第14話 愛は惜しみなく奪え
賑やかな人の声が聞こえた。
ゆっくりまぶたを開けると、懐かしいストリートコートが見える。
いつか見た夢のような光景だ。
コートの中には自分の仲間たちがいて、楽しそうにバスケットをしている。
その中には、一際大きな身体の“彼”の姿もあった。
自分の身体はコートのすぐ外にあって、足を一歩でも踏み出せばコートの中に入る。
青く晴れ渡った空と、真夏の苛烈な太陽。
自分の生まれた故郷。仲間たちのいる街。
なぜか、直感で気づいた。
きっと、このまま足を踏み出してコートの中に入れば、この夢は現実になるのだと。
元いた場所に帰れるのだと。
不意にコートにいた仲間たちが自分に気づいて、笑って手を振った。
早く来いよ、と呼ばれて、それでも足を踏み出すことは出来なかった。
帰りたくないわけじゃない。大事じゃなくなったわけじゃない。
愛したスポーツも、彼らのことも、捨てたいわけじゃない。
それでも、もう、戻ることを選べなかった。きっとどちらを選んでも、悔やむ気持ちは残るだろう。
けれどどのみち悔やむならば、自分は愛した男のそばにいたかった。
信頼する仲間で、悪友で、弟のように手のかかる問題児だった男が、自分を見て名を呼んだ。
同時に誰かがきつく手を握った。視線を動かしても、よく見えない。夢か現か曖昧な場所だからだろうか。
ただ、「行くな」と訴えるように、きつく自分の手を掴む感触だけはひどく鮮明で、振り払うことなんて出来るはずがなかった。
口元をそっとゆるませ、見えない手に自分の空いた手を重ねる。
どこにも行かない。おまえのそばにいる。
そう伝えるように。
視線をコートに戻すと、靄がかったように曖昧になって、仲間たちの姿もよく見えなくなっていた。
「…さよなら。
元気で」
わずかに唇を動かして一言告げると、ゆっくりとコートに背を向ける。
瞬間、なにかがそばを通り過ぎた気がして振り返って、目を見開いた。
自分と入れ違うようにコートの中に入っていったのは、自分と同じ姿をした男。
金色の髪に碧い瞳のうつくしい容姿の青年。
(ああ。そうか。そうだよな。オレがあの世界に行ったなら、元々あの世界にいた“オレ”が――)
どんどん世界は薄れて行って、コートも仲間たちの姿も見えなくなる。
自分の手を引く感触だけは、決して消えることはなかった。
自分の手を握るあたたかな感触に意識を引かれて、ゆっくりとまぶたを開ける。
まぶしい明かりと、見慣れた大きな寝台の天蓋と、馴染んだ城の自室が見えた。
「ハーティス!」
それから泣きそうな顔をして自分をのぞき込む愛しい男の顔も。
「ハーティス!
だいじょうぶか!?
オレがわかるか!?」
「………ああ、わかる。
だいじょうぶだ。
…もう、どこにも行かないと言っただろう」
きつく自分の手を掴んで名を呼ぶオルバーに、ただ安堵して微笑んだ。
「…っああ。
…そうだったな」
オルバーは顔をくしゃくしゃに歪めて笑うと、ハーティスの身体をやさしく抱きしめる。
あたたかい。脈打つ鼓動を感じて、ただ幸福だと思った。
「…みんな無事か?」
「ああ。ニコラスたちもみんな無事だ。
人質使われて手引きせざるを得なかったやつも無事だぜ。
事情はわかってるしな。
そいつの恋人も無事だったし、住民にも被害はない。
先王どもは牢獄にぶち込んだし、これでぜんぶ片付いた」
「…そうか。
悪かった。
大変なときにぶっ倒れちまって」
やっぱり体力が落ちてたんだな、とつぶやいたら、オルバーの動きが一瞬固まった。
そのままゆっくり身を離され、やけに神妙な面持ちで彼が自分を見る。
「…どうした?」
「…いや、あの、…おまえが倒れたのは、…オレのせいっつーか」
「…?
まあ、おまえに軟禁されてたせいで体力が…」
「いや、そうじゃなくてその」
「…そうじゃない?」
オルバーはずいぶん歯切れが悪く、自分を案じるように何度も視線を向けてはまた逸らす。
「…あのよ、おまえにとっちゃ、望ましくねえことかもしれねえんだが」
「…ああ…?」
「…その、…いるんだ」
「…?
