エピソード1:異世界誘拐
1-1 誘拐されたら月だった
「◯※□✕?」
柔らかな女性の声がして、俺は自分が目覚めていることに気がついた。
混濁した意識の中で、眼の前に広がる白い壁をぼんやりと見つめる。幾何学的に配置され、それぞれが淡く白い光を放っている半透明の樹脂。これは照明装置のように見える。
壁に照明?
いや、これは壁じゃない……天井だ!
どうやら俺は……仰向けに寝ているらしい。
俺?
……俺って……誰だっけ?
……名前は、レンマ。
間違いない。
最後の記憶は……そうだ。
俺はゲーセンからの帰り道、のんびりと秋葉原のジャンク通りを歩いていた……。
その後は……。
だめだ。記憶に霧がかかったように曖昧だ。
いったい……何があった?
手足を動かして感覚があることを確認しながら周囲を見る。すると、藍色の2つの瞳が俺をじっと見つめていた。
青いフレームのゴーグルの奥で瑞々しく輝くその眼には、敵意や猜疑心など微塵も感じられない。俺のことを心から気遣っている優しい眼だ。
だが――誰だ?
知らない女性なのか、思い出せないだけなのか……。
年齢は俺より少し若い、二十歳ぐらいだろうか。褐色の肌は若く健康的で、くっきりと際立った大きな眼は印象的だ。思わず惹きつけられてしまうような魅力がある。
俺の視線に気づいたのか、彼女は小さく微笑むと、肩まで伸びたダークブルーのストレートヘアを軽くかき上げ、手元で何やら作業を始めた。
しなやかな彼女の所作に心地よさを覚えながらも、俺は状況が掴めないまま、ただその様子を見守ることしかできなかった。
「#□¥△◯ー、✕◯…□◯」
彼女の言葉が理解できない。
何語だろうか?
俺は日本語しか話せないが、その異質な雰囲気は、少なくとも英語ではないような気がする。
「%◯&△、÷△¥…」
彼女は再び俺に声を掛けると、白いフレームのゴーグルを差し出した。これをかけてみろということらしい。
受け取ろうとして右腕を上げようとしたが、上腕が上手く動かせないことに気がついた。怪我をしているわけではないが、筋肉が強張っているようで、力加減が上手くいかないのだ。
そんな俺の様子を察したのか、彼女はゴーグルのテンプルを両手で開くと、ゆっくりと丁寧な動作で俺に装着してくれた。コバルトブルーの服から溢れそうな彼女の豊かな胸が目前に迫る。ほのかな石鹸の香りが俺の鼻腔をくすぐり、温かな吐息が頬を撫でる。
心臓が早鐘を打つ。どうやら俺という人間は、こういうシチュエーションへの耐性が著しく低いらしい。
「※△%◯……ますか?
私の言っていること、わかりますか?」
突然、耳元から日本語の合成音声が飛び込んできた。
そうか。これはただのゴーグルじゃない。同時通訳機能を備えたスマートデバイスなのだ。
似たようなものをネットカフェで使っていたが、あれは粗悪なレンタル品だった。スキー用ゴーグルのように重くてごっつい安物だ。それに比べ、これは普通のメガネと区別がつかないほど軽くて小さい。よほど高価なものに違いない。
「私の言葉、理解できますか?」
彼女は同じ言葉を繰り返した。
通訳機能の確認をしているのだ。
喉の調子は良くないが、返事をしなければならない。
「……ああ。わかるよ」
なんとか言葉にはなったが、掠れたような声になってしまった。
「よかった」
彼女の声が明るくなった。
俺のことを本当に心配してくれていたのだろう。
自分の身に何が起きたのかは分からないが、次第に俺の中で緊張の糸がほぐれていくのを感じた。
「体の具合はどうですか?」
そう聞かれ、改めて自分の体の状態を確認してみる。
軽い尿意はあるが、幸い体のどこにも痛みはない。
感覚は鈍いものの、手や足の指先も動かすことができる。
ただ、体全体が硬直したような違和感が拭えない。
「……まだ、うまく動けないけど……なんとか大丈夫みたいだ」
「そう。
医療ボットの報告も、蘇生プロセスは問題なく完了したと表示されているわ。
もう安心よ」
「そ……蘇生って……いったい何があったんだ?」
俺は事故に遭ったのだろうか。
顎を引いて自分の体を見下ろしてみると、見慣れないライトグリーンの簡素な服。これは患者に着せる院内着だろう。服に隠れていて良くは見えないが、胸には心拍を測るパッチがいくつか貼られている。左腕には透明のチューブが差し込まれていて、栄養剤らしきものが血管に送り込まれている。
間違いない。ここは……病室だ。
俺の身に、何が起きたのか……。
あまりにもわからないことが多すぎて、俺の中で不安感が高まっていく。
「落ち着いて聞いてください。
あなたは……誘拐されたんです」
「ゆ……誘拐!?」
あまりにも予想外の言葉に、思わず背中を仰け反らせた。
交通事故とか、強盗に襲われたとか、ありえそうな可能性は他にも色々あるだろうに、よりによって誘拐とは。そもそも俺は無一文だし、家も無いし、有名人でもない。誘拐する理由なんてあるわけがない。
「いったい、なんで!?」
彼女の表情が曇り、躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「犯人は捕まっていないので動機はわかりません。
でも、あなたは無事に救出されたの。
一時的に冷凍されていた組織も、蘇生に成功したわ。
もう心配する必要はないのよ」
「れ、冷凍って、俺は生鮮食品かよ!」
俺は改めて両手の指を曲げたり伸ばしたりしてみた。
どうも筋肉が硬直しているように感じるのは後遺症ということか?
「ちくしょう!
なぜ俺がこんな目に!」
俺は次第に腹立たしくなり、思わず叫んでしまった。
人を何だと思ってるんだ!
俺がいったい何をした!
誰にも迷惑かけず、地味に生きていただけじゃねぇか!
そう心の中で毒づいたとき、ふと疑問が湧いた。
そもそもここはどこなのか?
秋葉原の病院にしては綺麗すぎるし、彼女は外国語を喋っている。いったいどこまで運ばれてしまったのか。日本に帰ることはできるのか?
「ここは……どこなんだ?」
俺は答えを聞きたいような聞きたくないような複雑な心境で、恐る恐る彼女からの返答を待った。
「ここは居住区の中にある病院です。
最新の設備が整えられている総合病院だから安心してください」
「居住区?」
「ええ。イングレッソデラルナ基地の居住区です」
「イ……イングレ………?」
「そう。月面のイングレッソデラルナ基地」
「月面って……」
俺は絶句した。
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