1-2 早く地球に帰りてぇ……


「月面ってどういうことだよ!」


 俺は気が動転し、大声で叫んでしまった。

 心臓の鼓動がバクンバクンとがなり立て、呼吸が荒くなる。

 『月』というのは夜空に浮かぶ、あの『月』のことなのか?

 

 俺ははっとして、両腕に力を込め、軽くベッドを押してみた。

 すると――大して力を入れたわけでもないのに、全身がふわっと浮き上がった。


 ……そうか、そういうことか。

 

 目が覚めた時からずっと感じていた違和感の正体がようやく判明した。


 重力が小さいのだ。


 ベッドに寝ているはずなのに、なぜか寝ている実感が得られなかったのは、このせいだったのか。

 月の重力は確か――地球の6分の1。腕の力だけでも、寝そべった状態から簡単に体を浮かすことができる。

 これはもう、ここが地球ではないことの何よりの証拠だ。他に説明のしようがない。紛れもなくここは地球ではないのだ。


「なんてこった……」


 俺は底しれぬ孤独感と不安感に苛まれた。文字どおり地に足がついていない感覚だ。


 この部屋は堅牢に作られているように見えるが、隔壁の外側は真空の宇宙。何らかの事故が起きて壁に穴が開いたとしたら、たちまち窒息してしまうということなのだ。想像しただけでも息苦しくなってくる。

 それだけじゃない。地球は遥か遠方にあり、簡単には帰れない。どれぐらい遠いのかはわからないが、海外へ行くのとは比較にならないほど、とんでもなく離れていることだけはわかる。地球からこっちへ来るのも大変だ。ここで何か大事故が起きたとしたら、地球からの救援が到着するまでに全滅してしまうのではないだろうか。


 そもそも月なんて、人間が居ていい場所ではないのだ。

 

 俺が動揺していることに気がついたらしく、青い眼の彼女はベッドに近づくと、優しく上腕部をさすってくれた。皮膚を通じて彼女の慈愛が伝わってくるようだ。


「改めて自己紹介をさせてください。

 私はファナ・クベロス。保安部の救急課所属です。

 念のため、ご自分のお名前をおっしゃっていただけますか?」

「ミヤヅカ……レンマ」


 彼女はゴーグルの奥で藍色の瞳を泳がせた。

 このゴーグルはいわゆるAR(拡張現実)グラスであり、クラウドと通信をして視野内に情報を表示することができるのだ。

 視線移動と瞬きで基本的な操作はできるし、ハンドジェスチャーや内蔵マイクを使えば文字の入力も可能だ。

 彼女のゴーグルにウィンドウらしきものが表示され、リストがスクロールしているのが見える。住民データベースと照合しているのだろう。


「日本政府のデータバンクで、声紋と網膜の確認ができました。

 まずは、ご家族にレンマさんの無事をお伝えしないとね――あっ!」


 画面内のリストを見る彼女の表情が一瞬こわばった。

 親や兄弟の項目が空欄であることに気づいたのだろう。

 親はとっくに死んでいるし兄弟もいない。俺は天涯孤独の身なのだ。


「あの……ごめんなさい」


 彼女は申し訳なさそうに頭を垂れた。


「いや、大丈夫。

 誰にも連絡しなくていいよ。

 俺、親戚も友達もいないから」


 俺がそう告げると、彼女は一瞬たじろいだ。


「……でも、あなたが行方不明になって心配している人がいるかも……」


 友達がいないことはさっき伝えたつもりだったが、理解してもらえなかったらしい。


「いないよそんな奴。

 俺、一人暮らしだし、働いてるわけでもないから……」


 そう答えると、彼女は何と返事したらいいかわからない様子で黙ってしまった。

 社会と関わりを持たずに生きることは俺にとっては当たり前の日常だが、彼女には信じられないことなのだろう。俺は孤独でいることに満足している。彼女から変に同情の言葉をかけられてしまったら、情けない気分になってしまいそうだ。


「それより警察とか大使館とかには連絡してくれてるんだよな?

 俺、地球には帰れるのか?」


 俺は慌てて話題を変えた。

 だが、地球に帰りたいという願望は紛れもない本音だ。

 無尽蔵の大気と、体のバランスを安定させてくれる強力な重力。

 それらの素晴らしい恩恵に、俺は今さらながら気がついたのだ。


「ごめんなさい、まだわからないの。

 なにしろ前例の無いことだから、どうすべきか司令部で検討しているらしいわ」

「検討……ってことは、最悪、帰れない可能性もあるってことか?」

「……簡単ではないの。人の輸送には、とてもお金がかかるから……」

「そんな!

