第17話 昇格─プロモーション─
まるで、真夏の風景をそこだけ切り抜いたような空気をまとう──その男。
光の中に、色彩を奪う影だけが立っているみたいだ。
「久しぶり?」
瑠花が首を傾げながら言えば、安曇は包帯の奥で小さく笑う。
「そうだね」
ザザ……ン
波の音に紛れて、どこかの船の汽笛の音がする。
(変なの)
こんなに平和な昼間に、景色に合わない人がいる。
暑さのせいか、疲れているのか。
瑠花はそんなことをぼんやりと考えていた。
「あ」
瑠花はポケットを漁り、砕けたポーンを取り出した。
「ごめん、壊れちゃった」
あの犯人に突き飛ばされた時、瑠花の手の中のポーンは、ぽっきりと折れてしまっていた。
気づいた時は少し泣きたくなった。
自分の無力さを思い知らされた気がして。
「……そう」
安曇はそれを受け取ると、少し眺めて手の中で弄ぶ。
「……」
「……」
ザァーン……ザァーン
安曇は何も言わず、海を見ている。
いつも騒がしい瑠花だが、この沈黙は嫌ではなかった。
チラリと安曇の顔を見て、そのまま和服の中から見える布に目を移す。
包帯は暑そうだ。
「……」
本当はずっと、安曇に会えたら聞きたいことがあった。
瑠花は視線を上げる。
「安曇はさ」
「……うん?」
「なんであの日、ボクを助けたの?」
逆光でよく見えないが、瑠花の問いに安曇は目を細めたようだった。
「助ける必要なかったよね?」
黒鉄組なんていう暴力団の人が、まるでライトカイザーのように。
──困っていたから助けるなんて。
そんなのまるで、正義の味方みたいじゃないか。
(ボクは何も……できないのに)
じわりと胸に広がる無力感。
それは緩やかに──けれど確実に瑠花を蝕んだ。
ミャー……ミャー……
ウミネコの声が通り抜けていく。
「……」
安曇は何も答えない。
瑠花は苦笑した。
(何を答えてほしかったんだろう)
いっそ否定してほしかったのかもしれない。
そんな、正義の味方なんていないのだと。
なんだか泣きそうだ。
(──ヒーローになりたかった)
でもなれなかった。
テスト前に、明日世界が滅べばいいなんて願う子供のように。
ヒーローなんて存在しないって言ってほしかった。
小さな波が寄せては返し、瑠花を覆う黒い影が僅かに揺れる。
「昔」
「?」
静かな波の音の中、ポツリと口を開いた安曇に、瑠花は顔を上げる。
「確か……僕が十歳くらいだったから、もう九年前か」
ザザ……ン……ザァーン……
瑠花の横に立つ安曇は、見た目は包帯ぐるぐるの怪人だというのに、その声はどこまでも落ち着いていて静かだった。
「当時から僕はこの包帯姿で、寝込んでいることも多かった。そのせいで周囲から随分と舐められてね」
そこに感情は見えない。
ただ淡々と、他人事のような声だ。
「……」
包帯だらけの小さな男の子。
普通だったら、病院で寝たきりになっているひどい病の人は大切にされるだろう。
でも彼が生きてきた場所は、黒鉄組というヤクザだった。
「よく殴られていたんだけど」
笑えないそんな話を、なぜ彼が突然始めたのかわからなかった。
でも瑠花は、耳に染みる声に不思議と聞き入ってしまう。
「ある日、僕よりずっと小さな女の子がね……その中に突然乱入してきて追い払ってくれた」
「え」
この安曇が。
どこか不尊で、上に立つ者という空気を出している傲慢そうな男が。
驚くと同時に、なぜかその話に既視感を感じた。
「……」
三人の少年に囲まれて、蹴られて、笑われる包帯だらけの男の子。
──あれ?
「まあ、別に、殴られてもいいかと思ってやられていたわけだけど。馬鹿どもを追い払って胸を張るその子は──」
安曇はクスリと笑った。
「小さなヒーローだったね」
「──」
『はなちゃんが守ってあげる!』
小さな女の子がニカッと笑って言い切った。
何も知らなかった、まだウルドの記憶すら曖昧だった頃の──?
呆然と瑠花が言葉を失っていると、安曇は懐から先程のポーンを取り出す。
「君はチェスのルールを知ってる?」
落ち着いた声に、瑠花は吸い込まれるような気持ちになる。
戸惑いつつ、詳しく知っているわけではないのでふるふると首を振る。
安曇は小さく頷くと、瑠花を静かに見つめる。
「将棋では成るといっていくつかの駒に昇格があるけど、チェスでそれができるのはこのポーンだけだ」
安曇は壊れかけたポーンを見つめて、もう一度瑠花の手に置いた。
「ポーンは──」
逆光の中で、安曇がどんな表情をしているのか瑠花にはわからない。
「──歩みを止めなければ何にでもなれる」
そして、瑠花の手にはもう一つ。
「最強の駒の、クイーンにだって」
「っ」
黒のクイーンが、瑠花の手に置かれていた。
「僕は、君が何をするのかに興味がある」
夜を思わせる安曇の低い声は、陽の光に焼かれる瑠花の元に染み込むように届く。
陽の光を浴びた黒のクイーンは輝いていた。
路地裏で力無くへたり込む瑠花。
──石を投げられて死んだウルド。
何も出来ないと嘆く自分。
──胸を張る小さな女の子、幼い日の瑠花。
折れたポーンと輝くクイーンが、やれることはあるのだと。
「……ボクに何ができると思う?」
「さあ? じゃあ、止まるの?」
『お前は頑張ってる』
節の笑顔が、背中を押してくれる。
瑠花は二つの駒を握りしめ、半ば睨むようにキッと顔を上げた。
「歩く!!」
「……」
安曇はふっと笑みを浮かべる。
瑠花は安曇をまっすぐに真剣な表情で見つめた。
「でも、ボクにできることは少ない」
「……」
すーっと、胸いっぱいに空気を入れる。
「だから!」
一際大きな声で、選手宣誓をするように。
ザァーー……
風が、波が、小さな鳥の影が通り抜けていく。
「安曇、力を貸して!!」
たとえどんな手を使ってでも、何としてでも犯人を『捕まえたい』
これが、瑠花の意思表示だ。
「……いいね」
いつかと同じようにニヤリと笑う安曇に、瑠花もニカッと笑う。
無敵のヒーローになんてなれなくても。
──心に星がある限り。
「ボクは戦い続ける!ってね!」
瑠花は立ち上がって、グーッと背伸びをする。
(もう負けない)
夏はまだ終わらない──
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