【月を喰む】

椿 蘭丸

【月を喰む】

 「じゃあ私、月を食べさせて頂きたいわ」

 ねえ、いいでしょう?

 そう、女は私に駄々を捏ねた。

*****

 やっと纏った取引先からの直帰の道すがら、私は何気に昔から気になっていたとある小さなBARに足を踏み入れた。

 普段の私にはそこは少し格式が高そうで敬遠していた場所だった。

 ただ、困難だった交渉を成立させた高揚感が私の背中をちょっと、押した。

 カラン、と控えめに鳴るカウベルにやはり凛とした佇まいの髭を蓄えたマスターが私に目を遣り、そして、耳に心地良いバリトンボイスで「いらっしゃいませ」と、出迎えてくれた。

 その、かつての二枚目の破顔がとても好感が持てた。

 店にはまだ時間が早いせいなのか客は女が、一人。

 私はその女の反対側のカウンター席に促された。

 マスターの話を肴にドライマティーニを嗜んでいるその女は楽しいのか始終、微笑んでいた。

 マスターにオーダーを聞かれ、いつもならソルティードッグから始めるのが常だったのだが、余りに女が美味しそうに飲んでいるものだからつい、「私にも、マティーニにを」と、口を付いた。

 それを聞いたマスターはまた破顔し、女も、グラスを少し持ち上げながらこちらに小首を傾げて小さく挨拶をしてくれた。

 その、女は酷く綺麗で特に、口元がとてもセクシーで印象的、だった。


 月が綺麗な夜、だった。

*****

 気分のとても良い私は気前良く「彼女にも」同じのをと、柄にもない事を口走る。

 マスターが出してきたマティーニに驚いた女がウインクしながら定番の「あちらのお客様からです」と、仰々しくも畏まってもなく本当に自然と流れるようにANSWERを発した。

 女は甚く気に入ってくれたようで、それを小指を持ち上げながら手に持ち、するりとまるで猫のような仕草で、私の隣の席に移って来た。

 「私、待ってたのよ?」

 驚いた私がその言葉を聞く前に女はするするとそのまたANSWERを私に語った。

 「私、いつもこの小窓から貴方の事、見てたの」

 唯一、店から外が見えるカウンター横の小さな窓から、女は私が帰路に就くのをいつも眺めていたのだと、いう。

 「ここに入りたそうにしてる顔してたから、いつ、来てくださるのか賭けをしていたのよ、私たち」

 ね、マスター?と、女がコロコロと鈴が転がるような声で、笑った。

 マスターも、ニッコリとして少しだけコクンと、頷いた。

 「それで、賭けの勝敗は?」

 その言葉を聞くと女はまた、コロコロと嗤った。

 「どちらも【いづれ来てくれる】に、賭けちゃったの」

 それを聞いて私は少し、大きな声で嗤ってしまった。

 「それじゃあ、賭けになってないじゃないか!」

 私の言葉を受けてまた、マスターはニッコリし女もコロコロと嗤った。

 「そう、賭けはオジャンよ」

 いいのよ、こうして貴方は来てくれたんだから、ね、マスター?

 また、マスターが人懐こい笑顔でハイ、とそれに応えた。

 女がぐっと、私からのドライマティーニを喉を反らしながら飲み干した。

 私はその上下する細い喉元の躍動に、魅了された。


 楽しい一時だった。

*****

 お目当てのソルティードッグから、一通り流して締めにまた、マティーニを煽り、私と女は二人とも少し覚束ない足でマスターに「お気をつけて」と微笑ましそうに見送られながらBARを後に、した。


 後は、野暮ってもんだ。

 出会った時からいや、私が店に入るずっと前から意気投合していた私と女はどちらからともなく、連れ込み宿の立ち並ぶ地区に足を踏み入れその一軒の、敷居を跨いだ。

 

 上等の酒に酔いしれた女の上気した柔肌はまた、一種の美酒だった。

 私はそれを一滴も残らず啜ろうと女の身体を堪能し尽くした。

 女も、そんな私にとことん付き合うわとでもいうように私を受け入れ、その優しい腕に掻き抱いてくれた。

*****

 気を良くしていた私は女に「何でもくれてやる」と、大口を叩いた。

 すると、女はふと真顔になりそして、こんな酔狂な事をいい始めた。

 「じゃあ私、月を食べさせて頂きたいわ」

 ねえ、いいでしょう?