いる…?なにが…?」
「だから、その、…おまえの腹に、…オレの、子供が」
「……え」
言いにくそうな、罪悪感のにじんだオルバーの言葉に、一瞬呼吸が止まった。
思わず視線を服に包まれた自分の腹部に向ける。
今はまだ目立ってふくらんでいないためわからないが、オルバーの言葉が事実ならば、ここに彼の子供がいるということで。
まあ、一月近くずっと抱かれてばかりいたなら、子供を身ごもっていてもまったくおかしくはない。
あの体調不良もそのせいだと言われれば納得も出来る。
「…そうか」
理解して胸にわき上がったのは、ただあたたかいばかりの喜びと幸福だった。
それが表情にもにじんでいたのだろう。
やわらかくほころんだハーティスの顔を見て、オルバーが目を見開いた。
きっと彼もうれしくないわけじゃない。ただ、今まで合意で自分を抱いたことがなかったからこそ、自分がこのことでどう思うか、苦しませたりしないかが心配だったはずだ。
「そんな顔はしなくていい。
…オレは嫌じゃない」
「…ッ、ハーティス…」
「それともおまえはうれしくねえか?」
「そんなわけねえだろ!」
わかっていて問いかけると、思った通り全力の否定が返ってきてハーティスは笑ってしまう。
「オレがうれしくねえわけがねえだろ!
オレとおまえのガキだぞ!?
うれしくないわけねえだろ!
…っただ、これ以上、おまえを苦しめたくなかっただけで」
「おまえに苦しめられた覚えは、オレはないんだがな」
「え」
「誤解してるかもしれないが、…おまえに抱かれて嫌だったことは一度もねえよ」
結局自分は、オルバーと引き離されることに怯えていただけなのだ。
彼自身を拒んだことなんて、ほんとうは一度もなかった。
オルバーはこみ上げる涙を必死で堪えるように顔をゆがめ、ハーティスの手にそっと触れた。
「…いいんだな…?
ほんとうに、おまえをぜんぶ、オレのもんにして」
「今更じゃないか。
――愛を誓ってくれるんじゃなかったのか?」
これでも楽しみにしてたんだぜ?
そう言って笑ってやると、オルバーはハーティスの細い身体をそっと抱き寄せ、白い手をやさしく包み込むように握って、その薬指にくちづけを落とす。
「愛してるぜ。ハーティス。
ずっとそばにいてくれ」
あのとき、夜のバルコニーでも同じ言葉を告げられた。
けれどあのときは、彼の手を取ることが出来ずに逃げてしまった。
もう、迷いはない。彼の手を離す気はなかった。
身を寄せて、彼の首に腕を回すとやさしく唇を重ねる。
「オレも愛してる。
――マルク」
ずっと、彼をなんと呼びかけたらいいのか迷っていた。
その名前は、元の世界の悪友には、ただの一度も呼びかけたことのなかったものだ。
自分にとっては、彼だけを示す呼び名だ。
ほんとうのことを知らずとも、そのことだけは伝わったのだろう。
銀色の瞳からあふれた涙を止めようともせず、オルバーは自分の身体を抱きしめて愛おしげに髪の一房にキスを落とした。
それから二月ほど後のよく晴れた日、王都は国中の民が集まったかのように賑わっていた。
この日、いよいよ国中の民が待ち望んだ、新女王の戴冠式が行われる。
暴虐の限りを尽くした先王たちが処刑され、強国の後ろ盾も得たこの国は日々順調に復興し、活気を取り戻して来ている。
それらを成した新女王は、民にとっては天から舞い降りた女神そのもの。だからこそ、その戴冠式を一目見ようと国中から民たちが王都に集まったのだ。
「おおおぉぉぉぉ…!
すっげえ綺麗じゃん!」
「おまえが破格にうつくしいのはよくわかってたが、いやー、マジで女神様みてえ…!」
「褒めてもなにも出ねえぞおまえら」
城の最奥にある女王の私室で支度をしていたハーティスを見て、ニコラスとレックスは感動したように頬を紅潮させている。
この戴冠式のために仕立てられた真っ白のドレスはとてもよく似合っていて、肩に掛けられた金糸の刺繍が施された白いマントと合わせてひどく神秘的でうつくしい。
「でもだいじょうぶか?
苦しくねえ?」
「ああ、あまり身体を締め付けないように出来てる。
もっと時間が経つとさすがに腹が目立ってくるだろうから難しいだろうが」
「安定期に入ってるとはいえ、苦しくなったらすぐ言えよ?」
「わかってる」
ドレスをまとったハーティスの腹部はまだあまり目立っていないが、胎内では順調に新しい命が育っている。
ハーティスがオルバーの子を宿したと知ったときはニコラスたちも驚いたが、反対するものはほぼいなかった。
少なくとも城にいる者は皆、オルバーの気持ちを十分わかっている。
一時ハーティスが表に出て来なかった間のことは、ニコラスたち一部の事情を知る人間以外の者は「妊娠初期で体調を崩して起き上がれなかったのだろう」という結論になったらしい。オルバーへの疑いも、先王の一件で十分な働きをしたことで晴れている。
まあ実際、軟禁してはいたんだが、謀反じゃなかったんだし。結果的にそれで王になる決心が付いたのだからいいじゃないか、とハーティスも思った。
ハーティスの身に宿った子が無事産まれれば、当然王位継承権第一位を持つことになる。
そして、その父親であるオルバーも名実共に女王の伴侶として認められるだろう。
二人の結婚を反対しているのは、女王の伴侶の座をしぶとく狙っている他国の王子や貴族くらいなものだ。
「それで?