 俺、こんなとこで生きてくなんて無理だよ!」

「個人的には月面基地はとても安全だし、不自由を感じることもなくて、とてもいいところだと思うけど……。

 やっぱりレンマさんは地球に帰りたい……ですよね?」

「そりゃそうだよ。

 俺には家も無いし財産もないけど、地球で生まれて地球で育った。

 空気と重力があるところじゃないと、安心なんてできねぇよ」

「そう……ですよね」


 彼女は口ごもってしまった。

 何も悪くない、むしろ恩人でしかない彼女にこんな悲しそうな表情をさせてしまったことについては心が痛む。だが、このまま地球に戻らず、生涯を月面で暮らすなどという選択肢は、俺のなかには無かったのだ。


 そのとき、廊下からカツンカツンと大きな足音が近づいたかと思うと、おもむろに病室のドアが開いた。


「まだここにいたのか?」


 高圧的な声とともに、大柄の男が入ってきた。


「アレシオ……」

 

 アレシオと呼ばれたその男は巨漢だった。

 身長180センチほどで特別に大きいというわけではなかったがアメフトの選手のような屈強な体格で、胸板や上腕は大きく盛り上がっている。欧米人らしい彫りの深い顔立ちで、オールバックの黒髪は綺麗に整えられ、キリリとしたブラウンの眼には自信がみなぎっている。ファナと同じくコバルトブルーのユニフォームを着ているから、同僚の保安員なのだろう。羨むほどのイケメンだが、その口もとは不機嫌そうに歪んでいた。


「ファナ。

 そんな奴の面倒を見ても時間の無駄だぞ」

「そ……んな」


 心無い言葉に、ファナは訴えるような素振りを見せたが、男の態度は揺るがない。

 

「記録を見ただろ。

 学歴もなく仕事もせず、毎日をなんとなく生きているだけの男だ。

 俺達の時間をこれ以上割くのは無駄以外の何物でもない」


 アレシオは本人が目の前にいることなど気にも留めず、酷い言葉を吐いた。まるで傍らに置かれているモノについて説明しているようだ。


「しかも趣味の項目を見てみろよ。

 アニメ鑑賞とゲームだとよ!

 まったくいい歳をして、いまだに頭の中はガキのまんまだ」

「アニメ?」


 ファナは驚いたような顔をして俺を見た。

 大人がアニメを見るなんて信じられないといった表情だ。

 まぁ確かに誇れるような趣味ではないが、そこまで言われる筋合いはない。


「う、うるせーな!」


 思わず声を上げると、アレシオのブラウンの瞳が俺を睨んだ。

 まるで俺がモノではなく、人語を解する高等生物であることにようやく気づいたような反応だ。


「何を趣味にしようが、俺の勝手だろ!

 だいたい俺は被害者なんだぞ、口の利き方ってもんがあるだろが!」


 俺は日本語でまくしたてた。

 ゴーグルがどう翻訳したのかはわからないが、口調からして猛烈に怒っていることは伝わっているだろう。

 しかし俺の精一杯の虚勢にも、この大男は少しも動じることがなかった。


「それはこっちのセリフだ!

 お前がぼんやりしていて誘拐されたせいで、どれだけ経費が使われたと思ってる!

 仮死状態のお前を蘇生させるには、莫大な費用がかかったんだぞ!

 態度を改めるのはお前のほうだ!」


 何かを言い返したかったが、言葉が出ない。

 俺が誘拐されたのは、俺が弱者だからだ。

 強靭な肉体を持ち、注意深く歩いていれば、誘拐の標的にされることもなかったかもしれない。


「くそ……」


 黙り込んだ俺から視線を外すと、アレシオは乱暴にファナの腕を掴んだ。


「さぁ、行くぞ。

 今日はメディアの取材対応があるだろ」


 吐き捨てるように言うと、男はせかすようにファナを促した。こいつの態度には逆らい難い威圧感がある。彼女は憂いに満ちた眼を俺に向けると、諦めたように小さく頷いた。

 

「……うん。わかった」


 ファナは少し緩んでいた表情をきゅっと引き締めると、ベッド脇の椅子から立ち上がり、俺の腕にそっと手を置いた。


「それでは失礼します。

 安静にして、ゆっくりお休みください」


 寂しそうな微笑を残し、彼女はアレシオと共に病室を出ていった。


 俺はひとりになった。

 今まで気にならなかった空調音がやたらと大きく聞こえる。

 ひとりでいるのが好きで、いつもひとりで暮らしてきた俺だったが、今、初めて孤独でいることの辛さを感じていた。 


=== 登場人物 ===

レンマ=宮塚練馬(みやづか・れんま)

 22歳。男性。日本人。

 生まれも育ちも秋葉原。高校中退の無職。人よりちょっとゲームが上手い。


ファナ・クベロス

 19歳。女性。月で生まれて月で育った(スペイン系)。

 保安部救急課所属。義務感が強く仕事熱心。誰にでも優しいが、どこか寂しそう。


アレシオ・ロンバルド

 21歳。男性。アメリカ人。

 保安部警備課所属。出世を目指す野心家。日本人もアニメも見下している。

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