 そう、女は私に駄々を捏ねた。

 私はてっきり宝石の類を強請られると思い込んでいたので、拍子抜けしてしまった。

 「月を?そんなもの、どうやって食べるというんだい?」

 もしやこの女、気でも触れているのか?

 私はそこまで考えてしまった。

 女にはそんな私の思考はまるっとお見通しのようで、

 「やあねぇ、私のおつむを疑うだなんて」

 と、裸の胸をとんと、その細い人さし指で小突かれた。

 「ちょっと考えれば、簡単な事よ?」

 女はそういうと、私を座らせて、両手を差し出すように指示した。

 きょとんとしながらも私は女にされるがま間になっていた。

 掲げるように差し出さされた両手にいきなり、宿に頼んでいた冷酒を流し始めたものだから私は慌てて手のひらの脇と脇をしっかりと締めて椀のようにその酒を、受け止めた。

 それを見て、女は私に「いい子」といった。

 そうして、「ほら」と、その中を指し示した。

 やはり気が大きくなって連れ込み宿のメニューの中でもとびきりの値段の澄み切った酒に浮かんでいるのは、まあるい、月。

 あっ、と思ったその瞬間に女は私の手の中の酒を一気に飲み干した。

 たわわな胸に清酒が滴るのも構わずこくんこくんと、飲み干され空になった私の掌を私に見せ、

 「ね?簡単な事だったでしょう?」

と、悪戯っぽくまたコロコロとわらった。

 私は、何だか急にこの女が一層愛しくなり、またも女の身体を求めた。

 そんな私の髪を、愛し子のそれでもあるかのように細い指で優しく、優しく女は梳いてくれた。


 私のその夜の記憶はそこで、途切れている。

*****

 起きてみると私は、一人だった。

 宿の仲居がいうには女はここの代金を気風良く払って夜更けに帰っていったそうだ。

 うっかりして名前も聞かなかった事に絶望しかかったが、また、あのBARに行けば会えるかと思い直し、慌てて朝の身支度を整えて出社した。


 ところが。

 あの、BARが、ない。

 あったはずのそこは今流行りの若い女がやや過剰な給仕をする、所謂【ガールズバー】になって、いた。

 私はまだ、酔っているのだろうか?

 マスターの人誑しな笑顔も、

 ドライマティーニの甘ったるさも、

 あの、とびきりの美酒のような女の肌も、みんなみんな、覚えているというのに。


 ただ一つ、その一つだけが、どうしても思い出せない。

 宿で子供のようなやり取りをした、月を喰んだ女の、口元が。

 あんなにも魅力的でそこに惹かれて溺れたというのに、だ。

 「私の愛しい、春樹」

 確かに、お互い名乗りもしなかったはずの、私の名前を女は知って、いた。

 その、優しいトーンで私の名前を呼んでくれた口元が、思い出せない。

 思い出せない。

 思い出せない。


 私は、半狂乱になってしまった。

*****

 あれから、

 どんな酒を煽っても、

 どんなに良い女を抱いても、

 何も、

 そう何も、

 感じなくなってしまった。


 そうだ。

 あの時、

 私の心の【月】は、女に喰われてしまったのだ。

 だが、それはもうどうでも良かった。

 私の心などくれてやってもいい。

 誰か、

 誰かその女の口元を、思い出させてくれ!


 お願いだ、

 頼むからまた、【春樹】とその口唇で優しく呼んでくれ。


 後生だから…。

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【月を喰む】 椿 蘭丸 @ran-maru-san

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