうとした時、気づいたんです。ドアが少しだけ、数センチくらい開いていることに。あれ? お母さん、鍵かけ忘れたのかな、と思って手をかけました。その時、隙間から中が見えたんです」


田村さんは水を飲み干し、乾いた唇を舐めた。


「部屋の中は、真っ赤でした」


――赤い壁紙、ということですか?


「いいえ。光です。夕焼けのようなオレンジ色じゃなくて、もっとドギツイ、現像室のランプのような赤色。その赤い光が、部屋の中に充満していました。そして、玄関の三和土(たたき)のところに、靴が並んでいました。何十足も」


――何十足も?


「はい。男の人の革靴、ハイヒール、子供の運動靴、ボロボロのサンダル……。それが、玄関を埋め尽くすくらいびっしりと、全部『つま先を部屋の内側に向けて』並べられていました。まるで、たくさんの人が外から入ってきて、そのまま奥へ消えていったみたいに」


私は背筋が粟立つのを感じた。

日誌の規約にあった『赤い服の女性』。そして田村さんが見た『赤い部屋』。赤という色が、この団地における危険信号であることは間違いなさそうだった。


「私、怖くなって動けなくなりました。そうしたら、ドアの奥、リビングの方から、誰かが歩いてくる音がしたんです。ペタ、ペタ、ペタって、裸足の音が。その足音に合わせて、鈴のような音がシャン、シャンって鳴っていました」


――姿は見ましたか?


「いいえ。見る前に逃げました。足音が玄関に近づいてきた瞬間、強烈な腐臭……生ゴミと線香を混ぜたような臭いが漂ってきたんです。それで我に返って、階段を転げ落ちるようにして三階まで逃げました。家のドアを開けて飛び込んで、鍵をかけて、布団に潜り込んで震えていました」


――その後、何か変わったことはありましたか?


「その日の夜です。見守り隊が来ました。相田さんと、もう一人のおじさんが、うちのチャイムを鳴らしたんです。父が出ると、相田さんは玄関先でこう言いました。『お宅のお嬢さん、今日、四階に上がりましたね?』って」


田村さんは、恐怖よりも不思議そうな顔をした。


「どうして分かったんでしょうか。誰もいなかったはずなのに。相田さんは父に、『四階の廊下に、お嬢さんの匂いが残っていた』って言ったそうです。そして、一枚のお札(ふだ)を渡してきました。『これを一週間、お嬢さんの枕の下に入れて寝かせなさい。さもないと、迎えが来る』って」


――お札……。どんなものでしたか?


「真っ黒な紙に、金のインクで変な記号が書かれたものでした。お経でもない、見たこともない文字。父は気味悪がって捨てようとしましたが、母が必死で止めて、言われた通りにしました。その一週間は、毎晩悪夢を見ました。赤い部屋の中で、たくさんの靴に埋もれて息ができなくなる夢です」


そこまで話すと、田村さんは大きく息を吐いた。


「あの団地を出る時、本当にほっとしました。でも、今でも時々思うんです。あの404号室に並んでいた靴の持ち主たちは、みんなどこへ行ったんだろうって。そして、あの時もし私がドアを開けていたら、私の靴もあそこに並んでいたのかなって」


インタビューは一時間ほどで終了した。

帰り際、田村さんはふと思い出したように言った。


「そういえば、相田さん。団地が取り壊される少し前に、行方不明になったって噂を聞きましたよ」


――行方不明?


「ええ。最後まで立ち退きを拒否して、一人であの管理事務所に住み着いていたそうです。工事の人が無理やり入った時には、もう誰もいなかったとか。ただ、事務所の壁一面に、あのノートと同じ文字で、びっしりと『御免なさい』って書いてあったそうです」


私は礼を言って彼女と別れた。

ファミリーレストランを出ると、外はすっかり暗くなっていた。

街灯の光が、アスファルトに私の影を長く伸ばしている。

私はふと、自分の足元を見た。

靴。

田村さんの話に出てきた、404号室の玄関に並ぶ大量の靴。

つま先は全て部屋の内側を向いていたと言っていた。つまり、彼らは「入っていった」のだ。そして、二度と出てこなかった。


私は駅へ向かいながら、ノートの記述を反芻していた。

相田は知っていたのだ。404号室が何であるかを。

そして、彼ら見守り隊の本当の任務は、住民を守ることではなく、「404号室からあふれ出るもの」を、団地の中に留めておくことだったのではないか。

あるいは、「生け贄」となる住民が逃げ出さないように監視していたのか。


駅のホームで電車を待っていると、ポケットの中のスマートフォンが振動した。

見知らぬ番号からの着信。

普段なら無視するところだが、虫の知らせか、私は通話ボタンを押した。


「……もしもし」


受話口の向こうからは、ザーッというノイズだけが聞こえる。

切ろうとした瞬間、ノイズの奥から、微かな声が聞こえた。


『……見つけた』


それは、機械的で抑揚のない、しかしどこか聞き覚えのある男の声だった。

私は反射的に通話を切った。

心臓が早鐘を打つ。

今の声は、誰だ?

田村さんへの取材を嗅ぎつけた何者かか。

それとも、あのノートにまだ「持ち主」の念が残っているのか。


私はカバンの中のノートを強く握りしめた。

調査はまだ始まったばかりだ。

次は、ノートに挟まれていた「規約書」について詳しく調べる必要がある。

あそこに書かれた奇妙なルールの数々にこそ、この団地のシステムの根幹が隠されているはずだ。


電車が到着するアナウンスが流れる。

ホームに入ってきた電車の窓ガラスに映った私の顔の後ろに、一瞬、赤い服のようなものが映り込んだ気がして、私は慌てて振り返った。

そこには疲れた顔のサラリーマンが立っているだけだった。


だが、私の耳の奥には、田村さんが言っていた「シャン、シャン」という鈴の音が、微かにこびりついて離れなかった。

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