その父親はどこに行ってるんだ?」
「扉の向こうにいるぜ。
おまえよりあいつのほうが緊張してどーすんだろうな?」
「そりゃあまあ緊張すんじゃねえの?
戴冠式と同時に、ハーティスとの結婚式でもあるんだからよ。
最愛の女王陛下との挙式ともなればまあ緊張もすんだろ。
実際、あのオルバーが朝食も喉を通らなかったみたいで――」
「おいこらてめえバラしてんじゃねえよレックス!!!」
によによと笑いながらハーティスに報告したレックスに、オルバーが真っ赤な顔で怒鳴り込んできた。
当然彼も正装している。その格好を見てハーティスは目を瞠り、
「馬子にも衣装だな」
と率直な感想を口にしてニコラスとレックスを吹かせた。
「ほら見ろぜったいハーティスならそう言うと思った!
オルバーそういう服装マジ似合わねえ!」
「い、いや、まじめな話似合ってないわけじゃねえんだろうけどもな!
いつもとのギャップがな!」
「てめえらもう外出ろ!!!」
腹を抱えてひーひー笑っているニコラスとレックスを部屋の外に追い出し、オルバーは荒くなった息を吐く。
ただでさえこんな畏まった衣装を着るのははじめてなのに、余計に汗をかかせないで欲しい。
不意に背後でくすくす笑う声が聞こえて、オルバーはゆっくりと視線を向ける。
よほど楽しかったのか、無邪気に笑う顔は天使のように可憐だった。
衣装も相まって、ほんとうに天から遣わされた女神のように神々しい。
ますます頬を真っ赤に染め上げ、見惚れたまま動けなくなったオルバーを見てハーティスは瞳をやわらかくゆるませる。
「怒ったか?」
「…っえ、あ、いや、べつに」
「さっきのは冗談だ。
そういう服装ははじめて見たが、格好良いぜ」
「…ッお、おまえこそ、…マジで女神かと思った」
「散々オレのこと悪魔みたいだとか言っといて」
「あっ、あれはその!
べつに嘘じゃねえけど、悪い意味じゃねえんだよ!
オレはそういうとこひっくるめて、おまえに惚れてんだから!」
「ああ、知ってる」
ハーティスは「ちゃんとわかってるよ」ととびきりやさしい笑顔で頷いた。
「おまえはオレの本質もぜんぶわかった上で、愛してくれたんだからな」
「…当たり前だろ」
目の前で咲き誇る大輪の花のような微笑みに目を奪われたまま、オルバーはうわずりそうになる声で告げて、ハーティスの腰にそっと腕を回す。
「…ほんとうに、綺麗だ。
独り占めして、誰にも見せたくねえくらい」
「なに言ってるんだ」
「…わかってるよ。
おまえはこの国の女王だし、独り占めなんて」
「そういう意味じゃねえよ。
おまえはほんとうにバカだな」
オルバーをなじる声すら慈愛に満ちている。ハーティスは白い手袋を嵌めた手で赤らんだ伴侶の頬に触れる。
「女王としてのオレは確かにおまえひとりのものではないだろうが、オレはおまえの妻にもなるんだぜ?
女王ではない、こうしておまえの腕の中にいるときのオレは、…おまえだけのものだろう」
まるで砂糖菓子のような言葉も、その耳をくすぐる声も、一心に己だけを見つめる碧い瞳もなにもかもがひどく甘い。
「覚えておけよ。マルク。
オレは神頼みなんぞいっさいしない主義だが、もしオレとおまえを巡り合わせた神とやらがいたとして、無理矢理オレたちを引き離すマネをするようなら、オレはなにがなんでも、どんな手段を使ってでもその神とやらを殺してやる。
――そのくらいには、オレはおまえに夢中だ」
「…っおまえ、ほんとうに最高にイイ女だな…!」
女神のようにうつくしい微笑みで、まるで悪魔のように恐ろしいことを揺るぎない自信を持って告げる姿は、出会ったときからなにも変わらない。
『跪くのはおまえのほうだ。
オレに逆らうなよ』
きっとあのときから、自分の心は彼女に奪われていたのだ。
生涯、いやきっと永遠に覚めないほどに心を囚われた。心臓ごと掴まれて、もう二度と離れられないほどに、自分の生きる世界のすべてになった。
灰色にひび割れて渇いていた自分の世界を、鮮やかに彩って色づかせた、たったひとりの。
「…おまえも、覚えておけよ。
なにがあってもこれは、永遠に変わらねえ。
オレ様が跪くのは、世界でおまえだけだ」
オルバーは幸福に満ち足りた顔でその場に傅くと、恭しく手袋の嵌まった細い手を取って、その甲にくちづける。
「オレだけの、愛しい女王陛下」
望むなら、きっと何度でも跪いて愛を誓う。
彼女のいる世界が、自分のすべてになった。
跪いて愛を誓え トヨヤミ @toyoyami
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