ep2-4
やはり寝台列車という選択が間違いだったかも知れない、と私は急遽変更を余儀なくされた函館のホテルのロビーでノートパソコンを徐に広げて一考に耽った。
仕事と関係ないから余計に手が捗ってしまった。列車の出発からずっとロビーの虫でこの駄文が完成へ向かいただ真っ直ぐ走る。
この言葉さえパソコンで文章に起こしているのは職業病だろうなと、納得して嘆息していた。
しかしあの旅人たちに出会って時針が狂ってしまった。その遅れを取り戻さないと。もう会う事もないし、一切忘れてしまおう。
覚えていても仕方ない。もうすぐ私、『佐伯 薫』というアイデンティティは消えるから。あの少女の記憶からも、私はきっとすぐにその体を失うはずだ。
そう、考えていてもダメだと雑念を振り切って、私は筆を執った。結界を張って誰の干渉もない世界に浸って。
悩みながら集中力を研ぎ澄ませて進めていたら、気づけば夕方だった。外の様相は相変わらず、濃い雪の壁に覆われて、次第に雲の向こう側の太陽の明るみさえも失いつつあった。
「光莉あなた、スキーできるの?」
「バッチリです! 地元だって山一つ越えたら雪国なんですから」
「と言って、生まれたての小鹿のように足をビクつかせてる人をよく見るのだけど」
「あんなの迷信です! そのジンクス、私が打ち破って差し上げますよ!」
ロビーで無邪気に反響する声。数時間と続いた集中という一本の糸が解けて、私はパソコンから目を離した。
赤の他人なら不随反射では至らないであろうと自覚はある。けれどそれが名前を交わした誰かの声、旋律ならば別だ。間違いない。終点まで走るつもりが途中で降りたことが失敗だったと訝って後悔した。
ロビーカウンターの前に二人の女性。金髪の方は頭にない。その横の黒い髪の妙に低姿勢で丁寧な言葉遣いの、年端もいかない少女は存じている。
七見とか言った。私のこの文章を視た一人。そして、一瞬固まって、去り際に嘘と捨て台詞を吐いた奴だ。
オーバーアクションにも思える身振りや手ぶりで、意気揚々と話すその姿に何故か嫌悪感が沸いた。生き生きとしているその顔に、表情に、瞳に苛立ったのだ。
瞳が合う。こちらに気づいて隣の彼女に耳打ちすると、駆け寄ってくる。自然とノートパソコンを折りたたんで迎えた。
「また会いましたね。なんて奇遇」
「後をついてきたのかい?」
「不躾なことはしていません。本当に偶々ですよ。お仕事の進捗はどうです?」
「作家にそれを聞くかい? それも遅筆の私に」
「不粋ですか? なら謝ります」
「構わないよ。慣れてる。順調——とはとても言えないかな」
あなた達と出会ったから。口が裂けても棘のある言い草はせず心で噛み殺した。
光莉はならばと、前屈みになって手にしたチケットを差し出した。
「気分転換も兼ねて一緒にスキーでもどうですか?」
「……本気かい?」
「リフト券です。偽物じゃないですよ?」
「連れがいるだろう。迷惑にならないか?」
「さっき伝えて用意していただいたので大丈夫です」
柔和な微笑みだったが、その隙のない性格に慄いた。答えを渋っているといつの間にやら横にいた金髪の少女が私に、
「私からのお願いでもあるわ。この娘のエスコートだと思って引き受けてくださらないかしら? お礼もするわ」
「……わかったよ。けれどあまり期待しないで欲しいな。修学旅行以来だから」
結局根負けしてスキーをする羽目になった。ロビーにパソコンを預けて、黒に染まりつつある雪原へ躍り出た。
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