第16話 手のひらを太陽に
暗い路地裏から、争うような音がする。
「っ!!」
無意識のうちに瑠花はポケットに手を入れ、ついつい持ち歩いてしまっているポーンを握る。
(怖い──でも!!)
震える足を一歩、また一歩と踏み出す。
(行か、ないと……)
──!!
小さな悲鳴が聞こえた。
そして──
「!!」
そこは、幅二メートルもない袋小路。右は錆びた非常扉、左に濡れた段ボールの山がある路地裏だった。
そこには尻もちをついた節と、それを庇うように立つ京介。その前に帽子の男。
そして、京介の左胸には──ナイフが突き刺さっていた。
「っ!……っ!!」
男は握ったナイフを京介から抜こうとしているようだったが、そのナイフを京介が抑えている。
ナイフが動くたび京介はコホッと口から血を零す。
「──」
(どうしよう、どうしたら……)
瑠花が震えていると、京介は口元に笑みを浮かべる。
「……絶対、離さねーからな」
睨むような、不敵な笑みだった。
「っ」
男は怯んだようにナイフから手を離し──ドンッ!!
男は京介を節に向かって突き飛ばした。
そのまま瑠花のいる袋小路の出口に向かって走り出す。
「──ひっ!」
瑠花の喉からひりついた音が漏れた。
犯人の走る様子が、まるでスローモーションのように映る。
──手についた赤。
そして犯人の血走った目に射抜かれて。
瑠花は固まる──
そのまま避けることさえできずに、瑠花は男に突き飛ばされた。
「っ!!」
鈍い音と共に背中が壁に激突し、一瞬息が止まる。
咳き込みながら、瑠花はズルズルと座り込んだ。
走る足音がどんどん遠く離れていく。
足音が遠ざかるたび、心音だけが耳元で大きく響く。
「う……」
(お、追わないと……)
そう思っても足が動かない。
ガタガタと震えが止まらない。
「き、きょうすけ……」
「!」
泣くような節の声に、瑠花はゆるゆるとそちらを見た。
節の上に倒れ込んだ京介の胸は赤く染まり、しがみつく節にも反応しない。
「きょ、すけ、京介ぇぇえ!!」
路地裏にまた赤い色が広がっていく。
悲痛な叫びが、悪夢の再来を告げるようで──瑠花は歯を食いしばり、救急と警察へ通報した。
何度でも、闇に足元を掬われる。
悲しみと恐怖が、瑠花を飲み込もうと口を開けているような気がした──
京介は生死をさまよっている。
二日経った今もまだ、意識は戻らない。
病院の個室でたくさんの管に繋がれて眠る京介は、いつもの軽さと明るさをどこかに置き忘れたかのように静かに眠っていた。
「……」
どう声を掛けたらいいのかわからず、瑠花部屋の隅で立ち尽くした。
ベッドの横に座った節の目は涙で腫れていて、悲痛な面持ちでじっと京介を見つめている。
「ごめんなさい」
瑠花がポツリと零した言葉に、節がふっと顔を上げる。
「ボクが……ボクがあんな依頼さえしなければ……」
「瑠花……」
節は椅子から立ち上がり、弱々しく微笑み瑠花の前まで歩いてくる。そして。
──ズビシッ!
瑠花の頭にチョップを食らわせた。
「ばかたれ」
「!?!?!?」
目を白黒させて節を見れば、泣き腫らしたであろう目は真剣だった。
「悪いのは犯人だ。お前じゃない」
「!」
ヒュッと瑠花は息を飲む。
病室はシンと静まり、ピッ─ピッ─という心電図の規則的な音のみが響く。
節は瑠花の肩を掴んで、泣きそうな顔をした。
「あんなに泣きそうな顔で、大事なお母さんとの約束まで反故にして! 必死に走ってきてくれたお前が悪いわけないだろ!」
「っ」
ツンと鼻の奥が痛くなる。
節は瑠花をぎゅっと抱きしめる。
「悪いのは犯人だよ……! 当たり前だろ!」
繰り返される言葉に、視界がぼやける。
瑠花はグッと唇を噛んで節の肩に顔を埋めた。
「だいたいお前が悪いって言うんなら、私の方が土下座でもしないとダメだろ。あんな……道案内頼まれたからって、ホイホイと……」
節の声が震え、抱きしめる力が強くなる。
「みんな、誰かを責めたいんだよ。つらくて、どうしようもないから」
「……」
吐き出すように言う節の言葉一つ一つに、強い思いがあるように感じた。
「……だから近くの誰かを責めるんだ。お前がお前を責めてるように」
「……」
「責めるなよ。まだまだガキのくせに。お前はまだ子供なんだ。誰かのせいにしたっていいんだよ」
一言一言、言い聞かせるように、節自身も泣いてるのかもしれないし、自分に対しての言葉もあったのかもしれない。
でも──
「お前は頑張ってる。お前は悪くないよ」
「う……うぁ……」
ボロボロと落ちる涙に、節は瑠花の頭を撫でる。
──その言葉はきっと、瑠花がずっと欲しかった言葉だった。
いつの間にか節も泣いていて。
静かな病室で、二人はしばらく泣き続けた。
ややあって、照れくさそうに。
「こういう空気は京介苦手だからさ、お前は笑ってていいんだよ」
そう笑った節を、大人だと瑠花は思った。
***
結局、瑠花はあの現場にいなかった事になった。
節が気を利かせて母に口添えしてくれたからだ。
事件から一週間が経った。
京介も四日目には意識を取り戻したが、傷の経過から当分は入院することになった。
(ボクは結局、何もできなかった)
恐怖で固まって、犯人を止めることも追うことも。
合気道を習ったところで、何の力もない。
『大丈夫よ、あなたは悪くないわ。私が守ってあげるから、何の心配もしなくていいの』
節とほとんど同じ言葉なのにこうも響きが違う。
瑠花は苦笑した。
セシリアの幻聴を、久しぶりに聞いた気がした。
(セシリアは……)
なぜあんな風にウルドを壊したのだろうか。
何がしたかったのか。
海辺で見た彼女に会いたくなった。
覚えているのなら聞いてみたい。
覚えていないのなら吹っ切れる。
そんな気がした。
「……いない、か」
堤防を歩く。
夏の日差しは今日も強く、ましてや昼過ぎのその時間は一番暑い。
汗がゆっくりと頬を伝う。
眩しさに目を細めながら、瑠花は海辺にせり出した場所まで歩みを進める。
(確かあの日はこの辺にいたんだけどな……)
ジリジリと照らす太陽に汗を拭い、瑠花は堤防に腰掛けた。
手のひらを太陽に透かせば、有名な歌のように血の流れが見える。
空には雲ひとつなく、青い空はどこまでも高く見えた。
ミーンミンミンミーーー
蝉の声が響いて、瑠花はそっと目を閉じた。
(いっそこのまま溶けてしまいたい)
ミーンミンミンミーーー
潮風はじっとりと湿っていて、海の匂いが強い。
瞼の裏まで眩しくて、瑠花は小さく息を吐く。
そこに──
(?)
ふっ──と影が落ちた。
「相変わらず、自罰的な子だね」
その声は、いつかの雨の日に聞いた声。
目を開ければ、全身包帯の男が上から瑠花を覗き込んでいた。
「……安曇」
安曇の背に遮られた真夏の日差しは、瑠花を避けてキラキラと輝いている。
夜が似合いそうな怪物じみた風貌の男は、影を作るように、いつかと同じ薄い笑みを浮かべて立っていた──
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